後編
明良湊。
これで「あきらみなと」と読む。
苗字を名前と間違われるのが目下の悩みだ。
別のクラスのそれほど親しくない人間は完全に俺の名前をあきらと認識している節がある。
まあ、名前として成立しているのでこれは些細な問題だ。
せっかくの日曜日なのに生憎と予定は空白。
友人を誘って遊びに行くという選択肢もあるが、今日は趣味に没頭しよう。この趣味は一人でないと楽しめないからな。
さーてと、今日はどんな格好がいいかな?
クローゼットの中にある服を次々に体にあてがいながら思案する。
三月でまだ肌寒いから少し厚めがいいか。
着る服が決まったら予め用意していたパットを装着する。厚手の服だが念の為。
更に化粧台からファンデーションやチーク、アイライナー等を取り出して身繕いを始める。
最後にウィッグと付けまつげを付けて完了。
壁に取り付けた縦ニメートルはある鏡の前で一回転。
よし。これでちょっとやそっとでは男とは分かるまい。日頃から無駄毛処理も完璧だしな。
「そんじゃ行くか」
テーブルの上に置いてあった携帯を手に取る。
携帯には何となく自作してみたテンナンショウという植物のストラップが付いている。
ちなみにこの携帯は普段も女装時も共用だ。
万全を期すなら二つあった方がいいのだが、学生の身だし、仮に女装中用に携帯を持ったとしても人に番号やアドレスを教えるつもりはないので一つで事足りる。
外に出て特に目的もなく街中を彷徨っていると、
「ん?」
前から無茶苦茶可愛い女の子が歩いてくる。
何というか、お淑やかで育ちの良さが外面にも現れた少女だった。うーん、出来るならお近付きになりたいものだ。
この時、不覚にも見惚れていたのが拙かった。
「きゃっ」
俺がボケっと突っ立っていた所に彼女がぶつかってきたのだ。
普通なら相手が気付いて回避するだろうが、向こうも何か注意が散漫だったようだ。
「すみません! 大丈夫ですか?」
「痛た……ええ、大丈夫よ。こっちこそぼさっとしてて……」
勿論、女装中に男言葉を使うというようなヘマはしない。
しかしこの辺りでは見た事のない娘だな。ありふれた景色を珍しそうに眺めていたし、よその人間か?
「ねえ、ここには旅行か何か?」
「いえ。最近越してきたんです」
引っ越しか。
見た所、年齢は同じ位だし、同じ学校だといいな。
「でも、どうして地元の人間じゃないって分かったんですか?」
「地元の人間はあんなにキョロキョロしないわよ」
理由を告げると納得したように頷いた。
くそ、仕草がいちいち可愛い。
「あなた、無茶苦茶可愛いわね」
……俺は何を口走っているんだ。
馬鹿か、俺の口。
「……え?」
ほら、相手も戸惑ってるし!
「ただの妄言よ。気にしないで」
「は、はい」
人間、初対面が重要なのに何をやってるんだ。
……ん、いや。今は女装中だ。
この状態で幾ら仲良くなっても意味はない。逆に言えばさっきまでの失敗もなしだ。
いけないいけない。判断能力が完全に抜け落ちている。
「それより引っ越してきたばかりならこの辺の地理は分からないでしょ? 案内してあげる」
……またしても口が勝手に動いた。
「いいんですか?」
「どうせ暇だったのよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「よろしい」
向こうが了承した以上、今から「やっぱりなしで」とは言えない。
とりあえず、生活に必要な食料品店や銀行、あとは娯楽施設の場所を教えておこう。
「私は小谷まりかっていうんだけど、あなたは?」
「紘嘉文緒です」
文緒ちゃんか。
いい名前だ。
……それから街の中を案内したが、テンパってたのでよく覚えていない。
「くはっ」
アパートに帰ると浴槽に水を貯めて飛び込む。
頭打った。
「何やってんだろ、俺」
風呂から上がった後、喉飴をなめながら頭を抱える。
可愛い女の子を前にして我を忘れて妄言を発したり連れ回したり。
後先考えずに行動するのはよくある事だが、今日はその中でも格段だ。
そして自分はその行動を後悔しながらもそれほど悪い気分ではない。
つまり過程は問題視しつつ、結果には満足しているという事だ。
「これはやはりあれか? あれなのか?」
文緒ちゃんの事を思い出すと顔が熱くなって世界がぐるぐる回るような錯覚に襲われる。やっぱりあれか?
