聖夜に灯れ 6
すっかり暗い空を見上げながら廊下を歩けば、耳を澄ませたわけでもないのにソウの指先で揺れているカギのチャラチャラという音が聞こえてくる。部活の終わる時間は変わってなどいないのに、日の入りの速さを実感してマフラーに口を埋める。
間城を除いた文芸部みんなが揃って歩いているが、みな一様に冬の冷たさに怯えるかのように息で手を温めたりマフラーを巻きなおしたりしている。
いくつもの衣擦れの音を聞きながら何の気なしに空を見上げれば、校舎の明かりもほとんどが落とされていうおかげで、澄んだ空に浮かぶ星がよく見える。少し意識して見れば冬の大三角が浮かび上がった。
その三つの星はどんな名前だったか、なんて思いながら明かりも乏しい階段を下ろうとしたとき、俺はふと思い出して目の前の後輩を呼ぶ。
「立花さん」
「はい?」
俺が名前を呼べば、コートのボタンを空けたままの彼女が俺のほうを振り返る。その拍子に足を止めれば、立花さんと隣だって歩いていた永沢さんも同じく足を止めた。
視界の端に彼女の黒い髪の毛がちらつくが、視線を向けまいと立花さんのほうに向きなおる。
「昨日のことなんだけど」
「……はい? なんかありましたっけ?」
「えっ」
全く心当たりがないと首を傾げる立花さんを見て、思わず絶句。そっちから振った話だったというのにそんな態度をとられてしまうと戸惑いを隠せない。
「えっと、昨日のクイズの話なんだけど」
「クイズ…………ん?」
思い出してもらえるかと思ってそう口にしたのだが、立花さんは首を傾げるばかりだ。
「星座の話、覚えてない?」
「…………あー、そんな話しましたね」
「本当に忘れてたんだね」
おぼろげに思い出してきたと曖昧な声を上げた立花さんに俺はおもわず苦笑い。この様子だとあの話は彼女の中でそれほど大きな話題というわけでもなかったようだ。きっとその後にあった冬休みの部活の予定を決める話のほうが記憶に残っていることだろう。
昨日から記憶をたどって真面目に思い出そうとしていた自分が何だかばかばかしくなって肩から力が抜ける。
たははと苦笑いを浮かべながら立花さんに返すと、彼女はそれがどうしたのかと言うようにもともと大きな瞳をきょとんと丸くして小首をかしげる。
この様子ではあの時クイズ形式で話したことも、罰ゲームじみたことを口にしたことも覚えていないのだろうなと思いながら少し呆れ気味に笑顔を浮かべる。
「覚えてないなら、それでもいいんだけどね……」
「はい?」
口ごもりながら言えば、立花さんは話が見えないとばかりに眉をしかめる。
そんな彼女に対して俺は苦笑いを浮かべながら、とりあえず口にしとこうかと思って恥ずかしながらに口にした。
「えっと、誕生日おめでとう」
「…………え?」
俺が口にすると、立花さんはしばらくの間をおいてから思い出したように驚き声をあげた。
俺は遅れてごめんと頭を掻きながら苦笑い浮かべると、立花さんは目を見開く。
「覚えてたんですか?」
不思議そうに首を傾げる立花さんに俺は申し訳なく思いながら「あー……」と声を上げた。
「昨日誕生日の話をした事があるってヒント貰って、それで、そういえば図鑑を見てる時にそんな話をした事があるなって思い出したんだよ」
正確には気付いたのはついさっきの部活の最中だ。ずっと鞄に入れっぱなしになっている花言葉の図鑑を見たときに思い出して、それでおぼろげな記憶をたどって思い出したのだ。今日――十二月二十日が彼女の誕生日だということに。
「えっと、なんか遅れてごめんね?」
「…………」
俺が言うと、立花さんは黙って俯いてしまう。見れば、何か考え込むように口元に手を当てている。
何か機嫌を損ねるようなことをしてしまっただろうかと思って苦笑いが引きつる。少し不安に思いながら彼女の言葉を待つと、予想外のところから声が聞こえた。
