その20 その日の駄々っ子
入れば一時間は長ッ尻をするお気に入りのベーカリーカフェを、昨日は十五分で出た。
限度を超える騒音に負けたのである。
騒音の主は、最初は見えなかった。
サルの群れ同士がけんかする時、ボス猿が出す叫び声に近い、キイィアアアーッという甲高い声が突然聞こえてきたのだ。
そのベーカリーカフェは雑居ビルの地下にあって、壁には囲まれておらずオープンエアになっており、ベーカリーの販売コーナーを正面に座れば右手は隣接する上品なスーパーが見えた。
このカフェはパンもほどほどにおいしく店員もみな気持ちよくにこやかで、閉所恐怖症のわたしにとっては一番苦手な閉塞感もなく、ここで本を読むとするすると頭に入るのだ。
けれど買ったばかりの本を二十ページ読んだところで、サルの絶叫もどきが始まった。
キイイアアアアアア、キイアアアアアーッという耳をつんざく叫び声に交じって、人間の泣き叫びのような声、そして泣きながら叫ぶ日本語らしきものが聞こえてきた。
どうもここからは見えないスーパーのレジ付近で騒ぎは起きているらしい。
……、買ってええ!キイィアアアアア!買って買って、……買ってえキイィアアアアア!ギャアアアアアアアッ!
おそらく生まれてこのかた私がこれまで聞いたどんな人間の叫び声をも凌駕するすさまじさだった。これだけ離れているのに、文字通り鼓膜がびりびり震えるのである。カフェにいるお客は驚いたように声の方向を見ながら、片手で耳を押さえたりしている。
わたしは残りのコーヒーを飲み干すと、トレイを棚に戻し、鞄を手に店を出た。
とにもかくにもその場から逃げたかったのと同時に、騒音源を確かめたかったのだ。
スーパーのレジが遠目に見える場所まで行ってみると、四、五歳ぐらいの髪の長い女の子がかわいい赤いリュックを背負って泣き叫んでいて、その目の前に若い母親がしゃがみこんでいた。
そこまで近づいてやっと、幼女が何を買ってと言っているのかわかった。
バナナ、バナナ買ってえ!バーナーナーあああああ!かってええええええっ!
……なんと、買ってほしかったのは「バナナ」だったのだ。
もうレジを済ませてスーパーから出た母親は、ベーカリーコーナーの前の空間で女の子に何事か言い聞かせている。が、小声なのでわからない。わかるのは、高そうなコートをお洒落に着込んでいることと、いたって冷静だということぐらいだ。
どうやらバナナはどうしても買えないらしい。それを言い聞かせると、女の子はひときわすさまじい声を上げた。ギャアアアアアアアアア、キヤアアアアアアアアッ!!
もう顔は般若のように固まっており、自分の叫び声で脳髄までしびれてしまったのか、母親の声も耳の届いていないようだ。狂気に見舞われて自我がすっ飛んでいる状態である。
オープンエアのカフェのお客はたまったものではない。会話のできる状態でも読書ができる状態でも、コーヒーが楽しめる状態でもない。けれど母親は慌てず騒がず、女の子が動く気配を見せるまで長期戦の構えだ。
……バナナぐらい、買ったらいいじゃない、高いもんじゃなし。
おそらく多くの客がそう思ったのではないだろうか。
わたしもそう思いかけた一人である。
家の中ならいざ知らず、ここは公の場、カフェと地続きだ。周りの迷惑を思えば、普段なら通さないこともここは通して、環境の平和を優先していただきたいものだ……が。
おそらく今までにいろいろないきさつがあったのだろう。
もう三日続けてバナナを買ったので家のバナナを食べてから、かもしれないし、女の子が偏食家でバナナがある限りそれしか食べないのかもしれない。買い物に行っても、バナナだけは買わない、と約束の上で出てきたのかもしれない。たかがバナナであっても、親としては決して譲れないものかもしれないのだ。
今度はしゃがみこんで不動の構えになり、キャアアアアアアアと頭のはじけそうな声を出し続ける女の子と辛抱強い母親に背を向け、わたしは階段へと歩を進めた。
奇妙なことにその時脳裏に浮かんだのは、あのフランスの風刺画問題だった。
アッラーの神を侮辱するような風刺画を載せたフランスの新聞社をイスラム過激派が襲い、近所の食料品店その他を合わせると十九人が犠牲になったというあの事件である。
当初は殺人という報復手段に欧州全体が怒り、なん百万という規模の抗議デモが起きたが、続いてまた同様の風刺画を同紙が載せたことで、意見は分かれ始めた。
表現の自由に、他民族が尊ぶ宗教や神に対する侮蔑は含まれるのだろうか? それは文化に対する冒涜であり、許されるものではないのでは?
