迫る思い、それぞれの告白 二
みつきが櫻井の隣にやってくると、櫻井は何だ?といった様子でみつきを見た。
「えっと、あの……」
いざ、櫻井を目の前にすると、恥ずかしくてもじもじしてしまった。周囲の視線もなんだか痛くて、ポケットに手を入れお守りを握るも、お守りが渡せない。
しかも、水杜と話していた当麻と目が合って、みつきは更に気まずくなった。
そんなみつきを見て、櫻井はわけがわからないといった様子でみつきを見る。
「なんだよ? どうしたんだよ」
と言ったところで、櫻井は何かを察したのか
「席、外そうか?」
と言って立ち上がった。
「ちょっと自室行ってくる」
そう言って櫻井は隣にいた入江の背中と障子の間の隙間を大股で通って居間を抜け、階段の下で手でみつきに『来い』と合図した。
みつきもそっとそれに続くように入江の背中をぬけて、櫻井の後をついていく。階段をゆっくりと上って階下の談笑の声が小さくなっていくと、階段の軋む音が大きくなってなんだか余計にドキドキしてきた。
そのまま招かれるようにみつきが櫻井の自室に入ると、部屋からふわりと櫻井の香りがして心地よい感じがした。
もうすぐこの香りもなくなる──そう思うと、みつきは少し寂しくなった。
あれから更に片付けられて、部屋の端に大きなトランクと、壁に吊るされた背広以外は櫻井の私物が何もない殺風景な室内には、机の上に読書灯のような間接照明があって、櫻井はそれを点けると畳に腰を下ろした。
柔らかい光が櫻井の下襦袢に肌が透け、少し色っぽく見えて余計にドキドキする。
見惚れて立っていると、櫻井が
「そこ、座れよ」
と言って、畳を指差した。
「え、あ、はい!」
みつきはぎこちない仕草をしながらその場に正座をした。
「で、用事は?」
櫻井はさっぱりとした態度でみつきに言う。みつきは急かされたような気になって、素早くポケットの中に手を入れたはいいが、勇気が出ずに握っては放し、握っては放しを繰り返した後、お守りをようやく握ってポケットから出した。
「あの、櫻井さん。これ……」
みつきが震える声で恐る恐るお守りを差し出すと、櫻井がそれを受け取ってまじまじと観察するように見る。
「これを、俺のために?」
櫻井が驚いたような顔をして言うので、みつきは黙って頷いた。
「あの……弾除けのつもりで、零戦のジュラルミンを中に入れたんです。こういうの慣れてないので下手だけど……」
みつきがそう言うと櫻井は少し嬉しそうな様子で
「へえ、ありがとう。結構可愛いじゃないか」
と言ってしばらくそれを眺めた。
「さて、どこにつけようかな」
櫻井が唇に指を当てながら少し考えた後、思い出したように下襦袢の中で何か首から下げた紐のような物を中から引っ張り出した。その紐には、小さな小判の形をした銅板のようなものが二枚ついている。
そしてその銅板の紐に、みつきの作ったお守りの紐を結んで、
「ここにつけるか」
と言って、またそれを服の中に入れ込んだ。
(なんだろう。そんなものを身につけていたんだ……)
少しお守りで膨らんだ下襦袢をみつきがまじまじと見ていると、それに気づいた櫻井が
「ああ、これは認識票といって、そうだな──身分証のようなものだ。死んだ時に誰かわかるように、いつも必ず身につけておく必要があるんだ。一枚は認識用に、もう一枚は戦死通達用に使われる」
と言った。
(そんなものがあるなんて……知らなかった)
改めて死と隣り合わせなのだと、実感する。みつきは、なんだかそんな櫻井が少し遠い存在に感じた。
櫻井はさも当たり前かのように服の上からお守りに触れながら
「認識票に付けると、なんだか道連れを作ったような気分だな」
と言って、目尻に皺を作って笑うのだった。
──戦闘機乗りの空は思った以上に孤独で、自分と恐怖との極限の戦いだったりする
当麻の言葉がみつきの脳裏に過ぎった。まるで道連れ──そんな風に笑うその姿があまりにも痛々しくて、みつきは思わず
「櫻井さん、私──」
と、口走ってしまった。
(しまった)
部屋がしんとして、階下の笑い声が少し聞こえてくる。そういえば、宴会の場から抜け出して来たんだという現実をその笑い声が思い出させた。
櫻井は表情を変えずにじっとこちらを見て、
「何?」
と、みつきにその先の言葉を促すものだから、みつきの手は緊張で冷たくなってきた。心臓の鼓動がやたら大きく聞こえて、脈拍もどんどん早くなっていくのがわかる。
変な汗が出てきて、目眩までしてくるような気さえした。
「あの! 私、櫻井さんが好きで、その──」
そこまで言いかけたところで、みつきはハッとした。好きだからどうしたいと言うのか。好きだから付き合って欲しいとか、こんな状況下で言ってどうするのか。
死と隣り合わせである戦闘機乗りという存在に投げかける言葉として不適切だったとみつきは思った。
ましてや、これから最前線の鹿屋へ行く零戦のパイロットに。
そう、ただ私は気持ちを伝えたかっただけ──そう思って、みつきは訂正をしようと口を開いた。
「ごめんなさい、私はただ──」
「知ってる」
みつきの言葉に被せるように櫻井が言った。
「知ってるよ、そんな事。ずっと前から」
みつきは言葉を止めて唖然としているが、そんなみつきを櫻井は気にも留める様子もない顔をして言う。
好きだ──燻っていたこの気持ちを言ってしまった事で、みつきの苦しくて締め付けられるような溢れる想いが解き放たれたと同時に襲っていた、胸のざわつきが少し軽くなった。
(知っていた……?)
