コミックス発売記念 SS
9月28日(木) ZERO-SUMコミックスより
コミックス一巻が発売されます。宜しければ、お手にとってみてください。
羊花の家は、門限が早い。
特別な予定がある日は除いて、十九時までには帰るよう義務付けられている。
しかし、それを苦にした事は無かった。
羊花は元々、活発な方ではないし、友達とも放課後に二、三時間遊べれば十分満足。足りないのなら休日に朝から遊べばいい。
それに家族が過保護なのは羊花が過去、心配させた事が関係していると知っていたので、反抗する気も無かった。
ただ今になって、ちょっと……ほんのちょっとだけ、それを残念に思っている。
街中に貼られた花火大会のポスターを眺めながら、羊花はそっと吐息を零した。
「ひつじ」
「ひぇっ?」
背後から突然話しかけられ、肩がびくりと跳ねる。
聞き覚えのある声だったので、怯えた訳ではない。ビビリの名残であり、ただの反射だ。
振り返ると予想通り、黒崎が立っている。
彼は羊花の顔とポスターを交互に見てから、首を傾げた。
「行きたいのか?」
「……」
羊花はどう答えていいものか悩み、黙り込む。
正直に言えば行きたい。でも、羊花が砂川未愛に監禁されかけた事件から、まだ一ヵ月と少ししか経っていない。
不用意に夜に出歩こうものなら、また家族を心配させてしまうだろう。
本音を伝えても、黒崎を困らせるだけ。
かといって嘘を吐いても、黒崎には通用しない。
「行きたいですけど……今回は諦めます」
だから本音と建て前を混ぜて伝えたが、結局は黒崎を困り顔にさせただけだった。
たぶん黒崎は、羊花の我儘を叶えたいと思っている。
でも同時に、家族に不誠実な事もしたくないのだろう。だから、板挟みになって困っている。
そんな黒崎の真面目さを、羊花は好ましく思う。
不良チームの総長なんて立場にありながらも、曲がった事が嫌いな彼の気質や、意外な不器用さが、羊花は愛しかった。
もちろん、優しいだけの人ではないと知っている。それでも、怖い部分も含めて受け止めるのだと、羊花は覚悟を決めていた。
「大丈夫。今年じゃなくても、花火は見られるから」
だから、わざとらしいくらい明るく笑ってみせる。
これから先も一緒にいるから、今年の花火に拘る必要はないのだと言外に告げた。
一瞬、言葉に詰まった黒崎も、表情を緩める。
「……そうだな」
少しの悔しさを呑み込んだ彼は、複雑な気持ちを誤魔化すように羊花の髪をくしゃりと掻き混ぜた。
それからあっという間に時間は過ぎ、花火大会当日。
自室のバルコニーから羊花は、夜空を見上げていた。
しかし残念ながら高いビルに阻まれて、羊花の家から花火は見えない。
遠くから重い音が響く度に、うっすらと明るくなる空をぼんやり眺める。昼間の暑気を残した夜風を浴びながら、冷えたコーラを煽った。
(空しくない。空しくなんて、ないったらない)
自棄酒ならぬ、自棄コーラ。炭酸なら気分も出るかなと思い選んだものの、あんまり好きではないので持て余している。
八割中身が残ったアルミ缶は、既に汗を掻き始めていた。
なんだか自分が馬鹿みたいに思えて、羊花は手摺りに凭れるように体を預ける。縁に置いた缶を覗き込むと、拗ねた子供みたいな自分の顔が映っていた。
別に、どうしても花火に行きたい訳では無かった。
だから家族を恨むとか、疎ましく思うとか、そんな事は絶対に無い。もちろん、黒崎に対する不満も無い。
ただ羊花は、黒崎との思い出が作れない事が、少し残念だっただけ。
付き合い始めて、初めての夏だ。ごく普通の恋人同士みたいに、色んな思い出がほしかった。夏祭りに行ったり、かき氷を食べたり、海で遊んだり。
でも、黒崎は良くも悪くも目立つ。成人前であるにも関わらず、既に完成した雄々しい美貌は、人混みの中でも埋没しない。
何もしていなくとも、それこそ花火のように人目を引く。
だが花火大会なら、皆、そちらに気を取られる。宵闇の中に紛れてしまえば、尚のこと。周りを気にせず、恋人らしい思い出が作れるのではないかと思ったのだが。
「そう上手くは行かないか」
苦笑しながら、ぽつりと呟いた。
ちょっとだけ感傷的になりながらも、そこまで悲観している訳ではない。
恋する乙女は繊細でも、本来の羊花は結構図太い。たぶん、こんな事もあったなぁと数年後には恥ずかしい思い出になっているはずだ。
(暑いし、中入って涼もう)
気持ちを切り替えて、羊花はすっかり温くなった缶を持ち上げる。
花火は見えないし、蚊に刺されるし、ここにいてもいい事はない。取って置いたアイスでも食べながら動画でも見ようと、踵を返そうとした、その時。
「ひつじ」
聞き慣れた声が、羊花を呼んだ。
反射的に下を覗き込むと、いつかと同じように、街灯に照らされた道路に黒崎が立っていた。
「!?」
