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前回に続き、黒崎側のストーリーとなります。
解離性健忘と医者は言った。
極度のストレスやトラウマによって引き起こされる症状で、回復には長い期間を要する事もある。薬剤による催眠療法を用いるケースもあるが、早急に記憶を取り戻す必要性がなければ、気長に回復を待つのも一つの選択だ。
羊花の両親は無理には思い出させず、自然に任せる事にした。
そして、羊花の失った記憶を揺さ振るものを遠ざけた。
羊花が閉じ込められた件は、子供の悪戯の域を超えている。
砂川未愛以外の子供達は羊花が病院に搬送された事にショックを受け、自分達の罪を認めている為、刑事事件として訴える事も可能だ。
しかし、その手段を取れば、被害者である羊花も関わらざるを得なくなる。
よって羊花の両親は、話し合いでの解決を選択した。加害者達を告訴をしない代わりに、今後一切、羊花に接触しない事を求めた。
娘、息子が犯罪者になるのではと恐れ戦いていた親達は、その申し出を即座に呑んだ。
一人は父親が単身赴任で、他県で暮らしていた為、これを機に家族全員でそちらへ引っ越した。三人はすぐに引っ越すのは難しいものの、近くの学校へと転校。
砂川未愛は母親と共に、祖父母の暮らす遠方の県へと引っ越して行った。
加害者は全員消え、イジメを見て見ぬふりをしていたクラスメイトらは罪悪感から口を噤む。
そうして羊花の周囲に、平穏が戻った。
「ごめんなさい」
羊花の両親は二人揃って、黒崎に頭を下げた。
子供だからと適当にあしらう事なく、きちんと説明をしたうえで、羊花に近付かないでほしいと頼んだ。
「君は羊花を大切にしてくれたのに、こんな事を頼んで申し訳ない。しかし、君と会えば娘は、きっと辛い記憶を思い出してしまう」
「いずれ乗り越えなくてはいけないのでしょうけれど、今の羊花が背負うには重過ぎるわ。……本当にごめんなさい、黒崎君。どうかあの子の事は忘れてください」
黒崎は二人の言葉に「分かりました」と答えた。
黒崎の感情がどうであれ、頷く以外の選択肢はない。どんなに離れたくないと願っても、肝心の羊花にとって黒崎はもう、見知らぬ他人なのだから。
それに、羊花は元気になった。
黒崎の好きな、陽だまりみたいな顔で笑っていた。
自分が近付かなければ羊花が幸せになれるのなら、それでいい。
どれ程辛くとも、苦しくとも、羊花が泣いて暮らすよりはマシだ。黒崎はそう、自分に言い聞かせた。
黒崎はその日から羊花との関わりを断った。
羊花がいなくなっても、黒崎の日常に劇的な変化はない。
変わったのは景色が色褪せて見える事と、食事が美味しくない事。時々、橋の向こう側を無意識に見つめてしまう癖がついた事くらい。
ただ時折、どうしようもなく凶暴な気分になる日がある。
全てがどうでも良くなって、楽しそうに笑っている人達の不幸を願いそうになる。
そんな日が来る度、黒崎は何かを始めた。
次は誰にも負けないよう、体を鍛えた。弁当の味を思い出しながら、料理を覚えた。好きだと言っていた本を読んだ。
過去の幸せの断片を必死に搔き集めて、黒崎は自分を保ちながら生きている。
そのうち他人以下の関わりしかない父親が亡くなって、転がり込んできた大金を運用で増やしながら、黒崎は探偵を雇った。
羊花の平穏を壊しかねない人間……砂川未愛達の近況を、定期的に報告させる為だ。
女子三人と男子一人は、特に問題はない。
人を殺しかけた過去に怯え、目立たないようひっそり暮らしている。彼等から羊花に接触する事はまず無いと判断し、監視を解いた。
しかし砂川未愛は別だ。
祖父母の暮らす田舎町に馴染めなかったのか、三か月ほどで不登校となった。転校しようにも、通える距離に別の学校はない。
母親も地元でようやく就職先を見つけたばかりで、転居は難しい。相談した結果、親戚に預かってもらう事となった。
だが、そこの学校でも馴染めず、しかも親戚とも上手くいかない。
そこから別の親戚へと預けられ、更に同じ事を繰り返す。中学校に上がっても、学校は休みがち。家にもだんだん帰らなくなり、悪い仲間とつるむようになった。
転校と家出を繰り返す砂川未愛の足取りは、少し気を抜くと見失いそうになる。引き続き調査を続けさせているが、いつまで経っても安心出来ない。
また羊花が傷付けられてしまわないよう、すぐ傍で守りたいと黒崎は思った。
しかし、近寄らないという約束がある。それに見ず知らずの男に『守りたい』なんて言われても、ドン引きだろう。
良い案が見つからないまま、無為に時間が過ぎていく。
そんな中で黒崎は唐突に、成長した羊花と再会した。
