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Primula  作者: 澄葉 照安登
第八章 熱が寒空を溶かして
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お見舞い 3

 通学路を、歩いていた。

 時間はもう十時過ぎ。もしも今日学校があったのならば大遅刻だった。

 けれど今日は土曜日。学校に行ったところで授業はないし、文芸部の部室にも誰もいない。それなのに私は自分の家の近所ではなく、学校へ向かう道を歩いていた。

 ちらりと、自分の手を見る。私の手にはビニール袋が握られていた。

 中身は、スポーツドリンク。何を買えばいいかわからなくて、あっても困らなさそうなものを選んだ。好きなものを選べたのならよかったのだけれど、私はあの人のことをそこまで知ってはいなかった。

 見慣れた十字路。駅から歩いてきたので左に行けば学校がある。

 私はそこを右に曲がって、いつかの記憶をたどりながら歩いた。

 あの人の家には、一度行ったからわかる。夏休み、傘を忘れていた先輩と一緒に帰った時に、一度だけ先輩の家まで行ったことがあった。

「そのために、家を出たわけじゃなかったはずなのに……」

 自嘲気味に呟いてみても、手に持ったお見舞いの品と迷わずに学校へと背を向けた自分がそれを否定する。

 しばらくまっすぐ進んで、おぼろげな記憶を頼りに進んでいく。

 まだ、合うべきかどうか悩んでいる。会っていいのかと思っている。

 でも、今はそれ以上に会いたいという気持ちが強くて、気付けば私の歩調は上がっていた。

 先輩の体調はどうなのだろう。昨日お見舞いに行った美香に尋ねておけばいいものを、私は意味もなく一人で考えていた。

 まだ体調は悪いのだろうか。よくなってはいるのだろうか。それとも悪化してしまっただろうかそんな風に考えながら顔を上げると、覚えのない景色が広がっていた。

「え、っと……」

 あたりを見回して、自分の記憶の中にあるものを探す。けれど覚えのあるものは見つからなくて、仕方なく私は踵を返した。

「あっ」

 そうしたところで、いつの間にか先輩の家を通り過ぎていたことを理解して少し先にあった見覚えのある一軒屋に小走りで向かう。

 表札を見ればそこには松嶋という文字がある。嶋の文字に山がついているのを見るにおそらくここで間違いはないだろう。

 私は息を吸ってから、インターホンを押そうと人差し指を立てた。

「…………」

 けれど、それは触れる前に空気の壁に阻まれる。物理的にそれ以上伸ばせないわけではないのに、そこから進まなくなってしまう。

 あまり考えずに来てしまったけれど、今私は一人だ。それはつまるところ先輩と会えば二人きりと言うことだ。

「なにを、話せばいいのかな……」

 誰も答えてくれないのにそう呟いてみる。

 当然自分の中から答えが湧き上がってくることもない。代わりに突き出した指が垂れ下がった。

 私が、何をしようと言うんだろう。先輩の気持ちを拒んだ私が、いまさら何を。

 そう思ったら余計に手が下がってしまって、しまいには突き出した手は綺麗に体に沿って戻っていた。

 来るべきじゃなかった。そんなことわかっていたのに、先輩がすぐ近くにいることを実感して足がすくんでしまった。

 怖い。昨日の出来事ももちろん怖かった。それこそこれ以上の恐怖は無いだろうと思うくらいに。

 けれど、今それに勝るとも劣らない恐怖を感じている。

 もう、すぐにでも踵を返してしまいたかった。

 でも、気持ちの半分は先輩に会いたがっていて、ジレンマに揺らされてしまう。

 中途半端だ。私は、ずっと中途半端。

 いつだってその場限りの嘘ばかりついて、結局何も真実たらしめる行動はできていない。

 今日だって、先輩に会えたとしてもそうやっていつも通り、取り繕って、嘘を吐いて、付け焼刃の上辺だけの会話をするしかできないだろう。

「……なんで、来たんだろう」

 それを自分に問えば心の中で会いたかったからと返事が返ってきた。

 でもそれが余計に私のジレンマを濃くして足を縛り付けた。

「どちら様?」

「あっ!」

 不意に声をかけられて顔を上げる。声のした方を見れば先輩の家の中から優しそうな大人の女性が顔をのぞかせていた。

「あ、その、私松嶋せんぱ――あの、陽人先輩のお見舞いでッ」

「…………ああ」