話では知っていても実際に体験した事がないから何とも言えないが、多分あれだ。
「……さてと」
あれからしばらく唸っていたが、部屋の中にいても考えが纏まらず、近所の公園まで出てきてしまった。
目的はないが、歩いているだけで気が紛れるので公園内をぶらぶらしていると、
「離してください!」
叫び声が聞こえた。声のした方向には柄の良くない男と女の子がいた。
ここからでは男の体に隠れて女の子はよく見えないが、嫌がるのを無理矢理引き留めているようだ。
今時いるんだなぁ、と思った時には足が動いていた。
その間にも強引に掴まれた紐が千切れて女の子のポシェットが地面に落下し、口が開いていたのか中の物が散乱してしまう。
「あー! こんなとこにいた!」
野郎と女の子に聞こえるように大声で叫びながら彼等の間に割って入る。
「勝手に出歩くなって言ったろ。ああもう、何やってんだよ」
素早くしゃがみ込んで散らばった中身をポシェットにかき込み、立ち上がって女の子の手を引く。
「おい、なんだてめえは!」
そのまま公園の出口に向かおうとしたが、後ろから肩を掴まれる。
間髪を入れずに言葉を並べて自分のペースにしようとした計画は失敗だった。
こうなるとちょっと荒っぽくなるが仕方ない。
振り向きざまに爪先で野郎の脛に蹴りを入れる。
そんなに力を入れたつもりはなかったが、弁慶でも泣きだす部分だけに野郎は悶絶した。
「走るぞ」
「は、はい」
時間稼ぎにしかならないのでさっさと撤退する。
それから数分ほど走り続け、追い掛けられていないのを確認して速度を落とす。
ようやく助けた女の子の顔を落ち着いて見る事が出来た。が、
「あれ」
文緒ちゃんでした。あれー……
「……」
「……」
不意に訪れる静寂。
変な奴だと思われる前に何か言わないと。
「その、なんだ。怪我は?」
「大丈夫です。ありがとうございました」
文緒ちゃんはぺこりとお辞儀をする。
しっかりと礼が出来る良い娘だな。
だが、拙い。顔が赤くなりそうなのが自分で分かる。今の状態で失敗をする訳にはいかないから長居は出来ない。
「ならいい。ああいうのは滅多にいないが注意した方がいい」
そう言って逃げるように背を向ける。
「あの、是非ともお名前を……」
「……明良、明良湊だ」
問いかけに反射的に答え、小走りになる。
しばらく走った後、小腹がへったので近くにあったハンバーガーショップで腹を満たす。
そして再び街中を散策。考えるのは文緒ちゃんの事だ。
「……」
手にはまだ文緒ちゃんの手の感触が残っていた。
更に、
「女の子って、良い匂いするなぁ……」
自然と顔がにやけてしまうが、周囲の視線に気づいて慌てて表情を矯正する。
「しかし……」
気になる事が一つ。
それはポシェットの中身を回収している時に見たフォトケース。
そこには一人の男の写真が入っていた。
「誰なんだろうな、あの男」
ポシェットに入れていたという事は彼女にとって大事な人なのだろう。
俺が知らないアイドルとかなら良いんだが、
「彼氏だったらやだな」
よく考えればあれだけ可愛いのだから彼氏の一人や二人いてもおかしくない。
「美形だったしな」
うーん。
どうしたものかと頭を悩ませる。俺の恋は始まりもせずに終わってしまうのだろうか。
「ああ、でも、引っ越す時に別れたのかもしれないな」
淡い希望を抱くが、それが希望的観測だという事は自覚していた。
「本当、どうしよう」
途中、喉が渇いたので自販機で飲み物を購入。
喉を潤しつつ苦悩していると、
「あの、すみません」
背後から声をかけられて振り向くと、今の今まで頭に思い浮かべていた男の顔がそこにはあった。
何故こいつがここにいる!
「携帯電話、落としましたよ」
そう言って男は携帯を差し出す。
……えっ。慌ててジャケットをまさぐるが、確かに携帯がない。そもそもテンナンショウのストラップが付いている携帯なんて俺のやつくらいだろう。
よく見れば、男は軽く息を切らし、顔を赤くしている。走って追いかけてくれたのか。
「悪いな」
「いや、当然の事をしたまでですよ」
良い奴だなぁ、こいつ。
……ここで文緒ちゃんとの関係を聞いてみるか? だが、肯定されたらどうしよう。
気まずいぜ。向こうが事情を何も知らないからなおさらだ。
「んー、じゃあちょっと用事があるんで失礼する」
「ええ。縁があったらまたどこかで」
居心地が悪かったので強制的に話を切り上げてその場から離脱する。
「何だか今日は調子が狂う事ばっかりだ」
あー、駄目だ。こういう時は女装に限る。
思い立ったらすぐ行動。
アパートに戻って衣装を用意する。
二回目の化粧などが面倒だったが、いざ女装してみると心が落ち着く。
そのまま街に出てぶらぶらしていると、歩道の先にさっきの男と老婆がいた。
男の方は両手に風呂敷包みを下げているが、なんか、ふらついてないか?
