18
「座って」
「ハイ」
「お水とお茶があるんだけど、お茶でいいかな?」
「ハイ」
借りてきた猫の如く大人しくなった羊花は、言われるがままに部室内のパイプ椅子に腰かけた。
篠木がロッカーへと向かい、バッグを探っている間に室内を見回す。
元々広くはない部屋は、端に段ボールが積み上がっているせいで余計に狭く感じる。目立つ備品はロッカーと椅子、ホワイトボードのみ。壁は打放しのコンクリートで、立地の関係上日があまり差さず、日中でもひんやりと冷たい。
塩素の独特な臭いに混ざるカビ臭さが、鼻孔を掠めた。
水泳部の部室は、本来は別にある。
老朽化の進んだプールや更衣室と共に、現在は改修工事中だ。それに伴って水泳部の活動も控え目となり、泳ぐのは市のプールを貸し切って週一ペース。それ以外は柔軟や基礎体力作り中心となっている。
朝練もないので、カビ臭い仮の部室にわざわざ近寄る人間はいない。
つまり第三者の介入により、有耶無耶に出来る可能性は限りなく低いという事。
差し出されたペットボトルを羊花がお礼を言って受け取ると、篠木はガタついたパイプ椅子を目の前に置いて座る。
膝がぶつかりそうな距離に、羊花は恐れ戦いた。
ペットボトルの蓋を開け、篠木は水を煽る。三分の一ほど減らしてからキャップを閉め、ふぅと息を零した。
短めのスカートから覗く魅惑的な足を大胆に組み、前のめりに頬杖をつく。大きな目が真っ直ぐに羊花を捉えた。
「で、貴方は透君に何をしたの?」
いきなりの直球に、羊花はぐっと言葉に詰まる。
何をしたかと言われたら、何もしていないと主張したい。
けれど、残念ながら思い当たる理由がいくつかある。
「……喧嘩に巻き込まれそうになっていた時に、助けを呼んだくらいです」
羊花の回答に、篠木は目をぱちくりと瞬かせた。
「それだけ?」
「それだけ」
こっくりと大きく頷く。
「それだけであんな急に、『羊花ちゃん好き好き!』みたいになる?」
「っ、ごほっ」
胡乱な眼差しを向けつつも、セリフ部分だけは声色を変えてみせた篠木の芸の細かさに、羊花は思わず咳き込んだ。
しかし篠木は羊花の様子を気に留めず、難しげな顔で考え込んでいる。
「確かに透君は単純馬k……素直な人だけど、そのくらいで好きになったりする? それにトラブルに巻き込まれるのもしょっちゅうだし、なんなら私も助けを呼んだ事あるわ」
「そ、そうなんですか……」
篠木も鱒渕を単純馬鹿と認識しているという事は横に置いておいて、だ。
彼女が言っているのは鱒渕と黒崎達が出会った時の話だろう。羊花もその場にいたが、知らんふりで適当な返事をする。
「そういえば、助けてくれたアニマルパーカーの子はどうなったんだろ」
おそらく羊花に向けたのではなく、ただの独り言。
しかし羊花の肩は僅かに揺れる。
「あの子を探し始めたと思ったら、今度は別の子って……助けてくれる子なら誰でもいい訳? それにその条件ならもっと、傍に献身的な子がいるでしょうが……!」
篠木は苛立った様子で独り言を続ける。握られていたペットボトルが、べこりと音をたててへこむ。
ぶつぶつと低音で呟く様子は、元気で可愛らしいヒロイン『篠木咲良』のキャラクターからはかけ離れていた。
漫画の中の彼女だってヤキモチは妬くけれど、もっとオープンでカラッとしたものだった。嫉妬している事を鱒渕本人に直接言うし、ライバルである萌絵にも正々堂々とぶつかる子だ。
(この篠木咲良さんも、隠してないといえば隠してないけど……キャラがなんか違うんだよなぁ……?)
記憶持ち転生ヒロインではという羊花の予想が、じわじわと現実味を帯びて来ている。
「傍でいつも支えてくれる元気で可愛い子の存在を無視して、隣のクラスの女の子に惚れるとか本気で意味分からない。アイツ、バグってるんじゃないの?」
(ちょいちょいディスるな……好きなんじゃないの?)