「だってわかりやすいもんな。俺が女から手紙を貰うとすぐ拗ねるもんな」
そう言って、櫻井は腕を組んでからかうように笑うのだった。まるで今更──そんな事を言いたげに。
「い、いや! そんな、別に拗ねてるつもりは! 私は何も気にしてなんか!」
みつきは自分の顔が真っ赤に熱くなるのがわかって、今までずっと知られていたのかと思うと恥ずかしくてどうしようもないくらいに消えてしまいたくなる衝動に駆られた。
「ほら、そうやってすぐむきになる」
そんな風にからかうような目をして笑う櫻井を、
(ああ、それでもやっぱり私はこの人が好きだ)
そう思わずにいられなかった。
「なあ、みつき。俺の戦闘機乗りとしての原動力が何か、教えてあげようか」
櫻井の表情がふと、真面目になった。
そして暫くの沈黙の後、真っ直ぐな瞳で言ったのだった。
「俺の原動力は、みつき──君だ」
一瞬みつきは何を言われたのか分からなかった。その優しさと鋭さを兼ねたような櫻井の眼を、みつきは目を見開いたまま逸らす事が出来ないでいる。
すると、櫻井は少し躊躇うような様子でゆっくりと語り始めた。
「俺は毎日軍人勅諭五箇条や五省を宣誓して忠誠を誓っておきながら、結末のわかりきったこの戦争を続ける事に、嫌気にも似た感情を抱いていた──いや、疲弊していたといった方が正しいかな。そう、使命感や忠誠心、復讐心だけじゃ……もうどうにもならないくらいに」
櫻井がこのような私的な感情や思いを語ったのは初めてだった。
戦闘機乗りだからこそ、前線に出て敵国との力の差をこの目で見、思い知っているのだろう。
それなのに、毎日のように出撃していく後ろ姿からはそんなものを微塵も感じさせないのは、仲間を引っ張っていく責任感と、この国の行く末を心から思うからこその強さなのか。
「でも、こんな状況下でもみつきのその笑顔を見る度に、疲弊していたものが解けていくのがわかった。いつしかその笑顔を──命を懸けて守りたいと思うようになった」
櫻井は前髪を少しかきあげたあと、認識票のある下襦袢の膨らみに手を添えて少し俯いて言った。
そして、ふっと笑ったその櫻井の表情が寂しげに見えた。間接照明がゆらゆらと櫻井の左頬に影を落としているせいで、余計に。
「例えこの戦争の結末がわかりきっていても、大切に想う人を全身全霊を懸けて守りたい。その為にはこの身がどうなろうとも構わない。それが俺の原動力なんだ」
目黒から帰った、あの列車の中で言っていた櫻井のあの言葉。
──幸せな家庭は未来の誰かが作ればいい。俺はその土台を作る事ができるなら、それで幸せだ
── みつきがいつか、幸せな家庭を作れるようにするのが俺の仕事なんだ
そう言って覚悟を決めた人間に、自分の我儘で生きていて欲しいとか、帰ってきて欲しいとか、私を幸せにして欲しいとか──言ってはいけない事くらい、みつきでもわかっていたはずだった。
「私はただ、気持ちを知って欲しくて、帰ってきて欲しくて、一緒にいて欲しくて──ごめんなさい、ごめんなさい、こんな事言うつもりじゃ……」
そう、わかっていたはずなのに、みつきの口から出てくる言葉は正反対で、自分でも何をしているのかわからなかった。みつきの瞼が重たくなって、目の前がまるで曇りガラスに覆われたような景色になっていく。今まばたきをしたら、涙が零れると思った。
目に溜めた涙を零さないように櫻井の眼から目を逸らして、震えた声で必死にごめんなさいを繰り返していると、みつきの頬に櫻井の手が触れた。
それに驚いてふとみつきが顔を上げたその瞬間、溜め込んでいた涙が頬を伝ってぼとりと音を立ててモンペの布に染み込んだ。
