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守護女神ヴィセラへの反抗

霞ヶ関の朝は早い。

新橋駅の改札を抜けると、スーツの群れが一斉に動き出す。

私はその流れの中に紛れ込みながら、ほんの少しだけ子どものような願いを吐き出す。

「ヴィセラ、私働きたくないよ。遊んで暮らしたいよ。」

外務省へ向かう通勤途中、私はそんな甘えた言葉を胸の奥でつぶやく。


ヴィセラの回答はない。いつも通り、沈黙だけがある。


その代わりなのかどうか分からないけれど、

休みの日、近所を歩いていると、左側通行で歩いている私に向かって、

スマートフォンを見たまま一歩も譲ろうとしない男が突進してきた。


私は止まり、男は気づかない。

ぶつかる直前で、私が避ける。


(休みだからといって、楽しいことばかりじゃないんだよ?)


まるでヴィセラに説教されているような気分になる。

でもそれは、本当に守護女神ヴィセラの声なのだろうか。


ただの、前を見ていない人間の問題ではないのか。

私は、すぐに自分に問い返す。


連絡が途絶えたと思っていた正城大学の友人と、またやり取りを始めている。


私が妄想暴走症になったあとも、特別扱いもせず、距離も置かず、

ただ普通に、尊重してくれる唯一無二の友人。

彼女も長い間、闘病をしていたが、最近断薬に成功して落ち着いているらしい。

それだけで、世界は少し柔らかくなる。


「ねぇ、ヴィセラ。正城大学って、私が“正常”だから進んだの?」

そんな語呂合わせを思いついて、ひとりで苦笑する。冗談だ。

でも、冗談を言えるということが、私がちゃんと地面に立っている証拠でもある。


最近、韓国に住む親せきから連絡があった。

私が外務省に入省したことを気にかけてくれている。

七歳下のヘジュギ。

長い不妊治療の末、去年ようやく男の子を授かった。

その知らせを聞いたとき、私は素直に嬉しかった。


嫉妬はなかった。ただ、命がここにあるという事実に、静かに感動した。

私はどこかで思っている。

ヴィセラは、私の望むことは叶えてくれない。

その代わり、妹の紗那や、ヘジュギのような女性たちの夢を叶えてくれる存在だ、と。

だから私は、少し我慢する役なのだ、と。

他の女性たちが幸せになれるなら、それでいい。そう思ってきた。


けれど最近、胸の奥に別の声が浮かぶ。

「世の中の女性が100%幸せになれないのは、妨害があるからだ」

そんな考えが、影のように差し込む。

その妨害が、従妹のやっちゃんだという。

やっちゃんは、どこかで私を下に見ている。


だから女性が100%幸せになれないのだ、と。

さらに思考は膨らむ。

私に関わっている人が、私を下に見ると、その人は宇宙で最悪の生命体になる運命だ――

そんな、極端な物語が立ち上がる。

年上だからとか、立場が上だからとか、

そういう単純な話ではなく、私を利用しようとする人は、宇宙で最悪の生命体になってしまうという理屈らしい。


それが、従妹のやっちゃんだというのだ。

同じ親戚でも、ヘジュギは私を見下していないが、やっちゃんは私を見下し利用する。


……そこで私は、冷静に考える。深呼吸をする。


新橋駅の階段の冷たさ。スーツの擦れる音。改札の電子音。


現実は、ここにある。

これは、ヴィセラの声だろうか。

それとも、私の防御反応だろうか。

傷つかないために、世界を壮大な物語にしてしまう癖。


私は知っている。


妄想暴走症は、完全に消えたわけではない。

けれど、私は今、その思考を観察できる。

信じすぎない。否定もしすぎない。

ただ、「今そう考えている自分がいる」と確認する。


「ヴィセラ、私はちゃんと現実を見ているよね?」

返事はない。


でも、私は今日も外務省で働く。

コピーを取り、資料を整え、シュレッダーをかける。

地味で、確実な作業。


宇宙も、妨害も、パラレルワールドも、そこには入り込めない。

私は、私の歩幅で生きている。


速すぎる時間の中でも、遅すぎる時間の中でもなく、ただ自分の足で。


――私の言葉を100%信じないで。

ヴィセラのその言葉は、深い意味を持っているような気がする。


やっちゃんが”宇宙で最悪の生命体だ”という暴走しそうな思考に、

そっとブレーキをかけるための合図だ。


私には心の真っ黒な部分がある。

これを心の闇と言う。


妄想暴走症の恐ろしいのは、こうした被害妄想も進むことなんだ。

だから私は病院にも通っている。

服薬もしている。


私は何様だからって、見下されるとその相手が宇宙で最悪の生命体になるというの。

たとえ誰が私を見下したとしても、私を利用したとしても構わないじゃない。


だけど、ヴィセラは確かに私に問いかける。

これは本当のことなんだよ。

やっちゃんは京子を蔑む宇宙で最悪の生命体なんだよ。

ヴィセラはいるよ。


そういう声が聴こえる。やっぱりこれは幻聴なの?

いや、そうだとしたら、私はやっちゃんの心の闇を救いたい。

私にも心の闇がある。


私の心は決してきれいではない。


やっちゃん、大丈夫?今私が助けに行くからね。待っててね。

私はこの時ばかりはヴィセラに反抗する。

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