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戦国の封獣・壱 〜信玄と鬼の眠る湖〜  作者: 霧原零時(orすっとぼけん太)
第3章 道化を演じる偉才の貴公子
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【4】 博士の正体と、ヨネ松くん

碧は深く息を吸い込み、感情を抑えるようにしてから――

「神童時貞博士は、いつ頃お戻りになりますか?」

と、できるだけ冷静さを装いながら、ゆっくりと問いかけた。


「……時貞博士?」

若い女がその名を繰り返した瞬間、ぷっと吹き出す。

隣の男も、つられるように肩を震わせて笑い始めた。


碧には、ふたりが笑い出した理由がまるでわからなかった。

困惑と苛立ちが入り混じった憮然(ぶぜん)とした表情のまま、口を開く。


「……博士は、いつお戻りになりますか?」


努めて冷静に言おうとしたが、声は不自然に低くなっていた。


「いつ戻るって言われても……」

若い女が困ったように返しながら、隣の男に視線を向ける。

男はというと、まるで何事もなかったかのように、コンビニ袋から次のカレーまんを取り出していた。


碧は、煮え切らない二人にとうとう業を煮やし、問い詰めた。


「あなたたち……本当に、神童博士の助手なんですか?」


若い女はケロッとした顔で、


「うん、私は助手だけど――」


そう言いながら、隣の男の頬に人差し指の第二関節までをグイッと突き立てた。


「――こっちは、本人だから」


碧は、一瞬、言われた意味が理解できなかった。


目の前でカレーまんを頬張っているその男こそが、神童時貞教授、二十八歳。

世界的発見をした最年少の天才考古学者だった。

そして、隣にいる若い女性は、跡見大学の一年生で助手を務める牧瀬一織、十九歳。

牧瀬コンツェルンの社長令嬢であり、その父と時貞の父・勘明博士は旧知の間柄――。


「……えっ? あなたが、神童時貞博士……!?」


碧の頭は完全にショートした。


(この男が? “ジャッカル”とか言ってたこの男が!? 右手に人格を宿したあの男が!?)


どこからどう見ても、変人かつ軽薄そうなその男が、今回の発掘の立役者――信じたくても信じられない。


(しかも、わたし……この人のこと、ぶん殴るとか言っちゃった……!)


青ざめた碧の視界が、一瞬グラリと揺れた。顔から血の気が引き、頭の中が真っ白になっていく。



その時、突然――


「うわあぁーーっ!!」


時貞が突如、血相を変えて叫んだ。

テーブルの上に置かれたコンビニ袋を慌てて持ち上げ、袋の下を必死に覗き込む。


一織はその大げさな騒ぎに目を丸くして訊ねた。


「ちょっと、どうしたのよ?」


「えっ、あ……いた! いたいた、よかったぁ!」


(……今度は何!?)


碧はもう、何が何だかわからず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


「ヨネ松、無事だったか……!」


そう言いながら、時貞はテーブルの上から黒く小さな何かをそっと握り上げる。


「なに、それ?」

不思議そうな顔をした一織が、時貞の手元を覗き込む。


すると時貞は、得意げに片手を開いた。


「きゃあああっ!」


一織が声を上げて飛びのき、手に持っていたカレーまんを取り落とした。

それが転がって、碧の足元まで転がってくる。


碧も思わず数歩後ずさった。


時貞の広げた左手の上では、黒光りするカブト虫――その名も「ヨネ松」――が、モゾモゾと動いていた。


呆然と立ちすくむ碧。

そんな視線をよそに、時貞は右手でカレーまんをかじりながら、左手のカブト虫を愛おしげに見つめていた。


一織は立ち上がり、テーブルの上に散らばったカレーまんの残骸をひとつひとつ袋にかき集めながら、顔を上げて言った。


「四郎、何にでも名前つけるの、やめてってば」


その口調には、もう何度も言ってきたんだろうなという呆れが滲んでいる。

どうやら時貞には、物でも虫でも、すぐに命名してしまう癖があるようだった。


(四郎?……神童 “時貞”、博士じゃないの?)


碧は眉をひそめたまま、その呼び名にひっかかりを覚えていた。

やっぱり、どこか二人にからかわれているような気がしてならない。


「えっと……四郎さんって?」


釈然としないまま、碧は訊ねた。


碧も自分の足元に転がったカレーまんの残骸を拾いながらしゃがみこむ。

白いミニスカートの裾が自然と上がり、スラリと伸びた太腿があらわになる。


――そして、その光景を、時貞は見逃さなかった。


かぶと虫を握ったまま、視線がじわじわと下がっていく。

彼の鼻の下は、ヨネ松の触角よりもなめらかに、シルクロードのごとく伸びはじめていた。

どうやら、カブト虫よりも“こっち”の方がはるかにお気に入りらしい。

「四郎ってね、時貞のことなの。お父様――勘明博士が、天草四郎時貞が大好きで」


「天草……四郎、時貞?」


碧が復唱すると、一織は頷いた。


「ええ、だから最初は“神童 四郎時貞”って名前にしようとしたらしいんだけど、さすがに長いから“時貞”だけにしたんだって。でも、あとになって後悔しちゃって……。小さい頃からずっと“四郎”って呼んでたの。それで今でも、昔からの知り合いはみんな、“四郎”って呼んでるのよ」


一織は、当たり前のように話す。


彼女と時貞は、幼い頃から顔見知りだった。ただ、年の差があるぶん、遊ぶというよりは――時貞がやんちゃな一織に、ひたすら振り回されていたらしい。


「へぇ〜……ん!? ちょ!」


碧が顔を上げると、自分の下半身を覗き込んでいる視線に気づいた。スカートの裾を慌てて押さえながら、勢いよく立ち上がる。


時貞はバツの悪そうな顔でくるりと背中を向け、なにごともなかったように、手のひらのカブト虫へと視線を戻した――が、鼻の下は明らかにまだ伸びていた。


一織は、いきなり立ち上がった碧を不思議そうに見ながら、話を続ける。


「四郎ってね、あんな感じだから……お父様は、四郎の弟さんばかりを可愛がってたの。でも、わたしも――それに左助も――四郎が天才だって信じてるわ」


「さ、左助さん?」


碧が聞き返すと、一織は軽く笑った。


「ああ、四郎の弟の名前。左に助けるって書いて、サスケ」


碧は一瞬目を瞬かせたあと、心の中でそっと呟いた。


(……時貞博士の父親、趣味が渋すぎるわね)

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