さみしさは後悔に比例して
「楓? 用事終わったの?」
「えっ?」
俯きながら歩いていたから、その声を聞いた瞬間驚いて飛び上がった。声の主を考えれば飛び上がるなんてありえないことだけれど、考えていたことが考えていたことだったから過度に驚いてしまった。
「どうしたの、楓」
そんな私を見た美香が、訝し気に眉をしかめる。私はそれに「何でもないよ」と答えた。
「日直、終わったの?」
「あ、うん」
そう言いながら、私はついさっき出てきたばかりの職員室を振り返る。
「美香はどうしたの? 部室に行ったんじゃなかった?」
私が日直だから美香には先に部室に行ってていいと伝えたはずだったのだが、もしかして待っていてくれたのだろうか。なんて淡い期待を込めながら尋ねれば、美香は今日もまたため息を吐いた。
「ま……陽人先輩と一緒に居たの」
「…………そっか。本当に仲いいね」
いつもと変わらない、無邪気さを感じさせる声。けれどその中には明確に苛立ちが含まれていて、私は動揺するよりも先に苦笑いを浮かべた。
そのせいで、自分に言い聞かせるために付け足した言葉がどこか嫌味じみてしまって美香はまた深くため息を吐いて睨むように私を見た。
「そんなことないよ? というか楓、まだ正直にならないの?」
「…………」
ここ最近。美香は私に苛立っているようだった。
いや、ようだったなんて言うのもおかしな話だ。事実美香は、苛立っている。クリスマス前のあの時から、ずっと。
その理由のなんとなくはわかっていたし、その苛立ちの度合いだってひしひしと感じていた。私が今のままでいるから、美香は苛立ち続けている。
けれど私は、今日も笑ってごまかす。
笑って、他愛もない話をして、それでいつも通りを演じて、美香にもいつも通りを演じてもらう。
私がそんな風にすれば美香が余計に苛立ってしまうことくらいわかっていたけれど、それでも私はそうやって、逃げるしかできなかった。
今日も、そうやって、美香が呆れて、いつも通りを作ってくれるのを待つ。無邪気な笑顔で、何でもないよなんて言ってくれるのを待った。
「――私に気を遣ってるの?」
「えっ?」
けれど美香は、いつも通りを作る気なんてなかったらしい。
貫くような視線を真正面から見てしまって息を呑む。怖くて後退りそうになれば、美香がそれよりも早く距離を詰めてきた。
「素直になれない理由は、私が原因?」
「え、ちがっ」
ここ最近同様、なんていうレベルではなかった。
ここ最近どころか、出会ってから一番、美香は苛立っていた。言葉はとてもとげとげしくて文化祭の時の原先輩を思い出す。あの人ほど私を追い詰めてくるわけではないけれど、あの人以上に激情をぶつけてきているのがわかった。
「私に気を遣ってるなら、そんなのする必要ない。言ったでしょ、振られたって。私はもう振られたの。だから気を遣う必要なんてないでしょ」
「美香、違うの――」
「何が違うの」
震えながらも訴えるが美香はいら立ちをあらわにしながら私の声をかき消す。
変にごまかそうとしたのは私で、それに苛立つのは当然だった。けれど、落ち着いてほしい、と思った。落ち着いて、話を聞いてほしいって、そう思った。
けれど美香は、苛立ちをあらわにしたまま矢継ぎ早に言う。
「私が松嶋先輩のことを好きだから身を引くって、そんな風に考えてるんでしょ?」
「違くて」
「そんなことで先輩のこと無視してるんでしょ?」
「ちがう」
「なんでそんなにも素直にならないの? もうそんなこと関係ないでしょ、人を言い訳に使うのやめて向き合いなよ」
「美香聞いてよ……!」
泣きそうになりながら、私は訴えた。
苛立つ美香が怖かったんじゃない。話を聞こうとすらしてくれないことが、悲しかった。
「ごめん、言い過ぎた」
目つきは鋭いままだったけれど、美香は申し訳なさそうに足元を見た。きっと誰が見たって私のほうが悪者なのに、被害者面してしまったことを後になって恥じる。
