第八話 「ゆうれいのいない日」 ①
◇1
蝉の鳴く声がうるさい。
ただでさえ暑くて堪らないというのに、耳をつんざくようなその騒音のせいで、さらに暑苦しく感じた。
夏休み。うだるような熱気に敗北した俺は、居間の畳の上へ横になっていた。
扇風機から送られて来る生暖かい風は、まったくもって俺の身体を冷やしてくれることはない。どこにいても、何をしていても暑い日である。
こんな日に体育館のサウナ地獄に入ってしまったら、一体どうなってしまうのだろう。
さすがの演劇サークルも、夏の一番厳しい時期は活動を休止している。それゆえ、現在の第二体育館の様子は分からないが、きっととんでもない釜戸が出来上がっているに違いない。
「……ああ、暑い。脳が溶けそうなほどの暑さだ……」
だが、クーラーはつけない。バイトをしていない学生の身だ。電気代がもったいなくて滅多につけられないのである。
さて、ここまで暑いと、本当に何のやる気も起こらない。三度の食事よりも好きなはずの執筆作業でさえ、まったく手に着かないほどだ。そこまでくるとさすがにクーラーをつけるべきなのかとも迷う。
いや、そもそも俺は本当に暑くてやる気が出ないのだろうか。近頃はずっとこんな感じではなかっただろうか。
そうだ。あの日――
――ヒマリがいなくなってしまった日からというもの、俺は心の中にぽっかりと穴が開いてしまったような感じがしていた。具体的な大きさも深さも分からない穴だ。俺はその穴を隠すようにしてサークル活動と学業に専念しているふりをした。公演が決まっているわけではないが、いつもより力を入れて稽古をし、7月末から始めるテストに備えてひたすら勉強をしたのだ。嘘が苦手な俺は、自分に対して嘘を吐いていたのである。
そして、夏季の長期休暇へ入るとともに、その嘘は吐けなくなった。
ぽっかりと空いてしまった穴は、再びその姿を現したのだ。
俺は穴の処理に困った。この穴には、いったい何が詰まっていただろうか。この穴を埋めるには、どうしたらいいのだろうか。
わからなかった。
わからないから、いつまでも穴を埋めることができずに、こうしてぼーっとするだけとなってしまっていた。
夏休みも始まってもう一週間になるだろうか。その間を俺はずっとただ不毛に過ごすのみとなってしまっていたのである。
あの時は――ヒマリが消えてしまった直後は、頑張らなきゃ立ち上がらなきゃと自分を奮い立たすことができていた。しかし、少し時間を置いてしまってから穴に向き合うと、その時とは違う気持ちが芽生えてきて……。どうしていいか分からなくなってしまったのだ。
「はあ……」
嫌なことを思い出した。俺の中の気分は一気に底辺まで落ち込んだ。
俺は腕を目の上に被せて、畳の中に沈んでいくようにして身体を預けた。
今日もこうして、ただ不毛に時間が過ぎていくのだろう。そう思っていた。
けれど、唐突に玄関のベルが鳴った。
――ピンポーン
「……誰か来る用事なんてあったか?」
誰かと約束をした覚えはないし、何かが届くという宛てはない。親戚からの暑中見舞いはもう届いたし、残暑見舞いには早すぎる。両親からの贈り物なのだとしたら、事前に連絡が来るはずだ。と、すると、セールスか何かだろう。
そういう結論に至った俺は、速やかに居留守を行うことにした。身体を起こすこともなく、眠りの中に落ちようとする。
だが、
――ピンポーン、ピンポーン
だれかは知らぬ客人はしつこかった。これではまともに眠れぬ。枕なしで横になっていたせいもあるが、俺は一瞬にして頭に血が上った。
しかし、我慢だ。我慢。
ここで玄関へ出て行けば、敵の思うつぼ。逆に言えば、出て行かないのが、こちらからの最大の防御であり攻撃となる。だから、我慢だ。
――ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン
が、がまん……。
――ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン――
「我慢できるか!!」
俺はちゃぶ台の上に置かれたスマートフォンを手に取ろうと起き上がる。警察に連絡しようと思ったのだ。
けれども、スマートフォンはちょうどバイブをしたところだった。誰かからメールが届いたようである。俺は警察へ連絡する前にそれを開いてみた。
「……沖野からか」
送り主は沖野未来。内容はこうだった。
From:沖野未来
件名:どうして
ねえ、家にいるんだよね。どうして出てきてくれないのかな? もしかしてお取込み中だった? 誰か来ているのかな?