「ハルー? 早く来いよ」
その声に驚いて階段の手すりの上から階下をのぞき込んでみれば、いつまでも後を追ってこない俺たちを不思議に思ったらしいソウがこちらを見上げていた。
俺は立ち止まってしまっていたことを思い出して、急いで後を追おうと思ってソウに声を投げようとする。
「あ、ごめん今い――」
「先輩、先行っててくださーい」
けれど、俺の声がソウに届くよりも早く、俺と同じく手すりから乗り出した立花さんがまるで俺の声をかき消すかの如く叫んだ。
「ん? なら昇降口で待ってっからな」
「あ、うん」
立花さんに言われたソウがカギを鳴らしながらまた階段を下り始める。足音が下へ下へと離れていくのを聞きながら、俺は隣の立花さんに視線を向けた。
すると彼女は手すりから離れると、この場でただ一人声も出さずに立ち尽くしていた同級生をちらりと見た。
「…………」
まるで何かを確かめるかのような鋭い視線になんだろうと思ってその姿を見ていると、彼女の横顔がニッと笑顔に変わる。
その表情の意味が分からなくて首を傾げていると、立花さんが俺のほうに向きなおって一歩、その距離を詰めた。
もともとそれほど離れていたわけではないので、その一歩がとても大きなものに感じて俺は後退るようにして彼女から距離を取った。すると立花さんはさっき浮かべた笑顔のまま、とても軽いテンションで口にした。
「先輩、クリスマスって空いてます?」
「え?」
「ッ!」
突然のことでわけがわからず間抜けな顔をさらせば、そのすぐ近くで息を呑む気配を感じた。
なんだろうと思って反射的に目を向ければ、その主は永沢さんだということに気付いて慌てて立花さんへと視線を戻した。
「ッ」
今度は、俺が息を呑む番だった。
俺の目に映った立花さんは、さっきまでの朗らかな笑顔から打って変わって、どこまでも優しく、それでいて呆れ返ってしまったかのような冷たい瞳で黒髪の同級生を見ていた。
昨日も感じた得体のしれない冷たさを感じて、俺はまた半歩後退る。自分よりも背も低い、愛らしい笑顔を浮かべる彼女のことが恐ろしいだなんてことはあるはずがないのに、そうしてしまったのはきっと未知への戸惑いのせいだったのだと思う。
なんでそんな顔をするかがわからなくて、なぜ立花さんがそんな表情をするのかが理解できなくて、だから俺は距離を取る様に後退ったのだ。
俺は彼女からとった距離をそのままにその顔を見つめ続けていると、ふっとその表情が笑顔に変わる。そしてそれをそのまま俺に向けると立花さんは無邪気な声で言った。
「クリスマス、バイトって入ってますか?」
「あ、えっと…………」
言われて、俺は慌ててスマホのスケジュールアプリを起動する。日にちを確認するくらいで普段は全く使わない機能だが、今は冬休みの短期バイトのために活用されている。
シフトはどうなっていたかと思いながら画面にカレンダーがいっぱいに映るのを待って、ようやく起動したそれに目を落とす。
「えっと、その日はバイト入ってる」
「じゃあその前日はどうですか?」
「あ、その日も……」
「そうですか」
俺が言うと、大して残念そうでもない彼女がタタッと俺の横に回って俺の手にあるスマホをのぞき込む。
「先輩、こんなにバイト入れたんですね」
「あ、うん」
言いながら半身で避けてはみたけれど、それで距離をとれるわけもなく、肩が触れるところまで迫ってきた彼女の体温を感じて顔を逸らした。
すると逸らした先で、コートの裾を力強く握る手が見えた。
俺はそれに驚きながら、一瞬息を止めて自分を戒める。
「立花さん、あの――」
「予定合わなそうですね……」
しかし、俺が離れようと彼女のほうを向いた瞬間、立花さんはあからさまに俺にすり寄ってそんな風に口にした。
俺はそれを見て少しドキリとしながら、これ以上近寄らないでくれと意思を示すために大きめに一歩、彼女から距離を取った。