公園の植え込みの中で震えている羊花を見つけ、黒崎は無表情のまま驚愕した。
あまりにも都合が良すぎて、初恋を拗らせるあまり、他人に面影を探してしまっているのかと思った。
だが本物だという根拠のない確信もある。
成長して姿が変わっても、黒崎は羊花を見間違えたりしない。
混乱しながらも、羊花を置いてはいけないと考えて抱き抱えた。
安全な場所まで来て、名残惜しいが離してやろうとしたら、羊花は気を失っていた。放置する訳にもいかず、黒崎はほんの少しだけ悩んだ。
溜まり場まで連れ帰ったのは、ただの親切心……な訳はもちろん無い。
羊花の自宅は知っているのだから、送る事は可能。家族に会うのが気まずいなら、インターフォンを鳴らして、出るまえに去ればいい。
そうしなかったのは、黒崎の弱さだ。
やっと会えたのに、簡単には手放せない。何も覚えてなくていいから、話がしたかった。
「よく似てるなぁって思ってたけど……いや、これ本人だよね?」
浅黄はソファに寝かせた羊花を覗き込み、その顔をまじまじと眺める。
眉を顰めた黒崎は浅黄の顔を乱暴に掴み、羊花の上から退かした。
「近ぇ」
「うっわ、心狭ぁ……」
呆れる浅黄に、黒崎はふんと鼻を鳴らす。
浅黄はそんな黒崎を半目で睨んだ。
「オレらだってずっと会いたかったんだから、独り占めは駄目でしょ」
浅黄の言葉に、黒崎の眉間の皺が深くなる。
小さな羊花を気に入っていたのは、黒崎だけじゃない。今更、羊花に近寄るなと言ったところで聞きやしないのは、残念ながら理解していた。
黒崎は苛立ちを溜息と共に吐き出す。
「羊花はオレ等の事を何も覚えていない。初対面として接しろ」
「了解」
鼻歌でも歌いそうなほど、機嫌よく浅黄は笑う。
それも仕方のない事だ。
黒崎を含めた五人は、幼くして人間不信に陥る程、最悪な環境にあった。そんな中、ごく普通に接してきた羊花の存在は貴重だった。
必要以上に持ち上げもせず、妬みもせず、ただの友達としての好意を向けてくれた。その穏やかな時間を、彼等は未だに忘れられずにいる。
ただの感傷、思い出を美化しているだけと言われれば、それまでかもしれない。
分かっていても黒崎はもう、羊花との関わりを断つ事は出来なかった。たとえ、羊花自身が望んでいなくとも。
目覚めた羊花は、昔と何もかもが一緒という訳ではなかった。
物怖じしない性格だった羊花だが、かなり臆病になった。
大きな音、暗闇、敵意を向けてくる人間。怖いものが沢山増えた。おそらく、トラウマによるものだろう。当人は覚えていなくとも、閉じ込められて死にかけた経験が尾を引いている。
でも、それを知った黒崎は丁度良いと思った。
臆病なら、危険に自ら突っ込んではいかないだろう。昔のように、人の為に傷付いたりもしなくて済む。
危険から遠ざけ、真綿でくるむように守れる。
黒崎が用意した安全な箱庭で、黒崎が作ったものを食べて安穏と暮らせばいい。
そう思ったが、とんでもない。
羊花は根本的に、何も変わっていなかった。
臆病で引っ込み思案になっても、相変わらず危機感が無い。素直で、すぐに人を信用する。
自分以外の人間を優先して、弱いくせに平気で危険に身を晒す。
全然、まったく、これっぽっちも変わっちゃいない。
黒崎はそれにガッカリしながらも、同時に嬉しくもあった。
羊花が人を疑えないのなら、黒崎が変わりに疑えばいい。
人の為に危険に飛び込むのなら、黒崎が守ればいい。
羊花の位置情報はスマホから追えるし、スケジュールも把握済み。
犯罪スレスレだとか、ストーカー予備軍だとか、そんなのは黒崎の知った事ではない。
今日も羊花が笑っているなら、それ以上に大切な事などないのだから。
呑気で絆されやすい羊花は、最も警戒すべき対象とも知らずに、黒崎に気を許し始めた。
傍に寄っても怯えなくなり、笑顔を見せてくれるようになった。触れても逃げずに、可愛らしい顔をする。異性として意識し始めている兆候すらあった。
黒崎はらしくもなく、浮かれていたのだろう。
そして足元を掬われた。
砂川未愛が行方をくらました。
雇う探偵を増やしても簡単には見つからず、焦っていた黒崎は、新興グループとのトラブルを後回しにしてしまった。
そこに、小さな不運が積み重なった。
羊花がスマホを家に置き忘れ、更に講師の都合で塾の予定が消えた。追跡アプリもスケジュールの把握も、これでは意味を成さない。
見失った羊花を探して、探して、ようやく見つけた。
けれど、真っ青な顔色で倒れる羊花を見て、黒崎はまた自分が遅かったのだと悟る。
まるで、あの日の繰り返しだ。
黒崎が傍にいる限り、羊花は何度でも不幸になる。
そんな無慈悲な現実を、突き付けられているかのようだった。