ひょっとして女の子? まさか彼女じゃないよね。ねえ、川島くん。
今、最上くんが呼び鈴連打してるけど、どうしてまだ出てきてくれないのねえ川島くんねえってばほんとはいるんでしょねえでてきてよおねがいかわしまくんかわしまくんかわしまみつきくん
「こわっ!!」
最近の沖野の病みっぷりには余念がない。もはや怨念すら感じるほどだ。
ていうか……――
「――このベルはお前らの仕業か!」
しっかりと、清隆がベルを連打していることが書かれている。それを描写してメールを送ってきたということは、隣には沖野もいるのだろう。
俺は未だ鳴り止まぬベルを聞きながら、玄関へと駆け足で向かった。そして、横開きの戸をガラガラと開けたところで、驚いたような顔をする清隆とご対面した。
「うわっ! びっくりした! いきなり開けんなよな、光輝~」
ぶちり、と頭の血管が一本切れる音が聞こえた気がした。
――このあと無茶苦茶説教した。
◇2
居間の中は沈黙に支配されていた。
カタリ、カタリと時計の針が進む音が鮮明に聞こえる。そういえば、この前もこんなことがあったな、と思うと自然と笑みがこぼれた。
まあ、あの時とは立場が全くの逆なのだが……。
半そでのTシャツに七分丈のパンツを着た清隆。Tシャツには気持ちの悪い火星人のようなキャラクターがプリントされている。その隣には白いブラウスに黒いフレアシフォンスカートを着た沖野。
ふたりは、俺とちゃぶ台を挟んで正座していた。
つい今の今まで、インターフォンを連打していたことについて叱っていたのである。
暑い中声を張り上げたせいか、酷く喉が渇いた。俺は一旦台所へ行って、冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップをお盆に乗せて居間へと戻った。
「それで、今日はいったいなんで来たんだ? 何かする約束なんてしてなかっただろ?」
コップに麦茶を注いで清隆たちに渡しながら訊ねた。
すると清隆は説教が終わったことに喜びを感じたのか、調子に乗った笑みを浮かべて返した。
「なんでとは酷いぜ~。せっかくの友人の訪問なんだぜ?」
絶対にこいつは反省をしていない。そのことに俺の怒りの炎は再度その息を吹き返し始めた。
「せっかくの友人なんだ。せめて来る前に一報くらい入れて欲しかったな」
そう言って、力を込めてコップをちゃぶ台に置いて怒りを露わにすると、びくりと身体を震わせた二人が縮こまって改めて謝罪する。
「「……ごめんなさい」」
ちょっと脅かし過ぎたか、と反省した俺は声音を緩めて別の質問を投げかける。
「というか、バイトはいいのか、清隆? 沖野だって、長期休みはバイトやボランティアに勤しむと言っていただろ?」
沖野が顔を上げて答えようとする。
「だって今日は……」
しかし、これを清隆が急いだ様子で遮った。
「今日は休みにしてもらったんだよ! 光輝と遊びたくて!」
「俺と遊びたくて?」
それはまた妙な理由が飛び出したものだ。
清隆の何かしらの意図を読み取ったらしい沖野は、ぎこちない笑みを向けてきた。
「そ、そうなのっ。川島くんと遊びたかったの」
「そ、そうか……」
沖野にそう言われて喜ばない男はいないだろう。
ん? これは一般論であって、決して俺が喜んでいるとかそういうわけではない。
「今おもいっきり頬が緩んだぜ、光輝」
清隆の指摘で自分がどのような顔をしているのか気が付いた。とんでもなく恥ずかしい気持ちになったので、咳払いを一つして誤魔化す。
「も、もう家に来てしまったことは仕方ないな。それで、いったい何をして遊びたいんだ?」
俺の問いに、ふたりは顔を見合わせて考え込み始めた。
「考えてなかったんだな……」
仕方がない。かわりに俺が遊びを提案する必要があるようだ。
と、言っても、友達と家で遊ぶことなんて、中学校以来なかった。この歳になって、いったい何で遊ぶべきなのかが分からない。
ふとして、清隆の脇に置かれた黒いボストンバッグが目に入った。彼がいつも持ち歩いているそれは、今日に限ってパンパンに膨れていた。俺はそのバッグを指差して訊ねる。
「なあ、清隆。遊びたくて来たというなら、その中に入ってるんじゃないのか?」
「え……あ、こ、これはな、何でもない! 遊び道具はいっさい入ってないぜ!」
清隆は慌てたようにボストンバッグを自分の陰に隠した。明らかに怪しかったが、他人の持ち物について詮索するのはよくないと思って、これ以上は訊かなことにする。
俺は、子供の頃に何で遊んでいたかを思い起こした。
「とりあえず、家にあるゲームって言うと、オセロやチェス、人生ゲームだが」
俺がそう言うと、清隆が乗り気に反応してきた。
「人生ゲームいいなぁ! 人生ゲームやろうぜ!」
「いいね、人生ゲーム。久しぶり!」
どうやら沖野もそれで賛成のようだ。
確かに、オセロやチェスは二人しかできないが、人生ゲームなら三人でも遊ぶことができる。清隆にそんな配慮があったかは知らない。だが、俺は清隆の意見に賛成だった。
