35
目を覚ましたら、病院のベッドの上だった。
泣き腫らした顔の母親が枕元にいて、羊花の意識が戻ったと知るとすぐに、医者よりも早く父親と兄が病室に駆けこんできた。
全員、酷い顔色だった。自分の方が死にそうな顔をしているのに羊花の心配をして、何度も「ごめんね、ごめんね」と謝った。
気付かなかった事、共働きで傍にいられなかった事、守ってあげられなかった事。
どうしようもない事だし、誰も悪くないのにと羊花は思っても、口も挟めない。熱でぼんやりしている羊花は、ただ懺悔のような謝罪を聞くことしか出来ない。
特に母親の後悔は大きく、仕事を辞めると決めてしまった。
羊花の母親は病院勤めで、家を空ける事も多い。けれど子供達の世話も手を抜いてなどおらず、夜勤で帰らない時もご飯は作り置きしてくれた。愛されているのだって、ちゃんと伝わっている。
母親が自分の仕事に誇りを持ち、生き生きと働いている事も羊花は知っていた。
兄も部活を辞めると言い出した。
どこかに所属しなければならないから入っていただけで、特に剣道に興味があった訳じゃない。文化部でやる気のないところに移ると。でも羊花は、兄が真剣に剣道に打ち込んでいる事を知っている。
父は何処か、自然の多い場所に引っ越そうかと言う。
地方は人手不足なところも多いから、転勤願いを出せば高確率で受け入れてもらえる。山か海の近くで、家庭菜園でもやりながら皆でのんびり暮らそう。父さん、自分の畑を持つのが夢だったんだよね、なんて笑う。そんなの初めて聞いた。読書と映画鑑賞が好きなインドア派のくせに。
羊花はそれを聞いて、とても哀しい気持ちになった。
大好きな人達の大好きなものを自分が奪おうとしている事実が、辛くてたまらなかった。
何度か意識が途切れ、また少しだけ目を覚ますのを羊花は繰り返していた。
その合間に、萌絵も来た。
萌絵は元々細身ではあったが、病的なまでに痩せていた。泣き腫らした真っ赤な目をした彼女は、羊花にずっと謝っていた。
自分のせいで羊花まで虐められた。それなのに肝心な時に傍にいられなかったと、何度も、何度も。
他にも、別のクラスの友達や従姉妹もお見舞いに来てくれたけれど、皆、哀しそうな顔で謝るばかり。
ごめんね、の言葉を聞く度に、羊花の心に傷が増えていく事には、誰も気づいてくれなかった。
それから、たぶん丸一日が過ぎた頃。
病室に黒崎がやってきた。
彼は傷だらけだった。
左頬には大きなガーゼが貼ってあり、少しだけ覗く目元は紫色に腫れている。口の端は切れて血が固まった後があるし、右手の甲には包帯、指には絆創膏が巻かれていた。
不慮の事故で負った傷というより、誰かと殴り合いをして出来た怪我に見える。
黒崎は羊花を見るなり、くしゃりと顔を歪めた。
泣きだしそうな顔をした彼は、羊花の枕元で崩れ落ちるように膝をつく。布団から出ていた羊花の手を、両手でそっと包み込んだ。
「ごめ……、ひつじ、ごめん……っ!」
黒崎は辛そうに、何度もごめんと繰り返した。
何に対して謝っているのか羊花には分からないけれど、それよりも気になる事があった。
「……けが、どしたの?」
掠れたガサガサの声で羊花が問うと、黒崎の形の良い眉がぎゅっと寄って、皺を作った。
「なんでもない。大した怪我じゃないし」
十分、大した怪我だと羊花は思う。
じっと何も言わずに見つめていると、黒崎は視線を逸らす。
だんだん視線が下がっていき、ついには深く俯いてしまった。無言で羊花の手を、ぎゅっと握りしめる。
「……勝てなかった」
小さな呟きが零れた。
「ひつじを閉じ込めたやつに、勝てなかった」
