第三十七話:味の薄い粥
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夜が来るたびに、村の輪郭が少しずつ固まっていく。
火は消えない。
井戸の縁は崩れない。
屋根は、雨を弾く。
俺が手を入れた場所は、昨日と同じ形のまま残っていた。
残る、という感覚が、少しだけ不思議だった。
俺は焚き火の端に膝をついたまま、指先の泥を落とす。
泥は落ちる。
それでも、指先にはまだ熱が残っている。
その熱だけが、ここでやったことが夢じゃないと教えてくれる。
村の奥で、人の声がする。
大きな声じゃない。
笑い声でもない。
でも、泣き声でもない。
器が当たる音。
木が擦れる音。
布が揺れる音。
管理表には載らない、生活の音だ。
俺はその音を、少しだけ長く聞いてしまった。
胸の奥が、落ち着く。
落ち着いてしまう。
甘えていいのか分からないのに、呼吸が勝手に深くなる。
火の向こう側で、子どもが一人、走って転んだ。
泣かなかった。
すぐに起き上がって、また走っていった。
俺は目を伏せる。
見たら、余計なものが混ざる。
混ざったら、俺はここで役割になる。
それだけは、まだ避けたい。
それでも――
今の俺は、少しだけ胸が軽い。
不意に、背中の方から声がした。
「……おぉい」
聞き慣れた声じゃない。
でも、敵意のない声だった。
振り返ると、村人の男が立っている。
痩せている。
痩せているのに、目が死んでいない。
その手に、木の器があった。
中身は、薄い粥。
昨日と同じだ。
味はきっと薄い。
でも、湯気が立っている。
「食うか」
それだけだった。
礼もない。
感謝もない。
祈りもない。
ただ、当たり前みたいに差し出してくる。
俺は受け取るか迷って、
迷った自分に気づいて、少しだけ笑いそうになった。
こんなことで迷うとは思わなかった。
でも、迷う。
俺は器を受け取った。
指が触れる。
男の指は冷たい。
冷たいけど、生きている冷たさだった。
「……ありがと」
口から出た。
勝手に出た。
男は、頷き返した。
それで終わりだった。
俺は器を持ったまま、火の近くに腰を下ろす。
粥を口に運ぶ。
味は薄い。
薄いけど、胃に落ちる。
落ちることで、自分の中の空洞が少しだけ埋まる。
俺は器を見下ろした。
村のどこにも、俺の名前は書かれていない。
誰も俺を呼ばない。
呼ぶ必要がない。
それが、ありがたかった。
俺はここで、奇跡じゃない。
役割でもない。
ただ、手が動く人間だ。
火の向こうで、誰かが小さく笑った。
軽くはない。
でも、痛くもない。
確かな重さが、そこにあった。
俺は息を吸って、吐いた。
この場所は、今も立っている。
それだけで、今日は十分だ。
ふと、頭の片隅に、別の背中が浮かぶ。
化け物みたいに強くて。
化け物みたいに自由で。
それでも、どこか楽しそうな女。
ミレイナ・ルイファス。
姐さんなら、どうするだろうな。
きっと、迷わない。
迷わず笑って、迷わず手を伸ばして、
迷わず世界を動かす。
俺は、そこまでじゃない。
だから今は、これでいい。
俺は立ち上がり、村の端へ歩く。
次に屋根を置く場所を探す。
ただそれだけのことをしながら、思う。
ここが、受け皿で終わらないように。
ここが、俺の役割にならないまま。
それでも、ちゃんと生活として残るように。
俺は息を吸って、吐いた。