すると立花さんは不思議と嬉しそうに笑って、俺から数歩距離を取って正面に立つ。
「先輩、バイトって何時までですか?」
「え、あっと、基本的には四時とか五時まで」
「そうですか」
俺が言うと、立花さんはニッと笑って見せる。そして提案とばかりに人差し指で天井を指しながら口にする。
「じゃあクリスマスの夜。予定空けてもらえますか?」
「え? クリスマス……?」
「はい」
聞き間違いかと思いながら尋ねれば、彼女はそんなことないと自信満々に頷いて返した。
「あ、えっと……」
「もう予定入ってますか?」
「あ、いや」
また一歩間合いを詰められて真っすぐに見つめられたから、俺は受け流すこともできずに目を逸らしながら答えた。
すると彼女は満足そうに笑って、タップを踏むような足取りで階段を駆け下りる。
そして踊り場のところでくるりと俺の方を振り返ると、笑顔を浮かべて言った。
「じゃあ、バイト終わったら会いましょうね。集合場所は後で連絡しますので」
立花さんはそこまで元気に言い切ると、ちらりとその視線を横に動かした。
「じゃ、帰りましょうか」
けれどそれも一瞬のことで、すぐに体の向きを変えるとついて来いと言わんばかりに軽やかな足取りで階段を下って行く。
まるで嵐の様に場を荒らして去っていく彼女の足音を聞きながら、俺は待ってとも言えずにただ立ち尽くす。
それはすぐそばにいる彼女も同じで、帰ろうと促さなければと思って彼女のほうを見れば、しわが寄るほどに握りしめられたコートの裾が見えて視線を落とした。
スカートからタイツ、上履きまで視線を落として、リノリウムの床でッ視界が満たされた時、息を吐くと同時に思う。
彼女は、どう思っただろうか、と。
今の光景を見て、見せられて。どんな風に思っただろうか。
そんなこと、考えても無駄なのはわかっているけれど、それでも考えてしまう。
場違いな期待を抱きながらゆっくりと視線を上げて彼女の顔を見ようとしてみれば、ふいにため息にも似た吐息が聞こえてきた。
俺は驚き、胸を痛めながら彼女の顔を見るために顔を上げる。
けれど、踵を返した彼女の表情を見ることは叶わず、床を擦るような静かな足音が聞こえ始めた。
彼女は、何も言わない。それどころか振り返りすらしない。俺はそれを見て残念に思うと同時、自分に呆れて奥歯をかみしめた。
何を期待していたんだろう。
俺は、少しでもいいから彼女の戸惑うような表情を見たかったのだろうか。
なんて的外れなんだろう。
俺はもう、彼女に振られたんだ。それはつまるところ、彼女にその気はないということを表している。だから、そんなことを期待するのは的外れで、愚かしいにもほどがあると自分でもわかっている。
それなのにどうして求めてしまうんだろう。
いつか、俺は彼女の笑顔を見たいと思ったはずなのに、彼女の戸惑う顔が、傷つく顔が、後悔したような顔が見たいだなんて。
本当に歪んでいる。反吐が出るほどに汚らしい。
根拠もなく期待していた自分がたまらなく愚かしい。
「……バカだな」
俺は自分を戒めるためにそう呟くと、みんなの後を追って階段を下る。ずっと立ち尽くしているわけにはいかないから。
もう、過去は変えられない。起きたことを変えることはできないし、それについて何かをすることもできない。
できるのは、これからのことだけだ。
もう、どうするべきなのかはわかっている。だから、時間がゆっくりと解決してくれるのを待っていた。
けれど、それじゃダメなのだ。それでは、時間がかかり過ぎる。
なら、自分から忘れる努力をするしかない。諦める努力を、忘れる努力を、次に進むための、努力を。
俺は深く息を吐いてから、決意を固めるためにこぶしを握る。
自分の握力で手が悲鳴を上げるのを感じながら、俺は心の中で、引きずり続けてはいけないと怒号を浴びせた。