仲良くしよう?
――夢を見ていた。
それは、見たことのない風景。
刻は深夜、天に陽光はなく禍き血の色を称える紅い月。
人工物はいま踏みしめている足下の石畳のみ、周囲は深く樹々に覆われ、人の気配は自分の者と、相対する眼前の相手、そしてその相手がしがみついている何者かの三人のみ。
そこで私は。自らの腕を持ち上げる。
そして、告げる。言葉を――
「違うっ!」
何かを告げようとした次の瞬間。私は、その夢から絶叫と共に目を覚まして解放された。
何が違うのかは知らない。何が嫌だったのかは分からない。しかし、とにかく胸から喉にかけてコークタールでも詰まってしまったかのような、胸焼けを伴う嘔吐感があった。
もう冬も間近だというのに、身体中が嫌な汗で濡れている。これは登校前に、一回お風呂に入らないと――
と。
そこで私は、今の自分が悪夢を見て発汗する自由もままならない身分なのだと言うことを思い知った。
「文化祭?」
「そ、文化祭。うちの学校、まだ学祭終わってないんだよ」
授業と授業の合間、休憩時間。私のオウム返しの質問に、同学年の友人・松田かなみが答えてくれた。
「だからさ、風丘に越してきた早々で、右も左も分からないところ悪いんだけど、できる限り手伝ってもらえるかな?」
わずかな遠慮をこめた笑顔で、松田さんはこちらの様子を伺ってくる。
転入したての私に気遣ってくれていることは、それで分かった。
「それは、学生として手伝うのが当然ですね。何かできることがあれば、遠慮なく申しつけてください」
だから私は、出来うる限り気遣わせないように微笑んで答えた。
「足手まといにならないよう努力しますから、松田さん、よろしくご指導のほど、お願いします」
「ご指導って、そんな改めて言われるほど大仰なものじゃないけどさ」
私の意志表示はうまくいったのか、松田さんは肩から力を抜いて、表情を作り笑いから自然な笑顔に移行してくれた。
「じゃあ、喫茶店やるための食材や飾り付けの材料の買い出し、手伝いよろしくね?」
「分かりました。ご指摘されたように、私は未だ風丘は右も左も分かりません。松田さんに道案内していただかないと立ち往生してしまうでしょうから、出かける時に荷物持ちとして声を掛けてください」
「うんうん、よろしく……て、そうそう、この間のことだけど」
「この間?」
「伊勢さん、あの不良どもにお灸据えてくれたんでしょ? 教師からの発表は違ってたけど、みんな分かってるから」
「――それは」
「気にしてる? 暴力を振るったこと」
「……どうして、そのようなことを?」
「なんか、気にしてるように見えたから」
そう言って肩をすくめた後、『確かに、簡単に暴力で片づけるって、褒められたことじゃないんだろうけど――』という前置きと共に松田さんが告げる。
「あいつら、本当にタチ悪くてさ。学校側は世評を気にして隠蔽してるけど、あいつらのせいで不登校になってる子、結構いるんだ。中にはイビり倒されて自殺一歩手前まで行った子もいてさ……だから伊勢さんがやりすぎた、とは誰も思ってないよ、正直」
だから、気に病んでるようならあまり気にしないでね、と松田さんは締めくくった。
そう言っていると、ちょうど休憩時間終了、授業開始五分前のチャイムが鳴り響く。松田さんは席に戻っていった。
――今の話で、いくつか疑問が浮かぶ。
自分たちでどうにかできない相手を、他の誰かが倒したから喜ぶ。一見、他者依存で無責任な品性なきことのように感じるが、誰もが私のように個で集団の暴力に立ち向かえる訳ではないだろう。
私とて、伊勢の家に生まれていなければ彼女らと同じく非好意的沈黙をもって対応するよりなかったかも知れないのだ。だからそれは良しとした。
問題は、気に病んでいたように見えたという言葉。
正直に言ってしまえば。私はあの暴力事件に関して、罪の意識は抱いていない。
純然な武芸家としては問題があるかも知れない。だが、多数を持って個を囲み、恐喝してくるような輩に掛ける情けは私は持ち合わせていない。他者に暴力を振るう者は、暴力を振るわれる覚悟を負って然るべき、というのが持論だからである。
ならば、他者から見ても明らかな“気の病み”とは、私の久遠沙織への拘りに他ならない。
まさか自分が、他の人間から見て何かに思い煩っているのが分かるほど態度に出してしまっていたとは思っていなかった。
――他者に自分の心理状態を気取られるのは、未熟な証拠。これを機に、直していくことにしよう。
私は、次の授業の準備をしつつそう考えた。
放課後。私は松田さんに同行して、風丘町は隣の東清川市に買い出しにやってきていた。
私の住居がある町は、間にいかなる区も挟まず、隣市・東清川の真隣にある。そして私にとっては、決して足を運ばない場所ではない。