ひらりと軽く手を振る様子は、あの時の再現のようだ。
でも少し違うのは、彼が手に何かを持っている事。
思い出を辿るように、羊花も慌てて室内に引っ込む。ローテーブルに缶を置いてから、階段を駆け下りた。
兄のサンダルを突っかけて、玄関を開ける。もどかしい気持ちで門扉を潜ると、黒崎が目の前に立っていた。
「……どうして」
運動不足の羊花は、少し走っただけで息切れする。呼吸が整わず上擦った声で問うと、黒崎は少し悪い顔で、口角を吊り上げた。
何も言わずに、黒崎は右手を持ち上げる。
持っていたのは、青いバケツ。それと派手な色をしたビニールバッグ。どちらも黒崎には似合っていない。
しかし羊花が目を見開いて驚いた理由はそこではない。ビニールバッグの表面に、大きく書かれた『花火』という文字だった。
「花火大会には連れて行ってやれないが、これじゃ駄目か?」
「だ、駄目じゃない! けど……」
「ちゃんと辰樹さんには許可取ってある」
風呂場で鼻歌を歌っている兄の存在を思い出したが、それを見越した黒崎は、被せるように言葉を続けた。
「いつの間に? というか、連絡先知ってたんだ」
当たり前だろ、みたいな顔をする黒崎に羊花は困惑した。
恋人の兄の連絡先を知っているのは、当然の範疇なのだろうか。そもそも、それ以前に羊花の中では、黒崎と兄はあまり相性が良くないという認識だった。
というか、兄が一方的に黒崎に突っかかっていたような。
「虐められてない?」
「ない。お前の兄さんだろ。もうちょっと信じてやれ」
(信じた上で言ってるんだけど)
黒崎と羊花の交際を、両親はすぐに認めてくれた。
しかし辰樹だけは、頑として受け入れを拒否。黒崎が真白家に日参し、羊花に対しても一定距離以上は近付かない誠実な対応を続けた結果、ようやく条件付きで渋々オッケーしてくれた。
羊花の嫌がる事はしない、学生らしい健全な付き合いをする等、十以上ある約束事を黒崎は律儀に守っている。その中の一つに『門限を破らせない』もあった。
心配してくれるのは有難い。
でももうちょっと、黒崎にも優しくしてほしいと羊花は思っている。
「大丈夫」
心境を読んだように、黒崎は羊花の頭を撫でる。
優しい笑みを浮かべていた彼は、途中で何かを思い出したように、少し不安げに眉を寄せた。
「それより、花火。やっぱり本物がいいか?」
黒崎はいつだって羊花の望みを叶える為に頑張ってくれるし、小さな事でも真剣に悩んでくれる。
それが嬉しくて、幸せで、不満なんて持ちようがない。
だから羊花は黒崎の不安を払拭するべく、笑顔で頭を振った。
「ううん。それがいい」
『それでいい』ではなく、『それがいい』。
そんな羊花の気持ちが伝わったのか、黒崎も嬉しそうに笑った。
楽しい時間はあっという間に終わる。
様々な色に変わる手持ち花火や、滝のように噴出する置き型花火。住宅街なので打ち上げ花火やロケット花火は出来なかったけど、羊花は十分楽しかった。
最後に残った線香花火に火をつける時、少し寂しくなったのは終わりが近いから。
いつの間にか花火大会も終わったのか、音は聞こえなくなった。
夜間の住宅街はまるで別世界のように静かで、花火が燃える音が小さく響く。
パチパチと音を立てて咲く線香花火も、それを見守る黒崎の目も、胸が痛くなるくらい綺麗で。何故だか、哀しくもないのに泣きたくなった。
たぶん人は、幸せ過ぎても泣けてくる生き物なのだろう。
花火大会に行きたい羊花と、夜に出歩かせたくない家族の両方を思い遣ってくれた事。
悩んた末に、家庭用の花火を買ってきてくれた事。
似合わない青いバケツを片手に、わざわざ兄の了解まで得て。そこまでしながら、喜んでくれるかと、少し不安そうな顔をしていた事。
全部が嬉しくて、幸せで、愛おしくて。
黒崎と目が合った羊花は、溢れ出そうな気持ちを言葉に込めた。
「すき」
「っ……!?」
「だいすき」
目を大きく見開いた黒崎が、息を呑む。
黒崎は羊花に手を伸ばそうとして、途中で握り込んだ。
代わりのように自分の頭をぐしゃぐしゃと掻き回した彼は、葛藤するように目を伏せ、大きな溜息を吐き出す。
「……あんまり可愛いこと、言うな。約束、破りたくなるだろ」
そっぽを向いた黒崎の耳が赤いのを見て、羊花は嬉しくなってしまう。
しゃがんた恰好のまま黒崎に近付き、ぴたりと身を寄せた。
「……羊花。お前な」
「花火大会。いつか連れて行ってくださいね」
遅くとも、高校を卒業する三年後には必ず。
遠くて近い未来の約束をすると、黒崎は軽く目を瞠る。次いで、仕方ないなというように、表情を緩めた。
「ああ」
小指をきゅっと絡め、小さく振る。
線香花火の火が落ちても、羊花達は暫く寄り添っていた。
お互いしか見えていない二人が、スイカを片手に乗り込んできた辰樹に雷を落とされるまで、あと五分。




