第7話「笑顔のまま、調べる」
宮廷の回廊で、その男を見た。
夕方の回廊は西日でオレンジ色に染まっていて、壁に掛かったタペストリーの金糸が光っている。夜会の前のひとときで、貴族たちが三々五々と集まり始める時間帯。私は社交の挨拶回りの途中だった。
レオンハルトの姿を探して——ではなく、推し活のための情報収集として周囲を観察していたところ。回廊の奥から、二人分の足音が近づいてきた。
一人は推し。
銀の髪、碧い目、第一騎士団の礼装。夜会のための正装で、普段の訓練着とは違う深紅のマントが肩にかかっている。
(推し in 礼装!!!正装レオンハルト!!!ゲームの立ち絵「夜会ver.」が実在している!!!)
そしてもう一人。
レオンハルトの横を歩いている壮年の男。黒髪に灰色が混じり、整った顎鬚を蓄えている。背は高く、軍人特有の姿勢の良さがある。微笑を浮かべているが、目が笑っていない。
ディートリヒ・フォン・クラウス。第一騎士団長。
「——副団長、最近お顔色がよろしいですな。どなたかに甘やかされていますか」
ディートリヒの声が耳に届いた。穏やかな口調。紳士的な物腰。でもその一言に、圧がある。
レオンハルトの表情は変わらない。いつもの無表情のまま。でも——肩が、わずかに強張った。
(……推しが、緊張している)
私は推しの微細な変化を読み取る。それは推し活の成果であり、54回クリアした者だけが持つ解像度。レオンハルトの肩が1ミリ上がったこと、歩幅がほんの少し狭くなったこと。それだけで、この男の存在がレオンハルトに圧をかけていることがわかる。
「団長殿のご配慮に感謝いたします」
「いやいや、部下の体調管理は上官の務めですからな。——ところで副団長、先日の嫌がらせの訴えの件、婚約者殿がなかなかお騒がせのようで」
「あれは事実無根と聞いている」
「ええ、ええ。そうかもしれませんな。ですが——噂というのは立つだけで傷がつくもの。あなたのお立場にも影響しかねませんよ?」
微笑のまま。にこやかなまま。
でも声の温度が、一段下がった。
二人が回廊を通り過ぎていく。私は柱の影で、扇で口元を隠したまま、その背中を見送った。
(——推しの敵、発見)
内心が切り替わる。
ディートリヒ・フォン・クラウス。推し活情報ノートの要注意人物。嫌がらせの訴えの証言者に繋がっていた男。レオンハルトの昇進を妨害している可能性のある上官。
情報としては知っていた。でも今、この目で見た。推しに対して圧をかける姿を。推しの肩を強張らせる声を。
怒りではない。怒りよりもっと冷たい何かが、胸の底に沈んでいる。
笑顔を保つ。令嬢の顔を崩さない。
扇を閉じて、回廊を歩き出した。夜会の会場に向かいながら、すれ違う貴族たちに挨拶をする。にっこりと、優雅に、何事もないかのように。
「ごきげんよう、ベルンシュタイン夫人」
「あらセラフィーナ様、今日もお美しいこと」
「恐れ入ります。——ところで夫人、第一騎士団の人事について何かお耳にされていませんか? 先日の夜会で少し気になるお話が」
情報は会話の中に落ちている。社交の挨拶は情報収集の入り口。前世で推し活アカウントの情報網を構築した技術が、ここでは直接対面で機能する。
ベルンシュタイン夫人から、クラウス家の最近の動向を少し。次に財務卿夫人から、騎士団の予算配分の噂を少し。侍従武官の妻から、ディートリヒが最近頻繁に宰相と会食しているという情報を一つ。
全て笑顔で。全て世間話の体裁で。
夜会の間、3時間。推しの姿を目で追いながら——いや、正確に言えば推しの姿を追うのは自然に行われるので意識しなくていい——ディートリヒの周辺情報を集め続けた。
ディートリヒは今、レオンハルトの次期団長就任を阻止しようとしている。ゲームではこの対立は「背景設定」として語られるだけで、具体的なイベントにはならなかった。でもこの世界では、現実として進行している。
推しの敵が、推しに手を伸ばしている。
それを——推し活で止められるかもしれない。
夜会が終わり、帰宅する馬車の中。マルガレーテが向かいの席で私の顔を見ていた。
「お嬢様。今日の夜会、やけに社交的でしたね」
「いつもと同じよ」
「いつもは推し——レオンハルト様の動向を追うのに忙しくて、社交どころではないのに。今日は3時間ずっと情報収集していました」
「……見てたの」
「お供ですので」
マルガレーテがこちらを真っ直ぐ見ている。馬車の揺れが、小さなランタンの灯りを壁に踊らせる。
「ディートリヒ団長のことを調べていましたね」
「——ええ」
「レオンハルト様への圧を見た、ということですか」
「……回廊で。推しの肩が強張るのが見えた」
マルガレーテが少し黙って、それからゆっくりと頷いた。
「お嬢様の推し活は時々、恐ろしい方向に進化しますね」
「推しを守るためよ」
「推しを守る、ですか」
「推しの幸せが最優先。推しの幸せを脅かすものは排除する。それが推し活の本質よ」
「……お嬢様。それは『推し活』ではなく——」
マルガレーテが何かを言いかけて、やめた。首を振って、窓の外に目を向ける。
「いえ、やめておきます。それで、何がわかったんですか」
「まだ断片的だけれど。ディートリヒは宰相と繋がっている。騎士団の人事に宰相の息がかかっている可能性がある。推しの昇進を阻む構造は、ディートリヒ個人の問題じゃない」
「それは——お嬢様の手に余るのでは」
「手に余るかどうかは、情報が揃ってから判断する」
馬車が伯爵邸に着いた。夜空に星が散らばっていて、庭の薬草園からラベンダーの匂いが淡く漂ってくる。
書斎に入り、推し活ノートではなく情報ノートを開く。
今日集めた断片を、一つ一つ書き留めていく。ディートリヒの交友関係。宰相との会食の頻度。騎士団人事への介入の痕跡。
ペンを走らせる手は安定している。笑顔の裏で集めた情報が、紙の上で形を成していく。
推しの敵を調べる。笑顔のまま、調べる。
推し活の延長線上に、こんな暗い道があるとは思わなかった。でも推しの肩が強張る世界を、私は許容できない。
次話:「布教という名の外交」