篠木は、鱒渕が羊花に好意を示しているのが気に入らないらしい。
漫画原作と同じく鱒渕の事が好きなのかと思いきや、それにしては表現がキツいというか、容赦がない。可愛さ余って、というやつなんだろうかと羊花は首を捻った。
「私の今までの努力はなんだったのよ。マジ許さん……」
呪詛めいた独り言と鬼気迫る表情が怖くて、羊花は座っているパイプ椅子をじりじりとミリ単位で後ろに移動させる。
それに気付いたかは定かではないが、俯いていた篠木は顔を上げる。
大きな目でじっと見つめられ、羊花の背筋を冷たい汗が伝い落ちた。
(た、助けて、萌絵ちゃん……!)
「地味だけど、小動物みたいで可愛いっちゃ可愛いし……そんで、大人しくて小柄な黒髪の女子。やっぱり、スタンダードな石動萌絵が好みって事?」
「!」
篠木の言葉に羊花は目を見開く。
萌絵が、大人しくて小柄で黒髪の少女だったと知っているのは、小学校の同級生まで。高校で出会った篠木はそこに含まれない。
仮に何らかの理由で子供の頃を知っていたとしても、黒髪で大人しい萌絵がスタンダードだとは言わないだろう。
(篠木さんは、やっぱり私と同じ前世の記憶持ちだ)
「……まぁ、いいや」
前のめりだった姿勢を正し、篠木は大きな溜息を吐く。
「訳分かんない事べらべら喋っててゴメンね? 怖かったでしょ」
表情と同様に言葉からも勢いが消える。
気遣いを見せた事に驚きつつも、羊花は曖昧な笑顔を返した。
「危害を加えたりしないから安心して。女の子に酷い事する趣味ないし」
「……はい」
散々奇行を見た後なのに、不思議と羊花は篠木の言葉を信じる事が出来た。
変な子だとは思っても、嫌な子だとは思わない。端的に言うなら、羊花は素の篠木を嫌いではなかった。
「そもそも真白さん、透君の事好きじゃないよね。本気で迷惑そう」
頷く羊花を見て、篠木は笑みを浮かべた。
「その調子でバッサリ振ってやって。傷心の透君を慰める役目は引き受けるから」
(鱒渕君の事、やっぱり好きなのかな)
篠木の胸中を思うと、少し切なくなった。
けれど羊花の憂いを知ってか知らずか、篠木は不敵な笑みを浮かべる。
「でも私が間に入って余計な事しなくても、朝霞君が自発的に慰めに行ってくれるか」
ぼそりと小さな声で洩らした言葉に羊花は、「ん?」と首を傾げる。
「そろそろ透君も、健気な親友の可愛さに気付いてくれればいいんだけど」
「……!?」
一拍置いて、羊花はぎょっと目を剥いた。
ご満悦な様子で妄想に耽っている篠木を見ながら、羊花は心の中で叫ぶ。
(この子、腐女子か……!!)
羊花はてっきり、『傍でいつも支えてくれる元気で可愛い子』や『献身的な子』は、篠木本人を指しているとばかり思っていた。
傍にいる自分を見て欲しいという意味合いなのだと判断していたが、どうやら勘違いだったらしい。
同時に腑に落ちた部分もあった。
鱒渕を好きな割には言葉に熱量がなかったし、羊花をそれほど疎ましく思っている様子もない。『単純馬鹿』とか『アイツ』呼ばわりしていたのも、愛情の裏返しではなかったという事。
(朝霞君って、漫画でも親友ポジションだった蟹江朝霞君だよね? そういえば、あそこのカップリング人気だった……。鱒蟹だっけ?)
親友である鱒渕と蟹江は大変仲が良い。それに原作の蟹江は、言葉でも行動でも鱒渕が大好きだと示している。
それが一部界隈……ぶっちゃけてしまうと、ボーイズラブジャンルをざわつかせていた。
ちなみに前世の羊花もオタク女子ではあったが、腐ってはいなかったので、友人からの情報くらいの知識しかない。
(なるほど。リアルで鱒蟹を見たいが為に……)
「ようやく三次元で蟹鱒が見れるかも……」
「鱒蟹でなく!?」
羊花の脳内とシンクロするような篠木の発言に、思わず反射的に突っ込んだ。直後に己の口を塞ぐが、出てしまった言葉はもう取り返しがつかない。
冷や汗を流す羊花が恐る恐る顔を上げると、表情の一切合切を捨てた真顔で篠木がこちらを見ていた。
「は?」
「ごめんなさい」
篠木のキレ方は、羊花の前世の友人の怒り方とそっくりだった。
ノータイムで謝罪したのは、その記憶が体に染みついていたからかもしれない。