そんなにしてまで風刺画を載せなければならないのだろうか。さらなる怒りと犠牲を生むことになるのは火を見るより明らかなのに。
なるほどそれはその通りだ。日本国内ではさらに、こちら寄りの意見が多いように思う。他民族の宗教を侮蔑し揶揄する方が悪いという考え方だ。
一見冷静で公平な正論である。けれど私はどうにも不思議だった。
風刺画という文化は日本にもあり、新聞の朝刊にもよく見られた。時の権力者や政治家、あるいは胡散臭い宗教指導者も俎上に乗せられ、面白おかしく書き立てられてきた。
そこでは、創価、オウム、幸福の科学、アメリカ大統領、ビンラディン、北の将軍様、他たいてい名のある指導者様たちが好き放題料理されていたけれど、いままで表だって「他人の信仰を漫画で侮辱するな!」「信仰崇拝しているほうの身にもなれ!」と指差して怒った例をあまり見たことがない。過去形でなく、今もそうである。
もしも先にあげた宗教団体が、その代表が、風刺画にぶちきれて殺人テロを国内で行ったなら。
果たして日本国民はそっちの方に同調したのだろうか?
今回に限って世間様がフランス紙を指さして怒っているのは、「とんでもない相手を激怒させたから」「後が大変なことになるのはわかりきっているから」に過ぎないのではないだろうか。
でないのなら、風刺画などというもの自体を廃止したらいいのである。風刺には必ず批判と皮肉と嘲笑が含まれるのだ、それも特定の民族や国、宗教団体が大事にしている信仰や人や神そのものを。相手によっては許していいなどと言っていいものではない。モラル的に認めてはいけないものはどこが対象でも認めてはいけないのではないか。
というのはあくまで「理屈で言えばそうあるべき」という視点から述べたことで、自分自身の中では結論は出ていない。ただ一つ思うのは、特定の宗教をバカにしてはいけない、ではなく、風刺画自体の是非を問わないと全ての揶揄がグレーゾーンになるということである。
いまのところ、世界中にある風刺画という表現手段そのものが「けしからん」と判断され禁止になったとは聞き及ばない。
で、フランスである。
風刺画の一つぐらい妥協して「わかった、この宗教についてだけは扱わない」という特例を作ったらいいじゃないか、それで平和が守られるのだから。という選択は、大声でわめいてたくさん人を殺せば特例が作れるのだ、ということにつながる。そう、フランスや諸外国は思っているのではないかと思う。
バナナぐらい買えばいいじゃないか、周り中が迷惑しているんだから。という考えは、母親にとっては、子どもが大声で泣き叫べば何でも手に入る、と女児におぼえさせることにつながる。
そういう意味合いで、なんとなく、わたしの頭の中では二つのまったく次元の違う出来事がつながってしまったのだった。
その夜、バナナをついに買ってもらえなかった女の子が深夜、鬼の形相でナイフを握りしめて両親の枕元に立つ悪夢に、わたしはうなされた。
ざまあみろ、と叫んではナイフを振り下ろす少女。何をするやめなさいと叫ぶ父親、飛び散る血しぶき。
反省すべきは誰なのか。バナナを買わなかった母親か、それとも……。