想いは、定まらない
冷たい風と同時に、生暖かい風が吹く。
焼けて暖かい瓦礫の熱が、風となって頬にあたるのだ。
みつきは、風で舞い上がる灰が目に入らないように、時々目の前をぱたぱたと手で振りながら、真っ黒に焦げた──丸太なのか死体なのかわからないものを大股で跨いで櫻井の後を必死でついていった。
空襲でまき散らされた油の刺激臭、煙でいぶされた臭い、髪の毛が焦げたときの特有のツンと燻された臭いや、遺体の腐敗臭が混ざって、思わず吐きそうになった。
櫻井から借りたハンカチで鼻と口を抑えながら、ゆっくりと櫻井の後ろをついて歩いていると、また黒い丸太のようなものが転がっている。
(やっぱりさっき跨いだのは丸太じゃなくて──)
そうふと思った時、
「あまり考えるな」
そんなみつきを察したのか、櫻井が振り向きざまに言った。
「少し遠いけど、品川に着けばとりあえず横浜まで列車は出ているだろうから、それまでの辛抱だ。頑張れ」
*
みつきと櫻井は、心を無にしながら淡々と品川駅まで歩いた。焼け焦げた肉や木の臭いにも慣れてきてたけれども、刺激臭による口の乾きが酷くてやたら喉が痛い。空気の悪さからくる頭痛も相まって、頭がおかしくなりそうだった。
頭痛でフラフラとしながら約一時間程歩いて、品川駅に着いた頃には立ち上がる気力すらも残っておらず、先の空襲でボロボロになった駅舎の前でみつきは座り込んだ。
「どうした? 頭が痛いのか?」
「うん、少し……」
みつきがそう言うと、駅舎の柱にもたれかかるようにして櫻井に座らされた。櫻井は腰のベルトに引っ掛けていた水筒を取り出して、
「ほら、水だ。これを飲んで列車が来るまで少し休んでいろ」
と言って、冷たい風で冷えた水筒の水を一口、櫻井が口に運んでくれる。みつきはそれをゆっくり、こくんと飲んだ。その水があまりにも美味しく感じてもう一口飲んで、空気をゆっくり吸って吐いたら頭痛が少し楽になったような気がした。
「帰ったら薬飲もうか。俺のがいくつかあるから」
「ありがとう……ございます」
そんな話をしていると、遠くで子供が泣き叫んでいる声が聞こえた。櫻井は立ち上がり、この場を離れたかと思うと、歳は一つくらいだろうか──まだ幼く、指をくわえながら泣いている男の子を抱き抱えて、あやしながら戻ってきた。
喉からひり出したような大きな声で泣くその男の子は、みつきの顔を見るなりぴたりと泣くのをやめた。
男の子の抱っこを求める手に、みつきは戸惑いながら櫻井からその子を受け取ると、少し安心したような顔をして、みつきの胸元の服を掴んだ。服はボロボロで、所々焦げ付いてる。涙で顔の頬の煤だけは綺麗に落ちていた。
「やっぱ男じゃダメだな。なかなか抱っこはできない」
少し寂しそうに櫻井は言った。
「抱っこしたかったですか?」
みつきがそう訊くと、
「そりゃあね。俺だって子供は抱きたいさ」
と、少し意味を含ませたような言い方をした。
まるで、自分自身の子は将来的にもう抱く事が出来ないと言っているかのように。
「可哀想に。この子は恐らくこの空襲で両親を亡くしている」
と言って、小さな男の子の指を握った。
「こんな幼いうちから沢山の死を経験して、辛かったろう」
ゆっくりとふわふわとした髪の頭を撫でながら櫻井は言った。
「この子を一旦下宿へ連れて行く。横浜に確か──孤児院があったはずだから、そこに預けるつもりだ。このままでは死んでしまうから」
そんな話をしていると、いつの間にかその子供はみつきの胸の中で眠っていて、気付けば列車のホームへの入線案内が入っていた。
***
横浜で大東急厚木線(現在の相鉄本線)に乗り換える。大東急線は本数を減らしてはいるものの、通常通りの運行をかろうじて保っていた。列車に乗り込むと意外と通勤の乗客が多かったが、親切な男性が席を譲ってくれた。
みつきは男の子を膝の上に乗せて席に座る。列車の中で男の子が泣き出すたびに櫻井があやした。新聞紙の切れ端で折り紙を作って、カエルを作ってぴょんぴょんさせたりして子供を喜ばせた。
