ふくらむ理想
最終回まであと十話を切りました!
どうか最後までお付き合いください!
「ハル、お前付き合えたとしてなんかしたいことあんの?」
放課後、後輩たちのいない部室できょとんとした声を向けられた。その声の主はあまりに無垢な表情で、俺の知る幼馴染の姿からは少しずれていて、俺は数瞬呆けてしまう。
「……いきなりどうしたの?」
十二分な空白を置いてからようやく出てきた言葉は訝し気に濁っていた。しかしソウはそんなことお構いなしで歯をのぞかせて笑う。
「いや、なんかハルが恋人っぽいことしてるとこ想像できなくてな」
「恋人いたことないんだしそれはそうでしょ」
もしかして遠回しにお前には男としての魅力がない、と言われているのかと思ってむくれそうになったが、自分自身男らしい一面なんてあるかどうかわかっていないのでその声はしぼんでしまった。
けれど、そんな俺を見たソウは申し訳なさそうなそぶりを見せるでもなくカラカラと笑う。
「そういう意味じゃなくてよ。ほらなんてーの? なあマコ」
「何が」
教卓ではなく俺の左隣にいた真琴が眉をしかめながら心底うざったそうに返事をする。そんな友を見ながらソウはやはり笑って言う。
「ハルってなんか恋人っぽいことしなそうだろ?」
「どういうこと、それ」
心底遺憾だ、という顔をしながらソウを半眼で睨めば「まあまあ」なんて気分のいい笑顔が返ってきて、自分の表情に釣られて心が少しムッとする。
けれどやはりソウは俺のことなど気にも留めずに俺をまたいで真琴に視線を投げる。
「マコも思わね?」
「そ」
しかし歯をのぞかせた幼馴染に対して真琴はぶっきらぼうに息を吐いただけだった。
ぶっきらぼうな返事に普段は苦笑いの一つでも浮かべたくもなるのだが、今回に限ってはその限りではなかった。正直、ソウが何を言いたいのかもわかっていないのだが、なんとなく、俺のことを小ばかにしているのではないかという直感があった。
だから、俺は真琴の普段とわからないぶっきらぼうさに安堵した。
しかし真琴はスマホから目を上げると興味なさそうにぼそりと付け足す。
「まあ、確かに陽人は性欲なさそうだな」
「せッ!?」
どうでもいいことのように付け足された言葉があまりに衝撃的で声が飛び出た。
ソウも予想外だったらしく、さっきまでの満面の笑み崩れ、俺の代わりにというわけではないのだろうが苦笑いを浮かべた。
「まあ、そういうことだけどよ」
しかし、たははという笑い声に交じってそんな力ない呟きが聞こえて振り返る。ソウと真琴に挟まれている形なので、真琴に向けた目を返せば当然ソウに向かう。
若干熱を持った頬をそのままに目を見開いてソウに音の出ない声で「何言ってるの」と問いかけるが、俺の表情を読むつもりのないらしい幼馴染にそんな言葉が届くはずもない。
俺の幼馴染はにこりと笑顔を浮かべ直すと頬杖を着いて小首を傾げた。
「で、ハルはそういうことしたいわけ?」
「いっ、え、いやそうい、えちょっとそういう話!?」
おろおろしながら右へ左へと視線を飛ばすが、二人ともその通りだと言わんばかりに俺を見つめ返すだけだ。
そのせいでまた体温が上がる感覚がして、俺は駄々をこねるように叫ぶ。
「いや、今までそういう話したことなかったじゃん!」
何も自慢にならないことではあるが、俺は男友達――ソウと真琴とそういう類の話を一度もしたことがない。恋とは何か、だとか。過去の恋愛経験だとかそういうことを話したことはあったが、深い欲望的な話は今まで一度もしていない。
だから、そう言った話題に慣れていないのと、なぜ二人がそんな話を振ってきたのかわからないのとで困惑して話を打ち切ってほしいと懇願する。
しかし真琴は興味なさそうにため息を吐いて、ソウはといえば真顔のまま逆に不思議そうに問いかけてくる。
「いや、ハルがそういう話題苦手そうだから振らなかっただけだって。ほら、ハルって恋に恋してるからその辺のことまで考えまわってなさそうだったし」
「いや、それはそうかもだけど。それを言ったら真琴だってそうじゃんッ」
ソウの言うことは何も否定出来なくて、代わりに真琴に話を振る。
「真琴女性苦手だし、それこそその……性欲……とかなさそうじゃん!」
