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憧れと缶コーヒー

 すっと缶コーヒーが目の前に現れる。顔をあげると、部署の先輩である高橋(たかはし)がいた。

「お疲れ」

 チャコールグレーのスーツをモデルさながらに着こなした高橋は、綺麗に整った長い指で缶コーヒーを田中(たなか)の顔の前で揺らす。

 見慣れた部署にあるいつもどおりの自分の席なのに、デスク横にいる高橋だけが映画のワンシーンのようだ。すっきりとセットされた濃茶色の髪が几帳面そうな印象を与えている。印象どおりの几帳面な部分と、おおらかさを併せ持つ高橋に救われた人は多い。もちろん田中もそのひとりだ。

 缶コーヒーを大人しく受け取ると、端整な顔がやわらぎ、表情まで優しいなあと感心する。

「お疲れさまです。ありがとうございます」

 高橋はよくこうやって、田中にコーヒーの差し入れをしてくれる。だからといって親切の押しつけという感じも、貸しを作ろうとする傲慢さもない。空気があるのが当然のような自然さで缶コーヒーを差し出すのだ。

「高橋さーん、ちょっといいですか?」

「はーい、今行く」

 男性社員に呼ばれ、田中の肩をぽんと軽く叩いてから高橋は去った。肩に触れた手が「頑張れ」と言ってくれたようで、やる気が湧いてくる。温かい缶コーヒーを両手で包み、小さく息をつく。

 僕も高橋先輩みたいになりたいな。

 見目がよく背も高い。仕事だってできる。男女問わず人を惹きつける高橋の人気の秘密がわかる。田中のような、地味で目立たない後輩にまで気を留めてくれるのだ。それほど周囲に気配りをする人が、人気者でないわけがない。高橋が築いた今の立ち位置は、高橋の丁寧さや優しさがあるからだ。

 高橋の吸引力にしっかりと引かれているのは田中も同じだ。人として男として憧れる。二十四歳の田中が現在の高橋と同じ二十九歳になったときには、高橋のようになれている……だろうか。憧れではあっても、自分がそれをできる気がしない。やはり高橋だから嫌みなく、気遣いとして行動できるのだ。

 軽くセットしている自分の黒髪を手で撫でつける。少しくせのある髪を自然に整えるようになったのは、高橋と出会ってからだ。同じセットをするのが恥ずかしくて、『セットをする』行為だけ真似している。

 缶コーヒーのプルタブをあげ、ひと口飲む。いつもと同じ、ミルク入り砂糖なし。苦みが気分をすっきりとさせてくれた。



「はあ……」

 休憩室には田中だけなので、思う存分ため息をつく。備えつけの三人掛けベンチの端に座り、俯いて盛大に息を落とした。

 そんなつもりはなかったのに、電話口で問い合わせ客から怒鳴られた。言葉遣いがなっていない、とひたすら怒られてしまった。田中にはまったく他意などなかったが、言葉を曲解されたと言っても過言ではない。そのあとから、ため息が止まらない。

「気をつけないとな」

 言葉はいろいろな意味を含むことがあるから、勉強不足なのはたしかだ。というわけで、スマートフォンのショッピングアプリで、正しい日本語の使い方の指南本をカートに入れる。決済をしようとしたところで、休憩室のドアが開いた。

「お疲れさまです」

「お疲れ」

 入ってきたのは高橋で、田中の顔を見るなり表情を曇らせた。

「どうした?」

 落ち込みが顔に出ていたのだろう。気遣ってくれる優しさに、胸がいっぱいになった。

 話そうか話すまいか悩んだのは、自分の中のちょっとしたプライドだ。弱いところを見せるのが少し恥ずかしかった。そんな気持ちを読み取ったのか、高橋は休憩室内の自動販売機で缶コーヒーを二本買い、一本を田中に差し出す。

「誰にも話したくないこともある」

「そういうわけじゃ……ないんですけど。なんか情けなくて」

「じゃあ、昇華して経験にしたほうがいいかもな」

 言葉がすとんと心に入る。

「……経験に……」

「どんなことだって、経験として積み重ねるのは無駄じゃない」

 他の人が同じことを言ったら、自分はこれほど素直に受け取れただろうか。不思議なほどにしっくりと心にはまり、ただただ頷きたい。

「はい。そうですよね」

「少し気持ちが楽になったか?」

「高橋先輩のおかげです。ありがとうございます」

 ぺこりと頭をさげると、またも缶コーヒーが差し出された。ほら、と促され、手を伸ばす。

「あ、すみません。僕だけ座ってて」

「そういうのは気にしなくていいんだよ。ここ休憩室だし」

「でも」

 それでも田中が気にすると、高橋は数度目をまばたいてふわりと微笑んだ。朝陽がのぼるような眩しい笑顔に目が引き寄せられる。優しいのに華やかで、人目を引く。

「田中のそうやって人を気遣えるところ、すごく素敵だと思う」

「そんな……僕なんて」

「褒め言葉は素直に受け取っておいたほうが得だぞ」

 高橋こそ素直に田中の隣へ腰をおろし、首を動かしている。田中を気遣ってはいるが、高橋も疲れているのかもしれない。

 今もらった言葉は本当にそのとおりなので、もう一度頭をさげる。こういう優しい言葉を自然に言える男になりたい。高橋といると今の自分でいることがもどかしい。もっと上を目指したくなる。それは昇格とか立場的なものではなくて、人間性の向上だ。