 慌てて説明する私を見たその人は、柔和な笑みを浮かべると手招きをした。

 私は心臓の鼓動と同じく早足にその人のもとまで行くと頭を下げた。

「すみません、突然。昨日は、来れなくて……」

 早口に言う私を見たその人は、ふふふとおっとりとした口調で微笑んだ。

「いいのよー。多分、あなたがそうなんでしょうね」

「えっと……」

 何のことを言われているのかわからなくて私は口ごもってしまった。そんな私を置いてどこか楽しげに笑ったその人はおっとりとした声音を弾ませて言う。

「二階の部屋にいるから、あがってちょうだい」

「あ、でも私――」

「いいからいいから」

 どこか恋バナをしているときの松嶋先輩を思い出す笑顔を向けられて、私は促されるままに家にあげられた。

 靴を脱いで、そのままの勢いに二階まで連れていかれる。そして動きが止まったころにはどこかの部屋に入れられてしまった。

「ゆっくりしていってね」

「あ、ちょっとま――」

 そんな言葉を最後にドアを閉めた女性は私の制止もきかずに階段を下りて行った。

「…………えっ」

 いきなり先輩と二人きりにされてしまって途端に焦りが募る。恐る恐る振り返ってみれば、そこには布団の膨らんだベッドがある。

 私はどうするべきか一瞬悩んで、結局先輩に寄って行った。

「せん、ぱい?」

 声をかけたつもりだったのだけれど返事はない。声が小さくて聞こえなかったのかと思って近づきながらもう一度声をかける。

「せんぱ……あっ」

 そうしたところで、先輩が眠っていることにようやく気付いた。

 緊張が解けて、私はその場に座り込んでしまいそうになった。けれど、寝ているとはいえ先輩の前でそんなことできるはずもなく、私は膝に手をついて息を吐き出した。

 その拍子に手に持っていたビニール袋ががさりと音を立てる。それを床に置いて、先輩の顔を覗き込んだ。

「……まだ、辛そうですね」

 先輩には聞こえていないのに敬語で言った。

 先輩の額には大粒の汗が浮かんでいて、見ただけでかなりの熱があることが理解できた。私はその汗を拭くべきではないかと思って、タオルか何かがないかと先輩の部屋を見回した。

「あっ」

 そうしたところで、学習机の上にいつかも見たものを見つけて声を上げた。

 手に取れば綺麗に折りたたまれていたそれは少しだけ形を崩して見せた。

 いつか私に差し出してくれたそれは、まだ使われた形成がほとんどなくて、色落ちどころか汚れやしわの一つも見当たらない。

 私は藍色のハンカチを片手に先輩のもとへ戻るとそれで先輩の汗を拭く。人のものを勝手に使って悪いことをしている気持ちと、不思議な高揚感が混ざってぽそりと言葉が漏れた。

「……先輩、美香を振ったって、本当ですか?」

 ずっと、聞きたかったことだった。でも、聞いていいのかわからなくて、そもそも先輩に会っていなかったから聞けなくてずっともやもやしたままだった。

「なんで、振ったんですか?」

 美香は、松嶋先輩のことが好きだった。だからクリスマスにデートの予定を組んだわけだし告白したんだ。うまくいかなかったということはつまり、先輩が美香のことを振ったということだ。

 その理由はなぜか、聞きたかった。聞いて、私の自意識過剰な期待を霧散させてほしかった。

「…………」

 けれど、夢の世界にいる先輩は何も答えてはくれない。代わりに熱のこもった吐息を吐き出すばかりだ。

「美香は、なんであんなメッセージを送ってきたんですか?」

 そんなこと尋ねても、先輩は答えられないだろうと思った。

 それどころか、わざわざ答えてもらう必要もなかった。苛立ったような美香を見て、なんとなく言いたいことはわかったから。

「……先輩、私は…………」

 そう口にしたところで言葉が止まった。聞かれていないとはわかっていてもその先を口にできない。

「……もう、ずいぶん喋ってませんね」

 代わりにそう口にすれば、ここ最近の先輩とのすれ違いを思い出す。

 すれ違いとも言えないような、お互いがお互いを避けているだけの関係。言葉どころか視線すら交わさない。そんな日々が一カ月――いや、もう二ヵ月も過ぎていた。

 最後にしゃべったのは言わずもがな文化祭の時だ。けど、その時はもう私は自分の気持ちと美香へ向けた言葉とで板挟みになっていて真っすぐに向き合って会話なんてできていなかった。その前も取り繕った笑顔で向き合っていたし、きっと真っすぐ向き合って喋れたのは夏休みが最後だったんじゃないかなんて思ってしまう。