何もおかしな単語ではないのにそれを口にするのが恥ずかしくて、俺は隠すように声を落とす。
そんな俺の態度に思うところがあったわけではないのだろうが、俺の視線を受けた真琴は何を言ってるんだこいつみたいな目で俺のことを見てくる。ちなみにソウは「慌てすぎだろ」と愉快に腹を抱えていた。
「別に性欲くらいある」
「え、女の人苦手じゃないの?」
「それとこれとは話が別だろ」
そんなこともわからないのかと、まるで常識を語るかの如く真琴が言うから俺は呆気に取られてしまう。
「ってか、陽人の話だろ今は」
すると真琴はその隙を見事に突いて話を元に戻してまう。
しかし、真琴はさらに言葉を足す。それだけでも十二分に俺の逃げ出したくなる状況ではあるのだが、それで終わっていたのならまだよかった。真琴のその言葉を聞いて俺はそう思った。
真琴はやはり興味なさげに、独り言を言うかのごとくぶつぶつとした声で付け足した。
「永沢としたいのか?」
「したっ!?」
言われた瞬間顔全体が真夏の日に当てられたように熱くなってすぐさま頭を振った。
「そういう話止めよう!」
「何をしたいかは言ってないけどな」
「…………やめてくださいお願いします」
真琴があっけらかんと言うから途端にいたたまれなくなって俯いて言う。隣でソウが「ぷはっ」なんて噴き出していたけどあいにくとそれに意識を裂いている余裕は無かった。自らの不健全な思考を端へ追いやりながら真琴に捨て犬のような目を向ける。
すると真琴は長いため息を吐ききると、呆れたように言った。
「別に恥ずかしい事じゃないだろ」
「すごい恥ずかしいです」
「はぁ……」
依然顔の熱は冷める気配がなく顔を上げきれずにいると、真琴がもうどうでもいいと言うようにため息を吐いた。そしてあとはまかせたと真琴がソウに手をやる。
それを受けたソウは目に涙を浮かべて机の上で痙攣していたが、ひーひー言いながら呼吸を整えるとまだ笑いが漏れ出る声で言った。
「確かにハルの反応自体は恥ずかしいだろうけどよ。別に性欲は恥ずかしい事じゃないだろ」
「……だからってそれを訊いてくる? 普通」
なぜわざわざ男友達に己の欲望を語らなくてはいけないんだと思って肩を落とす。しかしソウは笑顔を携えながら続ける。
「別に恥ずかしい事じゃねえって。むしろ健全だぞ」
「絶対不健全だ」
じろりと睨んでみるがソウは笑顔を崩すことは無い。
「健全だよ。むしろそういうこと考えねえほうが不健全だろ。枯れてんのかよ」
「そんなわけないよ!」
「ならこういうことしたいって思うくらい当然だろ。……ハル見ててそういうのが見えねえからいまいち想像できねえんだよ」
「想像してもらいたくないんだけど……」
げっそりとしながら言えばソウは「それもそうだけどな」なんてカラカラ笑っていた。
けれど、その笑顔にどこか真剣さが混ざった。声の調子も変わらないけれど、本当に問いかけているというのが伝わってくる、そんな態度に分かった。
「別にいきなり性欲がどうとかじゃなくてよ、キス位したいとか思わねえの?」
「キス…………」
言われてドラマのワンシーンを思い浮かべる。お互いしか見えなくなるような距離感の中で見つめ合い、次第にお互いにそのことを意識し始めてゆっくりと歩み寄る。手が触れ、吐息が混ざりお互いの体温を自覚する。そしてお互いの気持ちが通っていることを確信するとゆっくりとお互いの唇を――。
「……ゆでだこみたいになってんな」
「あの、本当にこの話止めよう?」
考えた端から全てが体温の上昇につながって、真冬だというのに俺は汗の感触を思い出して胸元を扇いだ。風邪はもうとっくに感知しているはずなのに心なしか眩暈にも似た感覚に襲われる。
しかしソウは話を切る気はないらしく小首をかしげて言う。少しだけ、強い口調で。
「したくねえの?」
「いいや、そういうわけじゃないけど……」
キスをしたいか、したくないか。そう問われてしまえば答えは一つだ。好きな相手とそういうことをしたいという気持ちは、ないわけじゃない。しかし。
「そういうの、なんか想像できない」
