【1】 沈黙の湖、語らぬ遺物
諏訪湖の静かな水面に、二隻の小型タグボートが浮かんでいた。
それぞれの甲板の上には六台のエアポンプ――計十二台が、湖底へ向けて絶え間なく空気を送り込み続けている。
本来なら、大型のサルベージ船を用いるべきところだった。
だが、運搬の困難と莫大な費用が、それを断念させた。
工事を請け負ったのは、地元の大手建設企業『賀寿蓮組』。
まず、湖底作業に対応できる潜水作業員二十人が雇われた。
彼らは交代で水中へ潜り、泥と格闘しながら、手作業で湖底を掘り進めていく。
その裏で、地上では特設会場の建設が進められていた。
湖底から掘り出した泥はタグボートに積まれ、次々と陸へ運ばれ、ダンプで山へと運び出される――。
そんな地味で骨の折れる工程が、幾度となく繰り返された。
探査開始から、およそ一ヶ月――
ついに、巨大な石箱の上部が姿を現した。
現れたのは、堂々たる石蓋。
縦二十メートル、横十二・三六メートル。
その比率は実に美しく、“黄金比”に近かった。
表面には、長い歳月を物語るように、藻や貝殻、穋や苔がもざっと膨れ上がっていた。
さらに、蓋の中央には直径二メートルほどの円形の穴が開いており、そこからは――
内箱の蓋の一部が、顔を覗かせている。
そしてその円を取り囲むように、ひし形が四つ。
その配置と形状は、まさに“武田家”の家紋そのものだった。
すべては――
「年少天才」の異名をとる歴史学者、神童時貞教授の見立て通りである。
◇
石箱の側面――厚さ三十センチの石肌に、水中ドリルで小さな穴が次々と開けられていく。
そのたびに、無数の細かな気泡が浮かび上がり、湖面を白くにじませた。
開けられた穴には、一本ずつ鉄の杭が差し込まれる。
杭の先端には、強固な傘の骨のような仕掛けが施されており、穴に押し込まれると中で開き、二度と抜けなくなる。まるで、湖底に咲いた小さなイカリのようだった。
杭同士は、一本のワイヤーで順に結ばれていく。
そのワイヤーは、やがて石箱の上に広げられた巨大な円形シートへと繋がっていた。
分厚いテント生地に似たそのシートは、石蓋全体を包み込み、水中で萎んだパラシュートのようにゆらめいていた。
シートの内部、中央からは、四本の太いワイヤーが放射状に張られ、箱の四隅へと繋がっていた。
これは、空気を送り込んだときに中央だけが尖って膨らみ、全体のバランスが崩れるのを防ぐための構造だった。
円形のシート――すなわち“水中の気球”は、石箱よりもはるかに巨大だった。
その内部に空気が注がれるにつれ、湖底に眠る五百年前の遺物が、静かに――しかし確かに、現世へと浮かび上がる準備を整えていく。
――そして今、その気球には、地上から空気が注がれていた。
当初は、空気より軽いメタンガスの注入も検討されたが――費用と安全性の問題から、その案は見送られている。
引き上げの際、石箱が崩れるリスクも懸念された。
なにせ、石は五百年ものあいだ湖底に沈んでいたのだ。
だが、石箱は一枚岩をくり貫いて造られており、ドリルで強度を調べた結果、構造は今なお健在と判明している。
浮力で湖面に浮かび上がった石箱の下部には、潜水作業員のよってワイヤーが通される。
そしてそのワイヤーを、岸に設置された四基の大型クレーンに繋ぎ、箱ごと一気に湖畔へと引き寄せる計画だった。
途中までは気球の浮力で水面を移動し、岸に近づいてから、ゆっくりと吊り上げていく――
そして最終的には、逆L字型に並ぶ建物の“中庭”にあたる場所へと、慎重に降ろされる手筈となっている。
箱の内部には、もうひとつ――縦横七・五〇メートルの正方形の石箱が存在していることが、事前のX線調査で明らかになっていた。
外箱の上面、蓋の中央に開けられた直径二メートルほどの円形の穴からは、その内箱の石蓋が、かすかに覗いている。
構造は、完全な二重箱だ。
外側は直方体、内側は少し小さな正方形。
内箱は、ちょうど中央に据えられるよう固定されており、その周囲には四方すべてに空間――空洞が設けられていた。
まるで、外側の箱は、中の箱を“守るためだけ”に存在しているかのようだった。
だが――それならば、外蓋にわざわざ開けられた“円形の穴”は何なのか?
守る構造に、開口部を設ける必要などないはずだ。
神童時貞の脳裏に、微かな違和感が引っかかっていた。
それはまだ“言葉”にはならない。だが、確実に仮説と矛盾していた。
◇
――湖の中央が、大きく波立った。
その左右で、ポンプを積んだ二隻のタグボートが、大きく横揺れを起こしている。
濁った湖の下で、巨大な黒い影が広がっていく。
まるで湖底から、UFOが浮かび上がってくるようだった。
碧が腕時計に目をやる。時刻は、十一時を少し回っていた。
彼女は、それを背に、カメラに向かい、気球が石箱を引き上げて、水面に姿を現す瞬間を、興奮気味に実況していた。
麟太郎は、その碧から、後方の諏訪湖にゆっくりとカメラをターンした。
「いよいよですね」
と、一織が部屋を抜け出して、碧がカメラから外れるのを待って、声をかけた。
「ええ。五百年前の“歴史の箱”が、ついに姿を現すわ」
紺色のブレザーを羽織りながら振り向いた碧は、少し興奮気味だった。
昨夜の睡眠不足も、今はすっかり頭から消えている。
「神童博士は?」
「あっ、四郎はね……今も古文書の最後のあたりと格闘中。もう一週間、同じページを睨んでるのよ」
碧は、《《いないことに》》ちょっとホッとした。
――いきなりお尻を触られて、「あれはジャッカルの仕業だ」とか言われたら、たまったもんじゃない。