 きっと、連絡先を交換したあの時が、一番幸せだった。

 思い出すと、愛おしくて仕方なくなる。あんな風に、あの時のように、時間は戻らないとわかっているのに戻ればいいなんて思ってしまう。

「美香は、すごいな」

 美香は、私と違って今でも先輩と仲がいいみたいだ。少しだけヤキモチも焼きたくなってしまうけれど、純粋に私は美香のことをすごいと思っていた。

 私と松嶋先輩が振った振られたの関係であるのと同時に、美香だって松嶋先輩と振った振られたの関係だ。私と松嶋先輩のように、ぎこちなくなってもおかしくない。

 それなのに美香は、なにも戸惑うことなく先輩のお見舞いに行けた。私にはできなかったことだ。

「本当に、振ったんですか?」

 疑問に思っている。

 もしかしたら、美香は照れているだけで本当は付き合っているんじゃないかって。だってそうでなくちゃ、美香の様子に納得がいかない。

 好きな人に振られるのは、とても苦しいはずだ。つらいはずだ。目も合わせられなくなるほどに。でも美香は今までと変わらない。今までと変わらず明るく過ごしている。空元気でも何でもない、今まで通りの姿で。

 もし本当に振られたのなら、ぎこちなくならないまでも美香の顔からは苦しさや切なさのようなものが見えるはずだ。諦められない苦悩が見て取れるはずだ。それなのに、美香からはそれが見て取れない。

 だから納得できていなかった。でもだからこそ思うこともある。

「美香は私のために振られたって言ってるんですか?」

 きっと美香は私の気持ちに気付いている。

 だから、私はもしかしてと思うと同時にとても申し訳なかった。

 私のせいで、美香が先輩を諦めたのなら。私は、美香に譲ろうとしてぬか喜びさせたことになる。それがたまらなく申し訳ない。

 それに気付いた美香が、無理やり諦めようとしているんじゃないかって、そう思うから。

「どうなんですか、先輩?」

 先輩に聞いても答えは返ってこないとわかり切っているから、私は問いかけた。答えは返ってこなくてよかったから。

 期待はしていた。もしも本当に、美香が松嶋先輩のことを諦めきってしまったのならって。

 私はずっと、求めていたんだ。先輩を求めてもいい理由を。

「先輩、私……」

 さっき口にできなかった言葉が口をついて出る。しかしやっぱり言葉はそこで止まってしまって、誤魔化すように先輩の額に手を伸ばした。

 すると、くすぐったかったのか先輩が私の手を払おうと手を伸ばしてきた。

 私は反射的に手を引っ込めてしまって、その拍子にハンカチが床に落ちた。

「ッ…………私は、」

 言葉の続きが、出てきた。触れかけた手に手を伸ばしたくて、けれどそれをしないために胸の前で強く握る。

 もしも、今先輩の指先に振れていたら。そう考えてしまったら、胸の奥が苦しくなった。

 苦しい。でも今のままでいるのはもっと苦しい。

 もしも本当に私が先輩を諦める理由がなくなったのなら。もしも美香がそれを許して、望んでくれているのなら、私は――。

「私は、先輩を好きでいてもいいんですか……?」

 今にも消えてしまいそうな声でそう口にすると先輩の寝顔を見た。

 先輩は、頷いたりはしてくれないけれど、その穏やかな寝顔に安堵して私は笑顔を浮かべた。

 そうしたところで一階から先輩のお母さんの声が聞こえて慌てて立ち上がる。

 はっきりとは聞こえなかったけれど、誰かが来たらしい。もしかしたら先輩のお見舞いかもしれない。そう思ったらこの場にいることはできなくて、落としてしまったハンカチを拾い上げて机に戻すと部屋出る。

 最後にもう一度先輩が寝ていることを確認してから、私は結局一言も言葉を交わさずに先輩の家を後にした。


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