黒崎は、ぽつりぽつりと語り出す。
どうやら彼は待ち合わせ場所に来なかった羊花を心配して、探してくれたらしい。
途中で砂川らと遭遇し、羊花は用事があって来られないと伝言を受け取ったそうだ。けれど黒崎は信じなかった。
「お前が約束破るとは思えなかったし、それにアイツに伝言頼むのもおかしいだろ」
砂川と黒崎の仲が良好でないのを、羊花は知っている。しかも砂川は羊花に対して敵意が剥き出しだった。
いくら共通の知り合いとはいえ、そんな相手に伝言を託すとは思えない。
「問い詰めてもアイツはしらを切ったけど、一緒にいた奴らは動揺してた。それで、ひつじに何かしたんだって分かった」
カッとなった黒崎は、砂川に掴みかかった。
取り巻きの女子は蒼い顔で逃げ出したが、大柄な男子が砂川を庇い、二人は殴り合いの喧嘩になった。
小学生男子は、成長の度合いによって体格に大きな開きが出る。
細身で育ちの良い黒崎が、大柄で乱暴な男子相手に喧嘩を挑むのは無謀だ。それでも彼は諦めない。
殴られ、蹴られ、怪我をしながらも必死に食い下がり、ついには乱暴者の男子が音を上げて逃げ出すまで、齧り付いて離れなかった。
川沿いのプレハブに閉じ込めたという情報をどうにか聞き出し、黒崎は羊花を必死に探した。
途中で浅黄らにも連絡して、皆で手分けして探していたらしい。
けれど、警報も出るような嵐の中、子供が外出していたら大人は止める。見回りをしていた消防車に保護されてしまった黒崎達は、必死に羊花の事を訴えた。
半信半疑ながらも、消防の人は該当するプレハブを探してくれた。
そうして、どうにか間に合い、羊花は溺れる前に助け出された。
「オレの、オレのせいなのに……、お前の事、守れなかった……」
黒崎は、悔恨に満ちた声を絞り出す。
羊花は黒崎のせいだなんて、思っていない。
砂川が羊花を嫌う理由が黒崎にあったとしても、それは黒崎のせいじゃない。誰かに好かれるのも、嫌われるのも、コントロールなんて出来ないんだから。
『違うよ』の意味を込めて、羊花はゆっくり頭を振る。
けれど黒崎の表情は、欠片も晴れない。
「ひつじは、オレを助けてくれたのに。なんで、オレは」
そこまで言って、黒崎はぐっと歯を食いしばった。とても苦しそうな表情の彼は、握っていた羊花の手を額に押し付ける。
それは、まるで神に祈りを捧げるような姿だった。
羊花は違うと、それは黒崎の罪ではないと伝えたい。
けれど言ったところで、何一つ受け止めてはもらえない事も薄々気付いていた。
皆、羊花が傷付いた事で、羊花以上に傷付いている。
ぼろぼろの羊花が何を言ったところで、強がりだ、気遣いだと決め付けられて、無為に皆を苦しめるだけだ。
なんでこんな事になっちゃったんだろ、と。
羊花は空虚な気持ちで考えた。
病室内に息苦しい沈黙が落ちる。
少しして、扉が開いた。入ってきたのは羊花の兄、辰樹だった。
辰樹は黒崎を見て、不快そうに眉を顰めた。
「お前……、羊花に近付くなって言ったはずだ」
鋭い目で睨み付け、吐き捨てるように言う。
ツカツカと足音も荒く近づいてきた辰樹は、黒崎の腕を掴んで立ち上がらせる。入口の方に向けて、ドンと背を押した。
「出ていけ」
「お兄、」
「二度とオレの妹に近付くな」
黒崎は切なげな目で羊花をじっと見た後、辰樹に向き合い、深く頭を下げた。
「また来ます」
「来るな。次に会ったらガキでも容赦しない」
辰樹は硬い声で跳ね除ける。しかし黒崎は怯まなかった。扉を開けてからもう一度、頭を下げて、静かに部屋を出て行った。
「お兄ちゃん……」