キスをするかどうかなんて意識するほどの仲ではないから。付き合えてすらいないから。あまりそのことを想像することが出来なくて、名も知らない誰かを妄想して想像することしかできない。
俺と彼女がそういうことをする映像が、浮かんでこない。
「やっぱ枯れてんじゃねえの?」
「冗談でもやめてよ」
あまりに笑えない冗談だと思って肩を落とせばソウは楽しげに笑う。俺は笑顔を返すなんてできるはずもなくてため息をこぼした。
するとソウが身を乗り出して不思議そうに問いかけてきた。
「ほんとにしたくねえの? ってか考えねえの?」
「うーん……」
言われて思い浮かべてみようとする。彼女の姿と、自分の姿。その二つを向い合せて背景にそれらしい景色を描いてみる。たとえば夜景とか。
夜の街で、二人で歩いて、別れ際見つめ合う。名残惜しむように、言葉も無く視線を躱して会話をする。そこまで想像できれば、もうあとは変に考える必要もない。雰囲気も、申し分ない。人目があるとかそういうことは、頭の中では関係ない。登場人物は二人だけにすればいい。その雰囲気のまま時計の針を動かして、お互いの体を近づけた。
けれど、それは水に溶けるように消えてしまって、頭に残ったのは背景だけで、それでも思い浮かべれば俺と彼女の代わりに名前のない男女が向かい合う姿が浮かんできた。
まったく違う男女を妄想する形へ切り替わってしまった。
「なんか、よくわかんない」
したくないわけではない。もし恋人になれたならそういうことをする日も来るだろう。付き合い続けていればきっとそれ以上のこともするようになるのだろう。
けれど今は、うまく想像できなかった。
したくないわけではないけれど、したいわけではないんだと思う。それをする間柄ではないから、許される関係ではないから、想像できない。したくない。
ソウに言われた通りではないけれど、確かに俺はそう言った欲求が常人に比べて劣っているんだと思う。今までそういう話をした事がなかったのも、しようとも思わなかったのもそういうことで。少なからず意識させられてしまうことこそあれ、自らそういう状況を空想することは無かった。
いつだって、思い浮かべた幻想は理想の恋愛だけで。その外身ばかり考えて内側のその先は考えたことがなかった。
その先は未知の領域で、片思いのままじゃ見ることが出来なくて。俺は少しだけ重くなった息を吐き出した。
そんな俺を見たソウは少しだけ不満げに「んー」と声を上げると確認するように問う。
「じゃあ、したいことなんもねえの?」
「したいこと」
そう言われて何ができるだろうと考えた。
何がしたいかではなくできるかと考えた時点で答えなんてわかり切っているけれどそれでも考えた。
まずは告白。文化祭の時の再現。
それをしたいかと言われても、俺は首を横に振るだろう。万が一にも可能性があったとしても、文化祭の出来事がトラウマの様にこびりついてしまっているから恐怖に飲まれて踏み出す足は退いてしまう。
なら、何がしたいかと改めて考えれば、次に浮かんだのはデートだった。
二人きりで出かけて、他愛もない会話をしながら日が落ちるまで過ごす。そんなことをしてみたいかと考えてみたけれどそのイメージも途中で霧散した。
付き合っているなら、したいと思うものなのだろうけれど、やっぱり今は考えられなかった。デートならば付き合っていなくてもお互いのことを理解し合うための場としてすることもあるだろうに、俺はそう思えなかった。
いや、そう思うことはできるけれど、俺はそれをしたいとは思えなかった。
今は、二人でどこかへ行くことよりも、文芸部みんなで、また前のように笑って明るく過ごせるようになればいいとそればかりを考えてしまう。
「…………マジでねえの?」
「うーん……」
黙考する俺を見てソウが急かすように言ってくるが何も浮かばない。
今のままがいいとは思わない。それでも浮かぶのは神社で願ったあの景色ばかり。俺たちの――俺のせいでぎこちなくなってしまったこの部室がまた元の姿に戻ってくれる、そんなことを願うばかり。
いつまでも答えを口にしない俺を見て、ソウも困ってしまったのか。唸り声をあげながら頭を掻いた。
「お前、ほんとに好きなの?」
「…………」
