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 目を覚ましたら、病院のベッドの上だった。

 泣き腫らした顔の母親が枕元にいて、羊花の意識が戻ったと知るとすぐに、医者よりも早く父親と兄が病室に駆けこんできた。


 全員、酷い顔色だった。自分の方が死にそうな顔をしているのに羊花の心配をして、何度も「ごめんね、ごめんね」と謝った。


 気付かなかった事、共働きで傍にいられなかった事、守ってあげられなかった事。

 どうしようもない事だし、誰も悪くないのにと羊花は思っても、口も挟めない。熱でぼんやりしている羊花は、ただ懺悔のような謝罪を聞くことしか出来ない。


 特に母親の後悔は大きく、仕事を辞めると決めてしまった。

 羊花の母親は病院勤めで、家を空ける事も多い。けれど子供達の世話も手を抜いてなどおらず、夜勤で帰らない時もご飯は作り置きしてくれた。愛されているのだって、ちゃんと伝わっている。

 母親が自分の仕事に誇りを持ち、生き生きと働いている事も羊花は知っていた。


 兄も部活を辞めると言い出した。

 どこかに所属しなければならないから入っていただけで、特に剣道に興味があった訳じゃない。文化部でやる気のないところに移ると。でも羊花は、兄が真剣に剣道に打ち込んでいる事を知っている。


 父は何処か、自然の多い場所に引っ越そうかと言う。

 地方は人手不足なところも多いから、転勤願いを出せば高確率で受け入れてもらえる。山か海の近くで、家庭菜園でもやりながら皆でのんびり暮らそう。父さん、自分の畑を持つのが夢だったんだよね、なんて笑う。そんなの初めて聞いた。読書と映画鑑賞が好きなインドア派のくせに。