子供に対するその笑顔はいつになく優しくて、思わず見とれてしまいそうになる。
まるで父親のようで、飛行機乗りとしての一面が強かった櫻井に、こんな一面もあるんだ──そんな風に思わざるを得なかった。
(もし別の生き方があったとしたら、櫻井さんは家庭を持ちたかったかな)
──俺が死んでも、特攻機だけは堕とさせない
そんな櫻井の言葉が思い出されて、胸が酷く痛んだ。もしこんな戦争さえなければ、当たり前の幸せな生活があったはずなのに。
「櫻井さん、変なこと訊きますけど……」
櫻井は不思議な顔をしてこちらを見た。
「もし、もしですよ。戦争がなかったら……家庭は欲しかったですか?」
みつきがそう言うと、櫻井は少し困ったような顔をして
「そりゃあね」
と、諦めにも似たような表情で笑った。
「もし、があるなら──支那事変は無かったかもしれないが、どちらにせよ日本の経済事情は地を行く一方だったし、ドイツがソ連と戦争を始めた時点でこうなる運命は避けられなかった。もし無かったにしても、俺はこの道に進んでいただろう。何も変わらないよ」
みつきはそんな風に言う櫻井に、何も言えなかった。
「ただ、家庭を持ってる俺の同期もたくさんいるよ。別に死にゆく軍人だからといって家庭を持てないわけじゃない。俺だって望めば持てる。ただ俺は──」
そこまで言って、櫻井の言葉が詰まった。
そして少し黙った後
「自分の妻や子には辛い思いをして欲しくない。もし俺が死んだとして、この先生きるか死ぬかの茨の道を、無責任に歩かせたくない」
と言った。
「金は遺せても、何一つ守ってあげられない。何もしてやれない。それじゃあただ、苦しませるだけだ」
と、子供の手を握りながら覚悟を決めたように言う櫻井の眼は悲しげだった。
(櫻井さんが、もう少し後の世代に生まれていたら──こんな思いをしなくて済んだのかな)
なんて事を思って、みつきの表情が曇る。
そんな風に思うみつきの心を読んだかのように、櫻井はみつきの頭をぽんと叩いて
「俺はこんな時代に生まれたことを後悔していないよ」
と言うのだった。
その櫻井の真っ直ぐな瞳に、みつきは思わず
「私は、櫻井さんにも幸せになる権利はあるはずです!」
と言うと、櫻井は困ったような顔をした。
「あのね、私は! 私は──」
涙がぽつりと、膝の上に乗せていた男の子の額に落ちた。
「櫻井さんと一緒に──」
そこまで言って、言葉が出なかった。
でもこれ以上口に出したら負担になるだけのような気がして、一緒にいたい、あなたを支え続けたい──たったその二言が言い出せなかった。
櫻井はみつきをじっと見たまま、表情を変えずにいる。そしてただ、みつきの頬を伝う涙を優しく指で拭って、撫でるのだ。
「幸せな家庭は未来の誰かが作ればいい。俺はその土台を作る事ができるなら、それで幸せだ」
そんな風に言う櫻井が、みつきは嫌だった。
何もかもが自己犠牲のもとに成り立つ幸せなのだ。
あなたが生きているだけで幸せで、一緒に生きていきたいと密かに思っている私は何なのかと──全てを否定されて拒絶されたような気持ちでいっぱいだった。
「みつきがいつか、幸せな家庭を作れるようにするのが俺の仕事なんだ」
みつきはそんな風に言う櫻井を、大好きで──大嫌いだと思った。
***
下宿への帰り道、櫻井が男の子を抱っこして、みつきがその隣を歩いている。そんな二人の間には、少しぎこちない空気が流れていた。
そんなぎこちない空気を読んでいるように、男の子は櫻井に抱かれても泣き出すことはなく、落ち着いている。
下宿に帰ると当麻が居間にいて、櫻井とみつきを見るなり
「櫻井! みつき!」
と、そのぎこちない空気を打ち破るように駆け寄ってきた。
「無事で良かった……!」
そう言って、当麻はみつきに抱きつく。
「わっ、当麻さ……」