羊花が不安そうな声で呼ぶと、辰樹は険しい顔を止めた。にこりと笑って、彼女の頭を優しく撫でる。
「あんな奴の事は気にしなくていいから、ゆっくり休め。しばらく病室には、誰も近付かせない」
「ちが、お兄ちゃん……シロくんは」
「熱が上がってるな。医者を呼ぶから待ってろ」
「お兄ちゃ……」
話はここまでだと、辰樹は羊花の言葉を遮る。
甲斐甲斐しく世話を焼かれながら、羊花はぼんやりと虚空を見上げた。
本当に、なんで、こんな事になっちゃったんだろ。そう心の中で繰り返す。
羊花の大好きな人達が、羊花のせいで苦しんでいる。
どうしようもない事だったのに、どうにか出来たんじゃないかと皆が自分を責めている。
その事が、怪我の痛みより、発熱による息苦しさよりも辛かった。
(私が、怪我なんかしたから)
羊花の母親は泣いているし、父親はずっと辛そうな顔をしている。
兄は黒崎に怒っているけれど、それ以上に自分を責めていた。
(私が閉じ込められなければ。……ううん、その前に、虐められないよう、上手く立ち回っていたら良かったのに)
羊花は萌絵を裏切りたくないと思っていたけれど、馬鹿正直に生きるだけでは、誰の為にもならなかった。萌絵だって結局、あんなにも泣かせてしまった。
(シロくんだって、私のせいで嫌な思いをいっぱいさせちゃった)
黒崎は、羊花がこんな目に遭ったのは自分のせいだと言っていたけれど、逆だと羊花は思う。羊花のせいで黒崎は怪我をした。
ぼろぼろになって、それでも大雨の中探し回って、助けてくれたのに。羊花のせいで兄に責められて、もしかしたら両親にも何か言われたのかもしれない。
(あんな顔、させたくなかったのに)
ずきずき、ずきずきと胸が痛みを訴える。
苦しくて、呼吸も上手く出来ない。
生理的な涙が溢れて、視界がぼやける。
(会わなければよかったのかな。こんな事になるなら、私は、シロくんに話しかけない方がきっと良かった)
ぽろぽろと零れた涙が、コメカミを伝い落ちる。
(全部、無かった事になればいいのに)
羊花は最初から全部、なかった事にしたいと思った。
閉じ込められた事も、虐められていた事も、無かった事にしたい。
黒崎に話しかけた日も、お弁当を届けた事も、皆で遊んだ日も、全部、全部。
(なくなっちゃえ)
そうすれば、誰も傷付かない。
誰も、何も失わなくて済む。
もう誰も羊花に謝らなくていいし、羊花の為に何かを諦めてなくていい。
「羊花……? 辛いのか?」
心配そうな辰樹の声を聞きながら、羊花の意識は沈んでいく。
羊花の熱はそれから三日下がらず、意識もずっと朦朧としていた。
しかし四日目になると、それまでが嘘だったかのようにパッチリと目を開けて、元気に話し始め、家族を驚かせた。
少しずつ食事を始め、目に見えるようなペースで元気になっていく。
暫く断っていたお見舞いも許された、ある日。
羊花の病室の扉を、一人の男の子が叩いた。
母親が買ってきてくれたフルーツヨーグルトを食べていた羊花は、スプーンを置いてから、「はーい」と呑気な返事をする。
けれど応答はない。空耳だったのかなと羊花がスプーンを持ち直した時、ゆっくりと扉が開いた。
綺麗な顔した男の子が、酷く緊張した面持ちで立っている。
羊花はその姿をじっと見つめてから、小首を傾げた。「だれ?」という、ごく当たり前の……しかし、その子にとっては、絶望の底に叩き落とす言葉を呟く。
蒼褪めていくのを心配しながらも、羊花は困った顔で続ける。
「病室、たぶん間違えてますよ?」
この残酷な言葉を最後に、二人の道は分かたれた。