それと同時に視界が急に晴れ、目の前の櫻井の表情がよく見えた。
間接照明の影で暗くなったその顔に、困惑のような悲しげな──そんな表情をして真っ直ぐこちらを見ている櫻井がいる。
「みつき。お願いだから、もう泣かないでくれ。俺の覚悟が揺らいでしまうから」
覚悟が揺らいでしまうから──その言葉は、櫻井の精一杯の気持ちだった。
そして、同時に自分の気持ちに応える事が出来ないと言われているのだという事を──みつきはそこで悟ったのだった。
こうなる事はわかっていたはずなのに、どこか櫻井に期待をして、悲しくて悲しくて堪らない自分がみつきは嫌になった。
次の櫻井の配属先は、本土最南端──鹿屋に基点を置く航空隊。それが特攻兵器とその直援部隊の日本の最後の砦とも言うべき航空部隊である事を、歴史を知っているみつきは知っている。
乾坤一擲──いや、最後の悪足掻きと言うのかもしれない。そんな事を戦争が終わるまでずっとしなければならない程、日本は追い詰められているというのに、じゃあ帰ってくる約束ができるのか──そんな事出来るはずがないと少し考えればわかるはずなのだ。
でも、こんな絶望の中でも、櫻井は原動力がみつきなのだと言った。原動力が自分だと言うのなら、これからもずっと、その原動力になり続けたい──みつきは強く思った。
(そう。私は、皆の笑顔を少しでも増やしたくて、皆の支えになりたくて、この世界にいる事を選んだはず)
「櫻井さんの零戦の飛行班に入れて嬉しかった。いつも見送って、帰ってくるのを間近で見れて、そして整備できて嬉しかった。もうそれが出来ないと思うと辛いけど、櫻井さんの笑顔を見れて幸せでした」
みつきが震える声でそう言うと、櫻井は驚くほど優しい声で
「それは、俺も同じだ」
と言ったのだった。
気持ちは叶わなくとも、なんだかどこか遠い存在だった櫻井と心が近くなったような気がして、みつきの胸の中が熱くなった。
みつきが涙を服で擦っていると、櫻井が立ち上がって吊るしていた背広のポケットからハンカチを取り出して、片膝をついてみつきに差し出した。
「ほら、涙拭いて。そろそろ下に戻らないと、皆が心配するぞ」
そういえば、初めて出会った時もこうしてハンカチを差し出してくれたっけ──ふとそんな事を思い出して、みつきは急に懐かしくなった。
こうして片膝をついてハンカチをくれる櫻井に、そんなところまで海軍士官らしい所作をするなんて──と、みつきはふと思ったり。
みつきがハンカチを受け取ると、みつきの頭を撫でるように叩いて立ち上がった櫻井の後ろ姿に、みつきが
「櫻井さん!」
と呼び止めると、櫻井が振り向いた。
「私は、櫻井さんの原動力にこれからもなり続けられますか」
こんな事を訊くのは野暮かもしれないとわかりながらも、思い切ってみつきがそう言うと、櫻井は
「死の瞬間まで、きっと」
と、少し微笑んで言ったのだった。
軍人勅諭五箇条
一.軍人ハ忠節ヲ盡スヲ本分トスベシ
一.軍人ハ禮儀ヲ正クスベシ
一.軍人ハ武勇ヲ尚ブベシ
一.軍人ハ信義ヲ重ンズベシ
一.軍人ハ質素ヲ旨トスベシ
五省(海上自衛隊HPより)
一 至誠に悖るなかりしか
〔誠実さや真心、人の道に背くところ
はなかったか〕
二 言行に恥づるなかりしか
〔発言や行動に、過ちや反省する
ところはなかったか〕
三 気力に欠くるなかりしか
〔物事を成し遂げようとする精神力は
十分であったか〕
四 努力に憾みなかりしか
〔目的を達成するために、惜しみなく
努力したか〕
五 不精に亘るなかりしか
〔怠けたり、面倒くさがったりした
ことはなかったか〕