こうして、ひとまず俺たちは人生ゲームをして遊ぶこととなった。
二階の物置部屋からほこりをかぶっていた人生ゲームのボードを持ち出し、綺麗にしてからちゃぶ台の上に広げた。
どうやってやるんだっけな、と時々戸惑いながらも、それぞれの人形を一人ずつ乗せた車とお金を配り、ルーレットを回して順番を決める。
「お、まずはオレからだな~」
順番は、清隆 → 沖野 → 俺、というようになった。一番手となった清隆が意気揚々とルーレットを回す。
カラカラカラ~……カ
ルーレットが差した数字は『4』。
清隆が四個駒を進めると、そこをはじめとした何マスかはすべて同じ文面が綴られていた。彼はそれを読み上げる。
「え~っと、なになに……『進学するなら進学マスへ、就職するならば就職マスへ進む。』」
ここで就職すれば、すぐに給料をもらうことができるようになる。しかし、進学すれば、学費を払って、その上遠回りをすることになってしまう。それでも、清隆は迷うことなく進学マスへ駒を進めた。
俺は内心、やっぱりな、と思った。こいつは表面上からは分からないが、非常に現実的な思考回路をしている。目先の利益に捕らわれず、たとえ損をしてでも安全に安定したほうを選ぶのが最上清隆という人間なのだ。
次に続く沖野と俺は、進学選択のマスへ止まることなく就職の道を進んでいった。
そのせいか、序盤は静かだった清隆が、中盤に差し掛かると大富豪ルートまっしぐらとなっていた。株や土地を大量に保有し、資産は俺と沖野の合計よりも多く持っているという状況だ。
そんな時に沖野があるマスに止まった。彼女はそのマスの文面を読み上げる。
「『結婚をする。パートナーを乗せて、他のプレイヤーから結婚祝いを貰う』だって……」
これはラッキーなマスだ。結婚をすることにデメリットはほとんどない。子供が生まれるマスで子供を乗せることができるし、家族の数は最終的に財産として換算される。たとえ、家族の分だけ負債を追うマスに止まったとしても、総合してプラスになることは間違いない。
だが、どういうわけか沖野は浮かない表情をしていた。
「どうしたんだ、沖野?」
「うぅ……」
沖野は今にも泣きそうな顔で、なぜだか俺の駒を見つめていた。俺にはその行動のわけが理解できない。ともあれ、結婚のマスに止まってしまったのだから、パートナーを乗せなくては先へ進まない。
「ほい、沖野」
収納されていた男の人形を沖野に差し出すが、彼女はそれに目を向けても受け取ろうとはしなかった。そして、何をするのかと思いきや、
「……えい」
いきなり俺の車から人形を取り上げて、自分の車に乗せてしまった。おかげで、俺の車には誰も乗っていない。無人車となってしまった。
……本当に何がしたいんだ?
「おい、沖野?」
「さ、さあ! 結婚したよ? 次は川島くんの番だよ?」
「いや待てよ! 俺、今お前に拉致られたからな! もはや車単体で動くしかないだろ!」
「い、いいんじゃないかな、それでも」
「いや、よくないだろ! 車の人生を描くことになってしまうからな!」
「あ、で、でも、川島くん。人形ならその手に持ってるよ?」
「これはお前の車に乗せようとしていた物なんだが……」
……まあ、いい。人形はどれも同じだ。
俺は手に持っていた人形を自分の車に乗せ、清隆といっしょに結婚祝いを沖野に渡して再開した。ルーレットを回して駒を進めると、ちょうど沖野が止まっているマスと同じところに到着した。
「俺も結婚か」
俺は淡々と収納されていた女の人形を取り出していると、突然ガタンと低い音が聞こえた。音のした方に目を向けると、そこには倒れ込むようにして畳に手を突く沖野の姿があった。
「川島くんが……結婚……ッ!?」
「おーい。どうしたんだ、沖野……?」
沖野は畳と会話をするようにぶつぶつと呟く。
「川島くんが……川島くんが結婚……川島くんが結婚川島くんが川島くんが結婚……」
その顔は垂れ下がった髪に覆われて見えない。けれど、声音から察するに、酷く絶望感に打ちひしがれた表情をしているに違いない。
どうしたものかと清隆に目で助け舟を求めると、彼は楽しそうにへらへらと笑ってこう言った。
「あ~あ、沖野さん泣~かした」
ぴきり、と頭の血管が鳴いた。本日二本目である。
そのあとは、ひとまず清隆の頭に万力をかけてから、沖野が落ち着くまで待った。ゲームを再開するのにえらく時間がかかってしまったが仕方ない。
それから先の展開は、波乱だった。
綺麗に結婚のマスを避けて進んだ清隆が独身貴族を決め込んだおかげで、彼は単独トップの資産を誇っていた。……途中までは。
終盤に差し掛かろうかというところで、清隆が立て続けに損害を被るマスを踏んでしまったのである。株を手放し、土地を売り、財産を削り、気が付けば彼は借金を背負うまでになっていた。
本当に、人生とは何が起こるか分からないものだ。
最終的な結果はこうなった。沖野が一位で、俺が二位。ずっとかけ離れて清隆が最下位。
この結果が清隆にとって本当にならないことを、俺たちは切に願うばかりだった。