「ありがとうございます」

 受け取った缶コーヒーに目を落とし、砂糖入りのコーヒーだと気がついた。いつも高橋がくれるものとは違い、缶に『やさしい甘さ』と書かれている。不思議に思って隣を見ると、高橋も田中を見ていた。目が合ってどきりとし、慌てて目を逸らす。慌てる必要などないのに、高橋のいつくしむような視線を受けたら落ちつかなくなった。

「疲れたら糖分が必要だからな。ちょっと怒鳴られたくらい気にするな。次に生かせばいい」

 あ、と声が出た。

「知ってたんですね」

「そりゃな。一応『先輩』ですから」

 またも高橋の言うとおりで、隠そうとした自分が恥ずかしくなる。それこそ叱られるかと思ったが、高橋は田中を責めたりしなかった。

「さっきも言ったけど、どんなことも経験にできる。そのあとどうするかが岐路になる」

「はい。さっき高橋先輩が来る前に、日本語の使い方の本を買おうとしてたんです」

 目を丸くした高橋は、ふっと声に出して噴き出した。普段見せる大人の笑顔ではなく、少し幼く見える笑顔は、高橋の素の姿のように田中の目に映る。コーヒーをひと口飲んだ高橋は、自身を落ちつかせるようにふうと息を吐き出した。横顔に硬質な色気を見て取り、女性が騒ぐ気持ちが少しわかった。たしかに恰好いいし、色っぽい。同性の目で見てもこれほど魅力的に映るのだから、異性が意識しないほうがおかしい。

「真面目だな。そういうところは俺も見習わないといけない」

「たいしたことはできないけど、失敗を繰り返さないようにしたくて」

 そもそも失敗すること自体が未熟なのだが、未熟なままでいたくない。田中の意気込みに高橋は目を瞠った。おかしなことを言ったかと首をかしげると、高橋の驚きが微笑みに変わる。笑顔があまりに美しくて、今度は田中が目を見開いて息を呑む。

 高橋は、美しくしようと意図して微笑んだり行動したりしていないだろう。それがかえって美麗さを引き出す気がする。

「ぼ、僕も高橋先輩みたいになりたいです」

 一分ほどの沈黙に気まずさを感じる。ぱっと目を逸らし、『やさしい甘さ』の缶コーヒーを口に含む。まるで高橋の優しさのような甘みが喉を潤してくれて、ほっとした。横顔を見られている気がして、隣の高橋に目を向けられない。緊張と動悸がやってきて落ちつかず、そわそわとしてしまう。

 どうしてこんなに緊張しているのだろう。どうしてこんなにどきどきするのだろう。考えてみてもわかるはずがなく、ぼうっと火照る頬を隠すために俯いた。ひどく恥ずかしい。

「ふ、はは……」

 噴き出した高橋が笑い出す。上目に様子を窺うと、とても楽しそうだ。

「高橋先輩?」

「俺さ、けっこう不器用だよ」

 唐突な話題に、頭に疑問符が浮かぶ。

「え?」

「だからさ、今夜飲みに行こう」

「……?」

 ますますわからない。話がつながらず、脳内が疑問符だらけになる田中の顔を高橋が覗き込む。身をかがめて見あげるように目を覗かれ、また動悸が襲ってくる。逃げたかったわけではないが、無意識に頭を引いた田中に高橋はまた笑う。コーヒーの缶を手の中で揺らした高橋が、ひとつ吐息をついた。

「本当に不器用なんだよ、俺」

「はい……?」

 そんなふうには見えない。話のつながりがわからないが、それでも高橋に『不器用』の三文字がまったく似合わないことはたしかだ。なんでもそつなくこなしてスマートで、誰もが憧れる男。そんな男が不器用なんて、信じる人のほうが少ないだろう。

「田中が好きだけど、素面じゃ好きって言えないんだよ」

「へ?」

 頓狂な声を出した田中に、高橋が目配せする。ようやく意味がわかった。田中の緊張を読み取って、冗談でほぐしてくれているのだ。

「素面でも言ってるじゃないですか」

 ここで本気にして慌てたら、大人の男には近づけない。高橋に負けないようにスマートに受け流すと、高橋はさらに自信ありげに笑んだ。

「冗談だと思ってるだろ」

「え?」

「本当に今夜飲みに行こうな。まあ、本気で酔って告白するつもりなんてないけど」

 どういう意味か聞こうとしたのに、高橋は腰をあげて、さっさと休憩室を出ていってしまった。残された田中は、高橋の気配の名残を茫然と感じるしかできない。混乱する頭の中で、先ほどの言葉を繰り返す。

「え、え……っ!?」

 意味がわからない言葉の解釈がぱっと頭に浮かび、空いた缶を手から落としてしまった。

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