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Primula  作者: 澄葉 照安登
第九章 冬に咲いたサクラソウ
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ただ甘いだけではなくて

 マグカップにお湯を入れる。

 立ち上った湯気の中にカカオの香りが混ざって口にしてもいないのに口内に甘い匂いが広がる。俺はそれを吹き飛ばすように冷えた吐息でカップの表面をなぞった。

 スプーンを回しカップを両手で包んで暖かさを保ちながら自室に戻ろうと廊下につま先を付ける。けれど足の指から這い上がってくる冷気が思いのほか鋭くて、俺は踵を返してリビングの椅子を引いた。

 ふぅ、とココアを口に運んだわけでもないのにカップを置き深く息を吐いて天井を見上げる。そのままカップから手を離して両手首を太ももの上に置けばスエットの内側にあるスマホとぶつかった。

「…………」

 おもむろにポケットに手を突っ込んでスマホを取り出す。カバーもしていないスマホの側面のボタンを押して画面を立ち上げるとデジタル表示の時計が目に入る。それを見て改めて今日は週末なんだなと思いながら画面に指を置いた。

 フリックしてホーム画面を見つめる。そして少しだけためらってから、緑色のアプリアイコンをタップした。

 すぐに履歴が表示されて、その一番上に目当ての相手が現れる。

 俺はそれに親指を合わせて今一度天井を見上げた。

 親指で隠れたチャット履歴は、あの時から変わっていないようにも見える。けれど親指で隠したところを覗き見れば改めてそれが嘘ではないんだということを実感した。

 週半ばの夜のうちに送られてきていたそれを見ながら、俺はまた深くため息を吐いた。

『突然すみません、松嶋先輩今週の土曜日って空いてますか?』

 本当に突然、この上なく唐突に、彼女はそんなメッセージを送ってきた。そのひとつ前のメッセージは俺が一月半ばに送った疑問符を含んだメッセージなのに、彼女はそれに答えることなく質問をしてきた。

 素直に驚いた。脈絡もなく唐突で、前兆もなく予想外だったから。朝起きてそのメッセージを確認した俺は驚愕のあまり飛び起きた。

 俺はそのメッセージに悪い気持ちを抱かなかった。ずっと返事をくれなかったことに文句を言いたいと思うわけもないし、問いを無視されたからと言ってもやもやすることもない。むしろ彼女から連絡をくれたという事実を確認して俺はたまらなく嬉しく思った。

 だから、メッセージを確認した早朝。俺はすぐに返事を返した。

『空いてるよ』

 彼女の意図を測りかねていたからそんな不愛想な返事だったけれど、送った直後に彼女は返事をくれた。

『もしよかったらなんですけど、出かけませんか?』

『小説の取材に行きたいので』

 続けざまに送られてきたメッセージを見て、俺は口元を緩ませた。

 俺は大きく深呼吸をしてからすぐに返事を返した。

『俺でよければ、行ってもいいかな?』

 永沢さんの方から誘ってくれているのに自信が無くて疑問形で。それでも肩を並べて歩きたいという願望は前面に押し出して返事をした。

 朝七時前だけれど、そんなおっかなびっくりなやり取りを何度か交わして、俺は土曜日――明日、彼女と二人で出かけることになったのだ。

 俺はそれをここ数日毎日のように確認していた。

「夢、じゃないんだよね」

 もしかしたら幻だったんじゃないか、寝ぼけ眼で夢見ていただけなんじゃないかって毎日不安に駆られてスマホとにらめっこをした。

 けれど、それも今日で終わる。

 約束の日は明日だ。もう不安に思いながらスマホを握りしめる必要もない。

 そう思いながら俺は安堵の息を吐こうとして、すんでのところで息を止めた。

 安堵なんて、できるはずもない。むしろ安心して満たされてしまいそうだからこそ俺は自分を戒めなくてはいけない。

 前だって、こうやって期待して間違えたんだ。それも二回も。

 だから、自分にばかり都合のいい考えを消し飛ばすために俺はココアをすすった。ついさっき匂いだけでも十分甘いと感じたが、口にしてみるとそんなの比ではなくて、俺は脳の内側が甘ったるくなるのを感じながら空いているほうの手でスマホを操作した。

 アプリを閉じて、ここ最近よく使っている天気予報のアプリを起動する。数時間単位で天気の動きが表示されるそのアプリは頼りになって、そのアプリを開くのもまた習慣になっていた。

 ここ数日は天気が崩れることは無かった。そして昨日までの天気予報でも雨マークどころか雲がかかる予報すら出ていない。だから俺はわざわざ確認するまでもないだろうなと思いながらもラグのあるそのアプリの起動を待った。

「…………」

 しかし、画面に表示されたマークを見て少しだけ不安になる。雨マークにはなっていないものの、曇天のイラストとともにそれなりに高い降水確率が表示されていた。

 もちろん、アプリを開いた瞬間にトップに出てくる情報は翌日のものではない。今日のものだ。しかし今日ももうあと数時間で終わるというタイミングだ。もしかしたらこの後霧雨でも降るかもしれない。そう思わせるような予報だった。