ソウが言った瞬間、真琴が俺のことを見た気がした。もちろんソウと向き合っているので逆サイドに座っている真琴の表情を窺うことはできなかったが、それでもそんな気がした。
好きなのか、なんて問われてもそうだとしか言えない。
けれどそれに伴う欲望が現れるかどうかと問われれば言葉に詰まってしまう。
「うーん、したいこと、かぁ……」
やっぱり浮かばなくて、何の気なしに思い出に浸ってみた。
出会った時のこと、怯えていた姿、涙を流す姿、二人で入った傘、連絡先を交換したこと。そして最後に、あの嵐の日のこと。
「…………あっ」
そこまで記憶をたどって、ようやく自分の欲望と呼べるものを見つけた。
欲望というにはあまりにささやかで、それこそたった一言、あるいは偶然を装ってでも叶えることが出来てしまうことだけれど、それだけははっきりと自分の意思でしたいと思えた。
「なんか浮かんだのか?」
するとまるで心を読んだかのようなタイミングでソウが再び問いかけてきた。
「え、あー」
俺は首を縦に振ることが出来なくて、うめき声を返すしかできなかった。それが少しだけ居心地悪くて机の下で手を握る。
今、手を握ってみたところであの時の感触がよみがえるわけではない。体温も思い出せない。そのことが少しだけ寂しくて、自分の指先を温めるために手を握り合う。
「ノーコメントで」
苦笑いで誤魔化しながら言うとソウは「なんだよー」なんて言いながら背もたれに全体重を殴りつけた。俺はそれにもう一度苦笑いを返しながら自分の手を見つめた。
思い出して思い浮かべれば確かにそれはずっとしたかったことだと思い至る。
手をつなぐことはもちろんだが、彼女に触れることすべてに対して。
性的な欲求と呼べるかはわからないけれど、俺は彼女の手に触れたい。彼女の頬に触れたいと思った。
あの時拭えなかったから、もしも次があるのならと思わずにはいられない。
欲望と呼ぶにはいささか弱弱しい気もするが、今俺の中にある確たるものはそれだった。
「……次、か」
口の中で呟いた言葉はソウの耳に届かなかったのか体を逸らした幼馴染はなんの反応も示さない。
結局のところどうなんだろうと思う。部員全員。ぶっきらぼうな真琴にすら背中を押されるような言葉をもらった。しかしだからと言ってそれが確信につながっているわけではないし、不安は費えることは無い。
彼女自身の気持ちを聞いてみないとわからないことだとは理解している。けれどそれをするためにはそれこそもう一度告白するしかない。
でも、目も合わせなくなって二カ月が過ぎた今、唐突にそんなことが出来るほどの勇気を俺が持ち合わせているはずもなく、胸に残る不安に引っ掻かれながらも呟くようにこぼす。
「ソウ」
「んあ? なによ」
ソウが体を起こして俺を見る。少し間抜けな表情のソウだが、俺の気が軽くなることは無くて、なおも不安なまま女々しくもソウに問う。
もしもそう思ってくれる人がいるなら、少しだけ自信が持てると思ったから。
「永沢さんって――」
「松嶋先輩、いますかー?」
しかし、俺が口を開いた瞬間、まるでそれを遮るかの如く部室の扉が口を開ける。
乱暴に叩きつけられた扉を見れば、その奥には寒いだろうにコートのボタンを開けたままの立花さんの姿があった。
「え、いるけど、どうしたの?」
いきなり指名を受けたことに戸惑いながらおずおずと返事をすれば、彼女はにこっと笑顔を浮かべた。
「先輩、ちょっといいですか?」
「え、どうかしたの?」
後輩の胸中を理解できなくて首を傾げれば立花さんは急かすように手招きをした。
「とりあえず、早く来てくださいよー」
「……はい」
言われるがままに立ち上がり、彼女のもとへ向かう。
ソウと真琴は何が起きているのかわかっていない様子だったが、俺はなんとなくの未来を想像することが出来て気が重くなった。
「じゃ、ちょっと先輩借りますねー」
にこやかに言った彼女は部室のどこかへと顔を向ける。それは多分ソウたちにも、部室の何かにも向けられていなかった。ソウたちは離れていたから気付かなかったかもしれないが、すぐ隣にいる俺は理解してしまった。
その顔は依然笑顔の体をなしてはいたのだが、その目は決して笑っていなかった。