 羊花はそれを聞いて、とても哀しい気持ちになった。

 大好きな人達の大好きなものを自分が奪おうとしている事実が、辛くてたまらなかった。


 何度か意識が途切れ、また少しだけ目を覚ますのを羊花は繰り返していた。

 その合間に、萌絵も来た。


 萌絵は元々細身ではあったが、病的なまでに痩せていた。泣き腫らした真っ赤な目をした彼女は、羊花にずっと謝っていた。

 自分のせいで羊花まで虐められた。それなのに肝心な時に傍にいられなかったと、何度も、何度も。


 他にも、別のクラスの友達や従姉妹もお見舞いに来てくれたけれど、皆、哀しそうな顔で謝るばかり。

 ごめんね、の言葉を聞く度に、羊花の心に傷が増えていく事には、誰も気づいてくれなかった。


 それから、たぶん丸一日が過ぎた頃。

 病室に黒崎がやってきた。


 彼は傷だらけだった。

 左頬には大きなガーゼが貼ってあり、少しだけ覗く目元は紫色に腫れている。口の端は切れて血が固まった後があるし、右手の甲には包帯、指には絆創膏が巻かれていた。

 不慮の事故で負った傷というより、誰かと殴り合いをして出来た怪我に見える。


 黒崎は羊花を見るなり、くしゃりと顔を歪めた。

 泣きだしそうな顔をした彼は、羊花の枕元で崩れ落ちるように膝をつく。布団から出ていた羊花の手を、両手でそっと包み込んだ。


「ごめ……、ひつじ、ごめん……っ!」


 黒崎は辛そうに、何度もごめんと繰り返した。

 何に対して謝っているのか羊花には分からないけれど、それよりも気になる事があった。


「……けが、どしたの?」


 掠れたガサガサの声で羊花が問うと、黒崎の形の良い眉がぎゅっと寄って、皺を作った。


「なんでもない。大した怪我じゃないし」


 十分、大した怪我だと羊花は思う。


 じっと何も言わずに見つめていると、黒崎は視線を逸らす。

 だんだん視線が下がっていき、ついには深く俯いてしまった。無言で羊花の手を、ぎゅっと握りしめる。


「……勝てなかった」


 小さな呟きが零れた。


「ひつじを閉じ込めたやつに、勝てなかった」


 黒崎は、ぽつりぽつりと語り出す。


 どうやら彼は待ち合わせ場所に来なかった羊花を心配して、探してくれたらしい。

 途中で砂川らと遭遇し、羊花は用事があって来られないと伝言を受け取ったそうだ。けれど黒崎は信じなかった。


「お前が約束破るとは思えなかったし、それにアイツに伝言頼むのもおかしいだろ」


 砂川と黒崎の仲が良好でないのを、羊花は知っている。しかも砂川は羊花に対して敵意が剥き出しだった。

 いくら共通の知り合いとはいえ、そんな相手に伝言を託すとは思えない。


「問い詰めてもアイツはしらを切ったけど、一緒にいた奴らは動揺してた。それで、ひつじに何かしたんだって分かった」


 カッとなった黒崎は、砂川に掴みかかった。

 取り巻きの女子は蒼い顔で逃げ出したが、大柄な男子が砂川を庇い、二人は殴り合いの喧嘩になった。


 小学生男子は、成長の度合いによって体格に大きな開きが出る。

 細身で育ちの良い黒崎が、大柄で乱暴な男子相手に喧嘩を挑むのは無謀だ。それでも彼は諦めない。


 殴られ、蹴られ、怪我をしながらも必死に食い下がり、ついには乱暴者の男子が音を上げて逃げ出すまで、齧り付いて離れなかった。


 川沿いのプレハブに閉じ込めたという情報をどうにか聞き出し、黒崎は羊花を必死に探した。


 途中で浅黄らにも連絡して、皆で手分けして探していたらしい。

 けれど、警報も出るような嵐の中、子供が外出していたら大人は止める。見回りをしていた消防車に保護されてしまった黒崎達は、必死に羊花の事を訴えた。


 半信半疑ながらも、消防の人は該当するプレハブを探してくれた。

 そうして、どうにか間に合い、羊花は溺れる前に助け出された。


「オレの、オレのせいなのに……、お前の事、守れなかった……」


 黒崎は、悔恨に満ちた声を絞り出す。


 羊花は黒崎のせいだなんて、思っていない。

 砂川が羊花を嫌う理由が黒崎にあったとしても、それは黒崎のせいじゃない。誰かに好かれるのも、嫌われるのも、コントロールなんて出来ないんだから。


 『違うよ』の意味を込めて、羊花はゆっくり頭を振る。

 けれど黒崎の表情は、欠片も晴れない。


「ひつじは、オレを助けてくれたのに。なんで、オレは」


 そこまで言って、黒崎はぐっと歯を食いしばった。とても苦しそうな表情の彼は、握っていた羊花の手を額に押し付ける。

 それは、まるで神に祈りを捧げるような姿だった。


 羊花は違うと、それは黒崎の罪ではないと伝えたい。

 けれど言ったところで、何一つ受け止めてはもらえない事も薄々気付いていた。


 皆、羊花が傷付いた事で、羊花以上に傷付いている。

 ぼろぼろの羊花が何を言ったところで、強がりだ、気遣いだと決め付けられて、無為に皆を苦しめるだけだ。


 なんでこんな事になっちゃったんだろ、と。

 羊花は空虚な気持ちで考えた。


 病室内に息苦しい沈黙が落ちる。

 少しして、扉が開いた。入ってきたのは羊花の兄、辰樹だった。


 辰樹は黒崎を見て、不快そうに眉を顰めた。


「お前……、羊花に近付くなって言ったはずだ」


 鋭い目で睨み付け、吐き捨てるように言う。

 ツカツカと足音も荒く近づいてきた辰樹は、黒崎の腕を掴んで立ち上がらせる。入口の方に向けて、ドンと背を押した。


「出ていけ」


「お兄、」


「二度とオレの妹に近付くな」


 黒崎は切なげな目で羊花をじっと見た後、辰樹に向き合い、深く頭を下げた。


「また来ます」


「来るな。次に会ったらガキでも容赦しない」


 辰樹は硬い声で跳ね除ける。しかし黒崎は怯まなかった。扉を開けてからもう一度、頭を下げて、静かに部屋を出て行った。


「お兄ちゃん……」


 羊花が不安そうな声で呼ぶと、辰樹は険しい顔を止めた。にこりと笑って、彼女の頭を優しく撫でる。


「あんな奴の事は気にしなくていいから、ゆっくり休め。しばらく病室には、誰も近付かせない」


「ちが、お兄ちゃん……シロくんは」


「熱が上がってるな。医者を呼ぶから待ってろ」


「お兄ちゃ……」


 話はここまでだと、辰樹は羊花の言葉を遮る。

 甲斐甲斐しく世話を焼かれながら、羊花はぼんやりと虚空を見上げた。


 本当に、なんで、こんな事になっちゃったんだろ。そう心の中で繰り返す。


 羊花の大好きな人達が、羊花のせいで苦しんでいる。

 どうしようもない事だったのに、どうにか出来たんじゃないかと皆が自分を責めている。


 その事が、怪我の痛みより、発熱による息苦しさよりも辛かった。


(私が、怪我なんかしたから)