「でも、いい加減ちゃんと向き合った方がいいよ。もう気を使ったりする必要もないってわかってるでしょ?」
「…………」
不安そうに、それでもどこか苛立ったように問いかけてくる美香に、私は目を合わせることが出来ない。
「私に気を遣ってるならもうそんなの必要ないんだって。もう素直になってもいいって――」
「わかってる……」
美香の言葉の先が理解できて、私は遮るように言った。
「わかってる、けど……違うの……」
続けて言うと、美香は訝しげな瞳を私に向けた。
「何が、違うの?」
「…………怖い、だけなの」
言った瞬間。美香は、は? っと呆けた顔をした。
容量の得ない回答をした事はわかっているので少しづつその言葉に肉付けしていく。
「美香が、諦めきれたかどうかとか、そういうのはわからないけど、美香がどうして欲しいかはわかる。わかってるよ。……私も、そうしたいって、そうできたらいいって、思ってる」
「なら素直になればいいじゃん」
唇を尖らせて、何が不満なんだと目で問いかけてくる。不貞腐れたその顔は、親しみのある同級生の顔で、少しだけ心が軽くなった。
「でも、私、一回断っちゃったの。付き合えないって、言ったの」
頭に、その光景がこびりついている。あの人と二人きりの、はちみつ色に染まった部室が。
「それなのに今更、付き合いたいなんて……」
一度断っておいて、本気で向き合ってくれたあの人をないがしろにしておいて、今になって手のひら返すなんて、そんな――。
「そんな自分勝手なこと、言えないよ……」
「……だから、怖いの?」
静かに問いかけてきた美香に、私は頷く。
「自分勝手でもいいじゃん。もう、迷惑はかけてるんだし」
言葉自体はとてもきついけれど、美香の言わんとしていることはわかった。いまさらそんなこと気にすることは無いと、そう言ってくれているんだということはすぐに分かった。
けど、そうじゃないんだ。私が怖いのは、それじゃない。
そう思うと同時、美香は髪をかき上げて深くため息を吐いた。
「もしかしてだけど、嫌われるかもなんて思ってないよね?」
「…………」
「はぁ…………」
私の目を見た美香は、冗談だって言ってよと言いたげに大きく嘆息した。
「なんで今更そんなこと気にしてるの。って言うか、まだ嫌われてないとか思ってたの? 一回振っといて? 楓頭大丈夫?」
「……その言い方は、ちょっとひどいと思う」
俯きながらも、あまりの言い草に異を唱える。少しだけだけどムカッとしたのに、美香はと言えばそんな私の顔を見て笑顔を浮かべた。
「だって、人の気持ちなんて簡単に変わるものでしょ。振った相手のことを何か月も好きでいるなんて私だったら絶対無理だもん。そもそも自分を振るような相手ならその場で切り捨てるよ私なら」
「それは、美香ならでしょ……」
あの人は違う、そう言いたくて唇の先で呟く。けれど美香は嘲るように頭を振る。
「そもそも、会話もしてない人となんで今も両思いだって思ってるの? 根拠、無いでしょ?」
「悩んでる人にそれ言うの……?」
いよいよ私は地面に溶けたくなってしまう。けれどやっぱり美香は嬉しそうに笑うのだ。
だから私は委縮するのもなんだか馬鹿らしくなって、美香のことを睨んだ。
「ほんと、純粋すぎるよ」
すると美香は額を抑えながらため息交じりに言う。それにまたいじけたような声を返そうとすると、それを遮るように美香は私を抱きしめた。
「別に悩むことなんてないでしょ」
「……悩む、ことだよ」
私は、驚きもせずに小さくつぶやく。それはどこか不貞腐れたような声だったけれど、自分の不安がにじみ出ていたせいで言葉尻がすぼんでいく。
「嫌われるかもって、楓まだ彼女じゃないでしょ。そんなこと気にする前に告白しなよ」
「……どうすればいいか、わかんないよ」
駄々をこねる子供のように、くぐもった声で言う。
「私、先輩とずっと話してないんだよ……? 二ヵ月も、話してない……。それなのにいきなり告白なんてできない。どうやって話したらいいのかも、わかんないんだもん」