危なっかしくて見ていられない。
「感心ね」
「え?」
「片方持つわ」
「あ、ありがとうございます」
半ば強引に奪い取る。
あれ、これ結構重いぞ。何が入ってるんだろう?
「で、どこまで?」
「バス停だそうです。この先の」
そりゃこの先にバス停はある。ただし大量に。まあ、老婆が知ってるだろうから問題ないか。
しかし、この男もこの辺には不慣れなのか?
……やっぱり文緒ちゃんと同郷?
それからバス停までの数百メートルを特に会話もなく歩く。
間に老婆がいたというのもあったが、俺は勢いで行動したので何も考えていなかった。
向こうからすれば初対面なので会話の糸口が見つけられなかったのだろう。
「お陰様で助かりました」
老婆は何度もお辞儀してからバスに乗っていった。
いやぁ、善行をすると気持ちいいな。
「ありがとうございます」
良い気分に浸っていると突然男に頭を下げられた。
なんなんだ。
「どうしたの?」
「荷物を持ってもらってのでお礼を」
なんだろう、こいつ。馬鹿真面目だな。
「私が勝手にやった事よ。礼ならお婆ちゃんにもらったからそれで十分だったのに」
だというのに、
「あの荷物、結構重かったですよね。多分一人だったらここまで持ってくるのも一苦労だったと思います」
確かに重かった。けど、やっぱり感謝されるのは何か違う。
ただそれを言っても向こうは聞かないような気がする。
なら釈然としないが礼を受け取っておこう。
「どういたしまして」
そう言うと男は安堵したように表情を綻ばせた。
……っ。
何故かその顔にどきりとしてしまった。馬鹿な、俺にそっちの気はない、筈だ。
降って湧いた疑惑に内心で焦っていると、胸の辺りが振動した。この振動パターンはメールか。緊急性はないだろけど確認だけはしておこう。疑惑からも目を逸らしたい。
「ごめんなさいね」
いそいそと携帯を取り出してメールのチェック。思った通り内容は重要な事じゃない。
さっさと受信確認のメールを返信。
そして顔を上げると、男が真っ青な顔をして突っ立っていた。
どうしたんだろう。風邪か?
「顔色悪いけど大丈夫?」
「……大丈夫です」
本人はそう言うが、あまり大丈夫そうには見えない。
もっとも、自分だって初対面の相手に素直に自身の体調不良を伝えるか疑問だが。
「その、あなたは……」
何かを言いかけて途中で口ごもる。
何だろう。もしかして名前でも聞きたいのかな?
「私は小谷まりかよ」
「あ、その……裕熙史郎です」
男は名乗ったが、口調には戸惑いが混じっていた。
聞きたいのは名前じゃなかったのか?
内心で首を傾げるが、流石にこちらから聞く訳にもいかない。
「……」
「……」
言う気はないらしい。
ひょっとしたら大した事じゃなかったのかもな。実は俺が身構えてるから困っているのかもしれない。
そう思考を巡らせていると、
「……では、失礼します」
「気を付けてね。無理しないで」
「お気遣い感謝します」
何か、言葉の節々から早く立ち去りたい意思を感じた。
引っ掛かるものがあったが、体調が悪くてさっさと帰りたかったのかもしれないし、引き留める理由もないので大人しく見送る。
さて。俺も帰るか。
帰宅するとウィッグを脱ぎ捨てて化粧と口紅を拭き取り、ベッドに倒れ込む。
結局、あの裕熙史郎って奴、文緒ちゃんとはどういう関係なんだろうか。
やはり名乗ったついでに彼女の有無を確認するべきだったかもしれないが、怖くて出来なかった。俺の意気地無し。
「裕熙史郎、か」
判断材料は少ないが、そのどれもが奴を好人物だと言っている。
悔しいが、人間性を比較すれば向こうが上だろう。
もし文緒ちゃんと付き合っているとしたら俺はどうするべきだろう? 普通なら祝福すべきだろう。
けれど諦めきれない。だが競い合って振り向かせるのは難しい。
そして今諦めれば傷は浅い。
それにしても裕熙もちょっと良い匂いしたな。……ヤバい。自分で気付かなかっただけで本当にそっちの気でもあったんだろうか。いっそ二人とも……
……駄目だ。
思考が滅茶苦茶になってきた。
もう寝よう! 考えるのは明日以降!
布団を引っ被り、程なく訪れた睡魔に身を任せる。