当麻の力強い抱擁に、思わずみつきは咳き込んだ。
櫻井は眉を顰めて当麻の足を小突いたが、当麻はそんなことお構い無しだ。
「みつきが死んじゃうんじゃないかって心配だった。怪我はしてない?」
耳元で聞こえる当麻の声に少しどきどきしながら
「櫻井さんや森岡さんがいたから大丈夫。怪我もなく無事ですよ」
と言うと、少し安心したような声で
「櫻井はちゃんとみつきを守った?」
と訊くので、みつきはうん、と頷いた。
「おい、俺には言うことはないのかよ?」
櫻井が少し呆れた様子で言うと、当麻は声色を変えて櫻井を指差した。
「言いたい事は山ほどあるが、まずはそこに抱いている子供の事が先だ。櫻井、いつ子供作ったんだよ?」
「は? 俺の子じゃねぇよ」
櫻井は子供を玄関に下ろしながら言った。
そして靴を脱ぎながら
「この子は空襲で両親を失っている。駅で泣いていたから保護してきた。孤児院へ受け渡そうと思って」
と言って、櫻井は煤で汚れた軍服の上衣をその場で脱いで無造作に床に置いた。
「なんだ、櫻井の子じゃないのか。孤児院ね──横浜にあったな、確か」
当麻がそう言って玄関に下ろされた男の子を抱き上げると、男の子は嫌がって声を上げた。
「おーおー泣くな泣くな、よしよし」
当麻は困った様子で抱いた男の子をゆらゆらする。しかし、その子供は今にも泣き出しそうだ。
「さっき、やっと櫻井さんにも慣れたんですよ、なんだか男の人にあまり慣れてないみたいで」
男の子は体を仰け反るようにくねらせて、みつきに手を伸ばした。
「やっぱお母さんが恋しいのかな」
そう言いながら当麻はみつきに男の子を渡すと、ぐずぐずしていた男の子が泣き止んだ。仕方なくそのままみつきが抱っこして、当麻と居間に入り腰を下ろす。
男の子を膝の上に乗せてあやしていると、突然肩を叩かれた。
振り向くと櫻井が
「ほら、頭痛薬」
と言って、小さな瓶を差し出した。
「頭痛かったんだろ、これ飲めば少し落ち着くから。一回二錠な」
「ありがとうございます」
みつきは、覚えていてくれた事に少し嬉しくなったが、先程の事を思い出してすぐに表情が曇った。
「なあ、櫻井。聞いたよ。東京の下町は全滅だったそうじゃないか。目黒の方も甚大な被害だったんだろ? よく無事でいられたな」
「ああ、主目標は目黒じゃなかったから不幸中の幸いってやつだ」
家の主人が黙々と櫻井、当麻、みつきにお茶を淹れるのを見ながら、櫻井が言った。
「海軍病院の周りは焼け野原だって聞いたぞ。その割には助かった人も多かったとか」
「それはみつきのおかげだよ、俺は何もしてない」
櫻井が一口お茶を飲みながら言った。
「どういうこと?」
当麻はキョトンとしている。
「みつきが、空襲を予言してくれたからこそ、俺も異変に気付いた。だからと言って先手を打つような事は出来なかったが、死ぬかも知れなかった人達をだいぶ救う事は出来た」
ちらりと櫻井はみつきを見た。その目はやっぱり優しくてみつきには居心地が悪くて、みつきは思わず目を逸らしてしまった。
「櫻井が天皇陛下の御料地をぶち破ったってだいぶ噂だけど、本当?」
当麻の言葉に櫻井は思わず茶を吹いた。
「おい。もうそこまで話がいっているのか? 軍法会議送りも目前か。俺はこれからどんな処分を受けるんだろうな。楽しみだよ」
なんて言いながら、櫻井は苦笑いしながら口元を拭った。
「安心しろよ、意外と陛下もお許しになってると専らの噂だぞ? あくまでも噂だけど」
「うるせえ当麻。貴様の言葉はあまり信用ならんからな」
既にこの時身元をしっかり特定されていた櫻井は、横須賀鎮守府で皇居等侵入罪で軍法会議にかけられる恐れがある──というところまでいったわけだが、大勢の目黒区民を空襲から救った事による功績で、その日の昼には天皇陛下から御嘉賞を賜った。
おかげで軍法会議送りの話はすっかり消し飛ぶどころか表彰される事態にまでなり、小園司令は泣いて喜んだという話がある。