何故ならここには伊勢古武術流の道場があり、普段、稽古をつける時はここまで来るからだ。
もっとも、通るのはその道場から私の部屋の間の道のみ。東清川という町中は、松田さんがいなければ右も左も分からないのは変わらない。
「伊勢さんがいてくれて、本当に助かっちゃった」
買いだした荷物を抱えている私に、松田さんが話しかけてくる。
「正直、それだけの荷物を持ってもらえるとは思わなかったよ」
「そうですね。私は普段、鍛えていますからこれくらいは何とかなりますが、他の方では、少し厳しいかも知れません」
両手いっぱいに抱えた荷物、下手すると合わせて二十キロ以上はある。ちょっとした距離ならともかく、これを持ってここ東清川から再び風丘に戻ろうと思うと体育会系の男子生徒でようやく、といったところか。
他者からすれば少なくとも、身長が百五十五に届くか届かないかの私のような小柄な女に持てる荷物量、とは考えにくいに違いない。
「伊勢さんって、なんか武士って感じだよね」
「……はい?」
「なんてーのかな、こう“つまらぬものを切ってしまった”みたいな言葉が似合うっていうか?」
「……それを言うなら、せめて武“人”と呼んでいただけるとありがたいです。武士、というと何か殿方のようなイメージが」
「えー? それなら伊勢さん、小柄な美少年って趣があるから、男装似合いそうだし武士ってピッタリじゃない? むしろ」
ニコニコと微笑みながら告げる松田さんには、きっと悪意がないのだろう。
でもそれは、“体型が女らしくない”と言われているようなもので、私としてはまったくもって嬉しくない。
「私たちはまだ一年生です。数年もすれば、私も男装なんか似合わくなっていますよ」
「えー……伊勢さんはそのままが良いよ。永遠の美男装キャラでお姉さま方のハートをがっちりキャッチ♪ 目指せ宝塚ー! みたいな?」
「不吉なこと言うのはやめてくださいっ」
宝塚に興味などないし、このまま若輩の男子に間違われるような体型のままでいたいなどとは露ほども思わないっ。
「大丈夫大丈夫、てかもう美の神様が成長とめてくれてるって!」
「いえ、全然大丈夫じゃないですからそれ!」
……このまま成長が止まったら私は、松田さんが言う美の神様とやらを、未来永劫死ぬその日まで恨むことになるだろう。
そこまで話すと、しばらく沈黙の時間が続く。黙々と風丘市へと向かう駅へと向かって歩き続けた。
途中、その沈黙を破ったのは松田さんだった。
「……思ったより、話しやすい人だよね、伊勢さん」
「はい?」
「最初はもっと近寄り難い雰囲気だったけど、普通に話せるし」
「? 学友と普通に話さない、などということはしませんが。どうして近寄り難いなんて――」
と、そこまで言って私は原因に思い至った。
「あの不良生徒たちを、どうにかしたからですか?」
「んーと……正直、そう。でも伊勢さん、ずっと学校の態度マジメだったし。あのバカたちと違って強くても鼻にかけない良い人なのかなーって。それで思い切って私がC組代表として話しかけてみました、て感じ」
「……そうでしたか」
先日の暴力沙汰に、私があまり罪悪感を抱いていないことは先に述べた。
しかしそのことによって、学友たちにいらぬ緊張を強いたのなら、それは十分に申し訳ないことだった、と思う。
私は謝罪の意を兼ねて、松田さんに告げた。
「転入早々、いらぬ気遣いをさせてしまいました。ご迷惑でなければ、今後は気を置かず接していただければ幸いです」
「……うん、そう言ってくれるなら、まずその堅い態度や喋り方を軟化させてくれるとありがたい、かな」
たはは、と、困ったような顔で笑う松田さん。
……私としては、いつも通りの話し方をしているだけのつもりなのだが。
「堅苦しいの、苦手なんだよね。だからクラスにとけ込む最初の一歩! て考えて、まずは私たちから仲良くしない?」
「それは、こちらからお願いしたいくらいです」
「あー堅い堅い。そーだねぇ……あ、じゃあまず、静佳って呼んでいいかな? わたしのことはかなみって呼んでよ。こうして名前で呼び合ってれば、そのうち嫌でも態度や喋り方も軟化してくでしょ」
「――そうですね、いきなり慣れ慣れしくするようで申し訳ありませんが、そういうことでしたらよろしくお願いします、松田さ――あ、いえ、かなみ、さん」
「ま、徐々に、ね?」
「そうですね」
そう話し合うと、私と松田さん――いや、これからは心の中でもかなみさんと呼ぼう。私たちは二人で苦笑しあった。
そうして私たちは電車に乗り、風丘町に向けて戻り始めたのだが。
そんな和やかな帰り道の電車移動の途中、私たちは、風丘駅のホームで先日の不良たちと出くわしてしまった――