第二十四話 麦の火
麦畑が燃えるのを、俺は初めて見た。
火は、走るものだった。
北の丘から放たれた炎は、南へ吹く風に乗って、乾いた麦の穂を次々に食っていった。畝に沿って、まっすぐに。地面を舐めるように。
俺と健太は、東の街道へ走った。
◇
列の最後尾は、村から三百歩ほどの地点にいた。
二十数人。
杖をついた老人。赤ん坊を抱いた女。腰の曲がったじいさん。片脚を引きずる男。
足の遅い者から順に、後ろにいた。
「動けるか! 走れ!」
健太が叫んだが、それは無理な相談だった。
炎は、彼らのいる畦道の西側まで来ていた。街道は東。だが、風は南へ吹いている。
このままでは、逃げる方向に火が回り込む。
「――伏せろ! みんな伏せろ!」
俺は叫んだ。
叫んでから、自分に何の権限もないことに気づいた。
執事だ。魔族の側の。この人たちにとって俺は敵だ。
それでも、誰かが伏せた。
◇
その時。
背後の空気が、鳴った。
黒い影が、俺たちの頭上を飛び越えていった。
リーニャだった。
彼女は炎と村人のあいだに着地して、鎌を振り上げた。
そして。
麦畑を、薙いだ。
◇
一振りで、畝が十本消えた。
二振りで、二十本。
三振りで、火の前に、褐色の地面が帯になって現れた。
(――防火帯だ)
燃えるものを、燃える前に刈り取る。
火は帯の手前で舌を伸ばし、届かず、身をよじり、そして向きを変えた。
村人たちが、呆然とそれを見上げていた。
魔王軍第三幹部の鎌が、麦を刈っていた。
◇
「東へ走りなさい!」
リーニャが叫んだ。
村人には通じない言葉だ。魔族の言葉だから。
だが、彼女が指差した方向は、誰にでもわかった。
老人が走り出した。女が続いた。片脚の男が肩を借りて立った。
「行け! こっちだ!」
健太が誘導した。彼の言葉は通じた。勇者だからだ。
俺は最後尾に回って、遅れる者の背を押した。
十四人。十八人。二十二人。
数えながら、俺は気づいた。
(――足りない)
◇
「あの子がいない! うちの子が!」
叫んだのは、赤ん坊を抱いた女だった。
「教会に! あの子、教会に戻ったの!」
俺は、燃える村を見た。
石造りの小さな教会。鐘楼。あの日、十人の子どもが床に座っていた場所。
その屋根から、煙が上がっていた。
「リーニャ様!」
俺は駆け出した。
「ユウマ!」
◇
教会の扉は、開いていた。
中は煙で白かった。息を吸うと、喉の奥が焼けた。
「おい! 誰かいるか!」
俺の声は、かすれて届かなかった。
床を這うようにして進んだ。祭壇の裏。長椅子の下。
いた。
髪の色の淡い、あの女の子が、長椅子の下で丸くなっていた。
腕の中に、小さな木彫りの人形を抱えていた。
「――それを取りに戻ったのか」
女の子が、俺を見上げた。
泣いていなかった。ただ、震えていた。
俺は彼女を抱え上げた。
軽かった。びっくりするほど軽かった。
◇
そして、頭上で音がした。
木が裂ける音だった。
見上げると、天井の梁が、赤い線を引きながら傾いていた。
(――あ)
俺は、腕の中の子どもを見た。それから、扉までの距離を測った。
間に合わない。
しゃがんで、背中を丸めて、子どもを腹の下に入れた。
(加護は、ない)
(次に死んだら、それで終わりだ)
(三十四個目の墓が――)
◇
梁は、落ちてこなかった。
かわりに、風が来た。
黒い刃が、俺の頭上を横切った。
梁が、真っ二つに割れて、左右に落ちた。
顔を上げると、リーニャが立っていた。
煙の中で、鎌を振り抜いた姿勢のまま。
「――何やってるのよ」
「申し訳ございません」
「あんた、加護がないって言ったわよね」
「はい」
「言ったわよね!?」
彼女が叫んだ。
◇
俺たちは、教会を飛び出した。
背後で屋根が落ちた。鐘楼が傾いで、鐘が一度だけ鳴った。
キーン。
それが最後だった。
◇
畦道に出ると、村人たちが待っていた。
女の子は、母親の腕に転がり込んだ。
そして、その子は振り返って、リーニャを見た。
煤だらけの、黒い外套の、小さな幹部を。
女の子は、木彫りの人形を差し出した。
「……はい」
「え」
「おみやげ」
言葉は通じていなかった。
それでも、リーニャは受け取った。
そして、その場に立ち尽くした。
◇
「――いい絵だな」
丘の下から、声がした。
灰色の巨体が、燃える麦畑を背にして立っていた。
ガイゼルは、笑っていなかった。
手には、巻いた羊皮紙。
「魔王軍第三幹部が、人間の村人を火から救い出した」
「……」
「兵が三百、見てたぞ」
彼は羊皮紙を持ち上げた。
「言い訳、あるか」
◇
リーニャは、木彫りの人形を握ったまま、動かなかった。
そして、静かに言った。
「……ないわ」
「そうか」
「捕虜が焼け死んだら、労働力が減るからよ、って言うつもりだったけど」
彼女は顔を上げた。
「言わない」
◇
俺は、一歩前に出ようとした。
出られなかった。
小さな手が、俺の袖を掴んでいたからだ。
「ユウマ」
「リーニャ様」
「今度は、あんたが下がりなさい」
「……」
「三年前、わたしは下がった。言われた通りに」
彼女の手は、震えていなかった。
「今日は、わたしが前に立つ」
◇
ガイゼルが、羊皮紙を開いた。
「魔王軍統括本部命令。第三幹部リーニャ・ブラックマンは、職務遂行不能と認め――」
「――待てや」
◇
麦畑の煙の中から、影が歩いてきた。
痩せた男だった。
ぼろぼろの外套。こけた頬。手の甲に、消えかけた紋章。
咳をしながら、その男は歩いてきた。
「……ヨナ」
俺は、その名を呼んだ。
彼はこちらを見なかった。
まっすぐガイゼルの前まで歩いて、そして止まった。
「三年前」
低い声だった。
「俺は、二階の窓から見てた」
ガイゼルの目が、細くなった。
「あんたが、あの人に同じ紙を読むのを。あの人が、鎌を振らなかったのを」
「……誰だ、お前」
「十七人目だ」
◇
ヨナは、ゆっくりと自分の胸を叩いた。
「三年、逃げた。名前も捨てた。それでも毎月、あの屋敷の塀の外まで行って、墓を数えてた」
咳が出た。長い咳だった。
それでも彼は、顔を上げた。
「今度は、下にいる」
六の月十三日、午後。ヴェルド村、鎮火。
デス:23(残り、なし)
(第二十五話につづく)




