04.ロディオンという人間
淑女のものとは決して言えない絶叫が王城地下の一室に響いた翌日、アストリッドは王太子の招きに応じて再び王城に赴いていた。
「ねぇ、ヴァル。こっちで編み込むリボンは緑の方が良いと思わない?」
「いや赤のほうが……と思ったけど二色交ぜてみるのも良さそうだ」
「それは良いわね! そうしましょうか」
王太子ヴァルドールの宮殿に通されたアストリッドは無の顔でじっと椅子に座り、その背後で和気あいあいとアストリッドの髪を編み込んでいる王太子と王太子妃を意識しないようにしていた。
しかし目の前には、アストリッド同様に客として招かれているロディオンが麗しく紅茶を飲む姿があるため、完全に無になりたくともあっさりと気が散っていく。悔しいほどに顔と所作と雰囲気が良い。
仕方がないので、目を閉じて自分の髪について考えることに集中することにした。
アストリッドの地髪はふわふわを通り越したぼわぼわヘア。
柴色の細い毛は妙に頑固に広がろうとするため、幼い頃から世話人泣かせだった。
そこに現れた救いの手の持ち主が王太子である。
彼は子どもの頃から人の髪を結うのが好きで、老若男女問わず触りたがった。しかし長じてからも誰彼構わずに手を出されるのも困るので、母親たる王妃から「誰かひとりに絞りなさい」と宣告されてしまったのだ。
王太子はそのタイミングで子ども茶会で見かけたアストリッドの頑固な髪質に惚れ込んだので、悩むことなく王妃の言う「誰かひとり」が決定したのである。それ以来、アストリッドは定期的に彼の宮に招かれて髪を結われている。
王太子とアストリッドは少し遠い親戚ではあるがそれ以外の関係はない。
一応は友人と言っても差し支えはないだろうが、あえて言うならペットとか生贄とか、そんなものである。
王太子が私財を投じて魔女に作らせたのは髪用魔法薬で、それによってアストリッドの髪質は改善を見せてきた。つまりアストリッドとしても益を得ているため嘆くのも微妙な立場である。
余談だが、その髪用ポーションで改善してもなおふわふわと広がる髪と丸めの輪郭がアストリッドの特徴である。
家族からは愛情を込めて「狸」のようだと愛でられているが、アストリッドとしては前世の記憶にある「柴犬」だと思っている。狸も可愛いが柴犬の方が良い、なんとなく。
ちなみにこれは父親からの遺伝で、弟妹は母親の遺伝が強くて全体的にすらりとしている。とてもずるい、そっちが良かったとアストリッドも今でも思う。
口に出すと家族全員から嘆かれるので決して言わないが。母は今でも父に一途なのだ。
話を戻すと、アストリッドは王太子の結婚によってこの生贄のお役目が終わると思っていた。
普通に考えれば、仕事でもないのに夫が他の女の髪に触れている光景は好ましく映ることはないだろう。
だがしかし隣国の王女である王太子妃は普通ではなかった。王太子の同類だった。
詳しく聞けば婚約時代の文通にて趣味で意気投合しており、そこでアストリッドの存在にまつわる話もとっくに済ませていたのである。
そうしてアストリッドのお役目は延長戦を迎えている。とりあえずはアストリッドが結婚するか、王太子夫妻に子が生まれるまでらしい。
せめて自分の婚約までにして欲しい……と思ったタイミングでロディオンと目が合い、動揺し咄嗟に逸らしてしまう。
目の前から微かに笑う気配がして、なんだか悔しい。
そう、これはロディオンとのお見合いの場なのだ。
アストリッドの後頭部がなんだか騒がしいが、これはお見合いの場らしい。
王太子夫妻が仲介するお見合い。
いち臣下に拒否権なんてものは、存在しないのである。
◇
「うんうん。もっと可愛くなったね」
「アリガトウゴザイマス」
王太子夫妻が満足するまで無になり、あとはふたりで……と放流されたテーブルでぎこちない会話をしているのはアストリッドとロディオンである。
見た目は極上なのに口を開けばこの軽薄っぷり。アストリッドは冷静さを取り戻してきた。
「さて。お互いそれなりに知ってると思うけど、改めて自己紹介が必要かな?」
「結構です」
「自己紹介が要らないくらい知ってくれてるのは嬉しいね。それじゃあ、転生者ってやつについて教えてくれるかな」
「――ゴフッ!」
ある種の気の緩みから一転、予想外の角度でロディオンに変化球を投げ込まれたアストリッドは思わず紅茶を吹きかける。
急角度はやめて欲しい。先日からの流れで、アストリッドの淑女の仮面は既に粉々なのに。
「ついでにって殿下からの課題があってさ。さっさとこなしておこうかと思うんだ」
「ついでって……」
「何でも聞くから、変な話かも……とか気にせずに教えてね。ああ、君が開発したあの魔装具も使う?」
「………………いえ」
嘘発見器の開発者がその装置でごまかしや嘘を暴かれるというのも滑稽なので、大人しく答えるのが無難か。
そもそもアストリッドは百戦錬磨の政治家ではなく、厳しい訓練を受けた工作員でもない。一般的な貴族教育を受けただけの小娘の嘘など、装置が無くともロディオンには見抜かれそうな気がする。
大きな溜息をこらえて、アストリッドはどこから説明したものかと考え込む。
おそらくこの話題自体が自己紹介を兼ねているのだろう。
いまアストリッドの目の前にいる男なら、普通の会話からさり気なく情報を抜き取ることもできそうだ。でもそれをしないのは、彼の誠実さなのかもしれない。
ロディオンという人間の別側面をさっそく叩き込まれ、優しい笑顔で見つめてくる男を半目で睨みつける。
「別に、面白い話にはなりませんけど……」
観念したアストリッドは重たい口を動かす。
あまりにも荒唐無稽なので、他人に話すことは正直に言って恐ろしい。アストリッドにとっては本当のことだが、嘘と断じられたらどうしようもない。
切羽詰まっていたとはいえ、モニカはよくハイマールに話せたなと思う。彼らが周囲に相談できなかったことも、いま感情で理解した。
いざ声にしようとするもアストリッドの口がはくはくと動くだけで、空気を震わせることはなかった。
無様さに思わずうつむいてしまうとすぐ隣に人が現れた気配がする。慌てて視線を向ければ、自ら椅子を動かしたロディオンがそこに座っていた。
そして膝の上で強く握りしめていたアストリッドの手をとり、壊れ物を扱うように優しく包む。
「大丈夫。何でも聞くって言ったでしょ?」
アストリッドの心拍が瞬時に上がり、頬が赤く染まる。
なるほどロディオンに女性たちが群がるわけだ。
この顔で、この声で、この視線で。「君が大切なんだ」と言わんばかりに、心の柔らかい場所にそっと触れてくる。
見目が良く目聡いということは、もの凄い武器であるとアストリッドは痛感する。
(――ああ、いやだ面倒くさい)
こんなものを真正面から受け止めては駄目だと、アストリッドの冷静な部分が警告してくれる。
熱くなった頬を無視するため、無理矢理に思考を回すことにした。
だからそんなアストリッドの様子をロディオンが楽しげに眺めていることに気づく余裕など、彼女には無かったのである。