 タイムリーな情報だから予報というのもいささかおかしな話かもしれないが、それを見て不安に思った俺は冷えた床をつま先立ちで歩いてリビングのカーテンに手をかける。

「…………え?」

 瞬間、ノイズのような音が聞こえて声が漏れる。

 そんなことは無いだろうと思いながら、耳鳴りであってくれと願いながら急いでカーテンを開く。

 目に入ってきたのは真っ暗な空と、水滴で滲んだ窓ガラスだった。

「なんで、このタイミングで……」

 空を見ながら、誰もいないその上に向かって悪態をつく。

 スマホを操作してみれば翌日の天気は雨のち曇り。夕方になれば雨は上がって晴れ間すら見えるらしいけれど、午前中はずっと雨マークが表示されている。

 一応お昼に集まるという話にはなっているけれど、それでも十二時までは雨マークだ。それを見れば不安にもなる。

 幸い中止にするという話は上がっていないけれど、あまりに天候がすぐれないようならばまた後日という風になるかもしれない。そう思ったらなんだか苦しくなって両手を垂れた。

 霧雨というには強い雨脚を耳にしながら、ふうとため息を吐く。

 考えてみれば、彼女と何かあるときはいつも雨がついて回っていたような気がする。

 傘を分け合ったのももちろん雨の日のことで、連絡先を交換したときだって雨が降っていた。十月に学校で二人きりになったのだって台風の日だった。

 俺が雨男というわけでも、永沢さんが雨女だというわけでもないだろうし、そんな風に思ったことは一度もないけれど、俺が彼女と二人でいるときは決まって雨が降っていたような気がする。

 だからだろうか。なんだか今予報外れの雨が降っているのもまた当然と言えば当然のような気がして、俺は頭の中でまた傘を分け合う姿を夢想した。

 海辺に行くのに雨が降った日を快く思うなんて皮肉な話だが、それでもなんとなく歩く距離だけは近づけることが出来るかもしれないと、そんなふうに思ったら悪い気はしなかった。

「…………」

 そう思ったところで、俺はまた頭を振る。

 何度も戒めているのに、気を抜いた瞬間にその考えで頭がいっぱいになる。自分に都合のいい夢ばかりを見そうになる。

 期待してしまうのも、無理はないと自分でも思う。彼女から誘ってくれて、二人で出かけることになったのだ。どうしたって期待してしまうだろう。

 けれど、その期待は簡単に裏切られてしまうことを知っているから。裏切られた時の衝撃を少しでも緩和できるように甘いだけの考えは極力しないように心がける。

 頭の裏に、こびりついている。

 文化祭の時の茜色の部室が。

 クリスマスのことも忘れられないけれど、やっぱりその時のことのほうが俺の中に色濃く残っている。

 だから、不安は晴れない。

 もしかしたらとは思う。けれどそれを戒めないとまた同じような勘違いをして間違いを犯してしまいそうで不安で仕方ない。

 期待と不安でどう踏み出せばいいのかまだわからない。

 きっと、もっと単純に考えてもいいんだと思う。彼女の方から連絡をくれて、二人で出かける約束を取り付けてくれた。ならそれはもうそういうことだと、舞い上がって明日のことを楽しみにしていればいいだけなんだと思う。

 きっと、俺もそう思えていたはずだ。あの時のことがなければ。

 けれど、あの時のことがなかったことになればいいとは思わない。もちろん時間を戻してほしいなんて願望はあるし、無かったことにできるなら無かったことにしてしまえる方が俺自身のためだけでなく文芸部みんなのためにもなる。

 けれどやっぱり、無かったことにしたくはない。

 良い事なんてなかったけれど、あの時の後悔はしたくない後悔だったけれど。それでもそれを無かったことにするのは何か違う気がして、時間を戻してほしいと願うたびにそれに相反する気持ちが顔をのぞかせる。

 不思議なことだと思う。俺がずっと焦がれ望んできた恋というものは、そんな苦しい過程なんて必要としていなかったのに。それをどこかで肯定している。

 だから不思議で、理解しきれなくて。俺はごまかすようにスマホをポケットにしまった。

 結局不安と期待はどちらも薄まってくれないとわかっているから。

 ふうと息を吐く。そして持ったままにしていたマグカップに唇をつけてココアをすする。さっきまで少し熱いくらいだったそれは、一息に煽っても差し支えないほどに冷めていた。

 俺はスプーンをくるりと回してそこにたまったものがないのを確認すると、まだ七割がた残っていたココアを一息に飲み干す。

 冷めてきていたココアはやっぱりそれほどの熱を感じなくて、体を温めるためにそれを選んだというのに体温は変わらないままだ。

 けれど時間をかけてしまったのは俺の責任で、誰に文句を言うでもなく俺は黙ってキッチンに向かう。

 手が痛むほどに冷たい水でカップを軽く流してから改めてスポンジで洗う。そして最後に手に着いた泡ごと冷水で流して食器棚に逆さまに置いた。

「冷た……」

 体を温めようとしたはずなのにプラスマイナスで言えばむしろマイナスだった。俺は袖を伸ばして指先を隠しながらリビングを出ようとする。

 そこで椅子が引いたままだということに気付いて小走りで整頓しに行く。

 最後にもう一度リビングを見回してから電気を消して廊下に出た。

 やっぱり廊下は冷たくて、つま先だけで階段を昇っていく。

 もっと熱いうちに飲んでしまえばよかったなと思いながら肩をすぼめれば、鼻のおくでカカオの甘い匂いがした。


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