「楓も面倒な子だよね」
そう言って美香は駄々をこねる私の頭を撫でた。
身長は三センチも違わない同級生の女の子にそんな風にされて、気恥ずかしさを感じるのが普通だと思う。けれど、その手がとてもやさしくて、妙に落ち着いてしまった私は何も言えなかった。
すると美香は少し苛立ったように強い力で渡しを抱きしめた。
「わからなくてもさ、返事くらいはできるでしょ。既読スルーはやめなって」
「…………先輩に聞いたの?」
「そうだよ」
何食わぬ顔で言うから、私は居心地が悪くなって身動ぎをする。
それが私を抱きしめる美香に伝わったのだろう。美香はくすりと笑って諭すように言う。
「好きなのに付き合えないって、そういうことはあるんだと思うよ。相手にほかに好きな人が居たりとかね。……でも、それは告白しない理由にはならないでしょ。無視する理由には、ならないでしょ」
「…………」
「目を合わそうとしてないのは、楓だけだよ」
「……」
そんなことは無い、と言ってしまいそうになる。松嶋先輩だって私と目を合わせるのを気まずく感じるはずだ。そうでもなければお互いに目を合わせない日々がこんなにも続いたりするはずもない。
なのに、私のポケットにある先輩とのメッセージ履歴が訴えてくる。目を逸らして無視しているのはお前なんだと。あの先輩は話しかけてくれているのにそっぽを向いて誤魔化しているのはお前の方だと。
だから私は何も言えなくて、代わりに美香が呆れたように息を吐いた。
「まあさ、どうするかは楓が決めることだけど、私はいい加減イライラしてるからお節介を焼くよ」
そう言うと美香は、私を突き飛ばすようにして手を離した。
私は体制を崩してつま先でタップを踏む。美香はそんな私に人差し指を突き付けてスキップを踏んだ。
「別にすぐにじゃなくていいけど向き合いなよ。これ以上迷惑をかけたくなければさ」
悪戯っぽく言うと、美香は踵を返して小走りに走り出す。けれどそうした時、美香が思い出したように足を止めた。
「あ、そう、あとさ。楓、笑えるようになりなよ。心の底から。そのほうが楓には似合ってると思うよ」
早口に言い切ると、美香はさっさと階段の方へ走って行ってしまった。
私は、その後を追うこともできずに自分の頬に指を這わせる。
「笑う……」
いつから、笑っていないだろう。
いつから、心の底から笑えなくなくなっただろう。
嬉しくて、幸せで、満たされて。そうして笑顔を浮かべたのは、いつのことだっただろう。
そう思って私は記憶をたどる。多分だけれど、高校生になってからは、文芸部に来てからは心の底から笑えたことは無かったんじゃないかって、そう思う。
ここ二ヵ月は、笑顔なんて浮かべられなかったし、文化祭の時も台風のあの日も。幸せだけど涙がこぼれた。夏休みだって先輩に気を遣わせたくないから大丈夫だと笑って見せただけ、花火の時も、その後の部活も、笑顔をちゃんと浮かべられた覚えはない。
本当に、いつから私は笑っていないんだろうって思う。それなのにどうして、先輩に好かれたままでいれるなんて思っているんだろう。
笑顔の無い女の子が、魅力的に映るはずなんてないのに。
泣いてばかりいる面倒な女の子のことを、好きでいてくれるはずなんてないのに。
私はゆっくりと歩き出す。美香のように駆け足にはなれないけれど、それでも部室に向かわなくてはいけないから、ゆっくりと。
職員室から昇降口を通って階段へ向かう。部活動が義務付けられているこの学校は、四時を過ぎて校内を歩き回っている生徒はまずいない。だから、視界の端に移った人影に視線が向かってしまった。
下駄箱の先の、男子生徒へと。
「……ッ」
目の前に、あの先輩がいる。目の前というほど近くではなくて、けれど他に目に入るものなんてないからその距離がとても近いように感じた。
不意を突かれたせいで、私は先輩の目を見そうになって視線を逸らす。そのことの少し後悔しながら、私は速足に階段のほうへと向かった。
笑顔はやっぱり、浮かべられなかった。