 羊花の母親は泣いているし、父親はずっと辛そうな顔をしている。

 兄は黒崎に怒っているけれど、それ以上に自分を責めていた。


(私が閉じ込められなければ。……ううん、その前に、虐められないよう、上手く立ち回っていたら良かったのに)


 羊花は萌絵を裏切りたくないと思っていたけれど、馬鹿正直に生きるだけでは、誰の為にもならなかった。萌絵だって結局、あんなにも泣かせてしまった。


(シロくんだって、私のせいで嫌な思いをいっぱいさせちゃった)


 黒崎は、羊花がこんな目に遭ったのは自分のせいだと言っていたけれど、逆だと羊花は思う。羊花のせいで黒崎は怪我をした。

 ぼろぼろになって、それでも大雨の中探し回って、助けてくれたのに。羊花のせいで兄に責められて、もしかしたら両親にも何か言われたのかもしれない。


(あんな顔、させたくなかったのに)


 ずきずき、ずきずきと胸が痛みを訴える。


 苦しくて、呼吸も上手く出来ない。

 生理的な涙が溢れて、視界がぼやける。


(会わなければよかったのかな。こんな事になるなら、私は、シロくんに話しかけない方がきっと良かった)


 ぽろぽろと零れた涙が、コメカミを伝い落ちる。


(全部、無かった事になればいいのに)


 羊花は最初から全部、なかった事にしたいと思った。

 閉じ込められた事も、虐められていた事も、無かった事にしたい。


 黒崎に話しかけた日も、お弁当を届けた事も、皆で遊んだ日も、全部、全部。


(なくなっちゃえ)


 そうすれば、誰も傷付かない。

 誰も、何も失わなくて済む。


 もう誰も羊花に謝らなくていいし、羊花の為に何かを諦めてなくていい。


「羊花……? 辛いのか?」


 心配そうな辰樹の声を聞きながら、羊花の意識は沈んでいく。




 羊花の熱はそれから三日下がらず、意識もずっと朦朧としていた。

 しかし四日目になると、それまでが嘘だったかのようにパッチリと目を開けて、元気に話し始め、家族を驚かせた。

 少しずつ食事を始め、目に見えるようなペースで元気になっていく。


 暫く断っていたお見舞いも許された、ある日。

 羊花の病室の扉を、一人の男の子が叩いた。


 母親が買ってきてくれたフルーツヨーグルトを食べていた羊花は、スプーンを置いてから、「はーい」と呑気な返事をする。

 けれど応答はない。空耳だったのかなと羊花がスプーンを持ち直した時、ゆっくりと扉が開いた。


 綺麗な顔した男の子が、酷く緊張した面持ちで立っている。

 羊花はその姿をじっと見つめてから、小首を傾げた。「だれ?」という、ごく当たり前の……しかし、その子にとっては、絶望の底に叩き落とす言葉を呟く。


 蒼褪めていくのを心配しながらも、羊花は困った顔で続ける。


「病室、たぶん間違えてますよ?」


 この残酷な言葉を最後に、二人の道は分かたれた。


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― 新着の感想 ―
[一言] あああ……なんということでしょう……。ひつじちゃんも自分のせいじゃないし、周りのみんなのせいでもないのに。全てはかの少女が招いたことなのに。それぞれ反省すべきことはあると思いますが、必要以上…
[一言] 良い。ストンと填まるようだ。
[一言] 羊花の為と言いながら羊花の大切な人を遠ざける。 どうして羊花の大切な人を家族が勝手に選ぶのでしょうか…。 羊花が閉じ込められた要因の一つになってしまった黒崎と関わらせてこれ以上羊花が傷付くの…
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