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戦国の封獣・壱 〜信玄と鬼の眠る湖〜  作者: 霧原零時(orすっとぼけん太)
第4章 箱の引き上げとやんちゃ姫
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【1】 沈黙の湖、語らぬ遺物

諏訪湖の静かな水面に、二隻の小型タグボートが浮かんでいた。

それぞれの甲板の上には六台のエアポンプ――計十二台が、湖底へ向けて絶え間なく空気を送り込み続けている。


本来なら、大型のサルベージ船を用いるべきところだった。

だが、運搬の困難と莫大な費用が、それを断念させた。


工事を請け負ったのは、地元の大手建設企業『賀寿蓮組がじゅれんぐみ』。

まず、湖底作業に対応できる潜水作業員二十人が雇われた。

彼らは交代で水中へ潜り、泥と格闘しながら、手作業で湖底を掘り進めていく。


その裏で、地上では特設会場の建設が進められていた。

湖底から掘り出した泥はタグボートに積まれ、次々と陸へ運ばれ、ダンプで山へと運び出される――。

そんな地味で骨の折れる工程が、幾度となく繰り返された。



探査開始から、およそ一ヶ月――

ついに、巨大な石箱の上部が姿を現した。


現れたのは、堂々たる石蓋。

縦二十メートル、横十二・三六メートル。

その比率は実に美しく、“黄金比”に近かった。


表面には、長い歳月を物語るように、藻や貝殻、や苔がもざっと膨れ上がっていた。

さらに、蓋の中央には直径二メートルほどの円形の穴が開いており、そこからは――

内箱の蓋の一部が、顔を覗かせている。


そしてその円を取り囲むように、ひし形が四つ。

その配置と形状は、まさに“武田家”の家紋そのものだった。


すべては――

「年少天才」の異名をとる歴史学者、神童時貞教授の見立て通りである。



石箱の側面――厚さ三十センチの石肌に、水中ドリルで小さな穴が次々と開けられていく。

そのたびに、無数の細かな気泡が浮かび上がり、湖面を白くにじませた。


開けられた穴には、一本ずつ鉄の杭が差し込まれる。

杭の先端には、強固な傘の骨のような仕掛けが施されており、穴に押し込まれると中で開き、二度と抜けなくなる。まるで、湖底に咲いた小さなイカリのようだった。


杭同士は、一本のワイヤーで順に結ばれていく。

そのワイヤーは、やがて石箱の上に広げられた巨大な円形シートへと繋がっていた。

分厚いテント生地に似たそのシートは、石蓋全体を包み込み、水中で萎んだパラシュートのようにゆらめいていた。


シートの内部、中央からは、四本の太いワイヤーが放射状に張られ、箱の四隅へと繋がっていた。

これは、空気を送り込んだときに中央だけが尖って膨らみ、全体のバランスが崩れるのを防ぐための構造だった。


円形のシート――すなわち“水中の気球”は、石箱よりもはるかに巨大だった。

その内部に空気が注がれるにつれ、湖底に眠る五百年前の遺物が、静かに――しかし確かに、現世へと浮かび上がる準備を整えていく。


――そして今、その気球には、地上から空気が注がれていた。

当初は、空気より軽いメタンガスの注入も検討されたが――費用と安全性の問題から、その案は見送られている。


引き上げの際、石箱が崩れるリスクも懸念された。

なにせ、石は五百年ものあいだ湖底に沈んでいたのだ。


だが、石箱は一枚岩をくり貫いて造られており、ドリルで強度を調べた結果、構造は今なお健在と判明している。


浮力で湖面に浮かび上がった石箱の下部には、潜水作業員のよってワイヤーが通される。

そしてそのワイヤーを、岸に設置された四基の大型クレーンに繋ぎ、箱ごと一気に湖畔へと引き寄せる計画だった。


途中までは気球の浮力で水面を移動し、岸に近づいてから、ゆっくりと吊り上げていく――

そして最終的には、逆L字型に並ぶ建物の“中庭”にあたる場所へと、慎重に降ろされる手筈となっている。


箱の内部には、もうひとつ――縦横七・五〇メートルの正方形の石箱が存在していることが、事前のX線調査で明らかになっていた。

外箱の上面、蓋の中央に開けられた直径二メートルほどの円形の穴からは、その内箱の石蓋が、かすかに覗いている。


構造は、完全な二重箱だ。

外側は直方体、内側は少し小さな正方形。

内箱は、ちょうど中央に据えられるよう固定されており、その周囲には四方すべてに空間――空洞が設けられていた。


まるで、外側の箱は、中の箱を“守るためだけ”に存在しているかのようだった。


だが――それならば、外蓋にわざわざ開けられた“円形の穴”は何なのか?

守る構造に、開口部を設ける必要などないはずだ。


神童時貞の脳裏に、微かな違和感が引っかかっていた。

それはまだ“言葉”にはならない。だが、確実に仮説と矛盾していた。



――湖の中央が、大きく波立った。

その左右で、ポンプを積んだ二隻のタグボートが、大きく横揺れを起こしている。

濁った湖の下で、巨大な黒い影が広がっていく。

まるで湖底から、UFOが浮かび上がってくるようだった。


碧が腕時計に目をやる。時刻は、十一時を少し回っていた。


彼女は、それを背に、カメラに向かい、気球が石箱を引き上げて、水面に姿を現す瞬間を、興奮気味に実況していた。

麟太郎は、その碧から、後方の諏訪湖にゆっくりとカメラをターンした。


「いよいよですね」

と、一織が部屋を抜け出して、碧がカメラから外れるのを待って、声をかけた。


「ええ。五百年前の“歴史の箱”が、ついに姿を現すわ」

紺色のブレザーを羽織りながら振り向いた碧は、少し興奮気味だった。

昨夜の睡眠不足も、今はすっかり頭から消えている。


「神童博士は?」


「あっ、四郎はね……今も古文書の最後のあたりと格闘中。もう一週間、同じページを睨んでるのよ」


碧は、《《いないことに》》ちょっとホッとした。


――いきなりお尻を触られて、「あれはジャッカルの仕業だ」とか言われたら、たまったもんじゃない。

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