第50話
蒸し暑い夏の夜風が吹き込む、7月中旬の放課後。
誰もいなくなった地下の『3年F組』の教室で、俺、坂本エルロンドは白褌一枚の姿で教卓に陣取り、血眼になって極小の機械部品と睨み合っていた。
前日、校門脇に捨てられていた子パグの腹から摘出した『魔力圧縮爆弾』のテストサンプル。俺は極東の『氣』を指先に込め、カルロスが仕組んだ起爆術式の構造をミリ単位で逆算・解析し、学園に迫る本命のテロを阻止する糸口を必死に探っていた。
「フゴッ……フゴッ……」
俺の足元では、腹部の切開創を包帯でぐるぐる巻きにされた小さな銀灰色のパグ――『ペス』が、荒い息を吐きながら丸まっていた。
テロリストの実験台にされ、腹を割かれた小さな生存者。
「すまねえな、ペス。もう少しの辛抱だ。俺が必ず、カルロスの本命の爆弾を叩き潰してやるからな」
俺はペスの頭を撫でながら、爆弾のコアへ意識を集中させた。
――その時だった。
「……坂本、先生」
背後から、蚊の鳴くような、ひどく掠れた声が響いた。
振り返ると、教室の隅の暗がりに、男子生徒のケイタロウがぽつんと立っていた。
いや、「立っている」という表現は正確ではない。彼の身体の輪郭は陽炎のようにブレて、後ろの黒板が透けて見えていた。
「ケイタロウ! お前、帰っていなかったのか! その身体は……!」
「僕……今日、家に帰りたくないんです」
ケイタロウの特異体質『存在消失の呪詛』。
極度の孤独と自己否定に陥った時、彼は周囲の魔力を巻き込みながら、自らの存在確率を物理的に世界から消し去ってしまう。放置すれば、彼自身が完全に「無」となり、周囲の空間ごと不可逆の消滅を引き起こす極めて危険なバケモノ。
その呪いが今、暴走の臨界点に達しようとしていた。
「家の中に、僕の居場所なんてどこにもないんです」
透けゆく身体のまま、ケイタロウが虚ろな瞳で呟く。
「父さんも母さんも、優秀な兄さんのことしか見てない。僕はいつも透明人間みたいに扱われて……。学校でも、家でも、僕が何を考えているのか、誰も聞いてくれない……っ」
ケイタロウの足元から、床のタイルが音もなく消滅していく。
「家に帰って透明人間になるくらいなら……このまま本当に、世界から消えてしまいたいんだよぉぉぉっ!!」
少年の悲痛な叫びとともに、呪詛が爆発的に膨張し、ケイタロウの姿が完全に空間から消失した。視覚も、魔力探知も、すべてが彼を見失う。
「ケイタロウッ!!」
俺が手を伸ばした瞬間。
「ワンッ!! フゴォォォッ!!」
足元のペスが、腹の痛みを堪えながら猛然と立ち上がり、何もない空虚な空間に向かって激しく吠えたてた。
魔力は消せても、生き物としての「匂い」と「微かな熱」は、動物の生存本能(嗅覚)を誤魔化せない。
「そこかッ!!」
ペスの吠えた方角へ向け、俺は丹田から極限まで練り上げた『氣』を、目に見えないケイタロウの気配へ向けて叩きつけた。
ドゴォォォォンッ!!
極東の武術による圧倒的な「質量の圧力」。
魔力という幻影を、生身の肉体の重力がへし折る。空間がガラスのようにひび割れ、悲鳴とともにケイタロウの実体が床に叩きつけられた。
「うあぁぁっ……! なんで……なんで止めるんですか! 消してよ……僕を消してよッ!」
「バカヤローッ!!」
俺の雷鳴のような咆哮が、地下教室の空気を激震させた。
俺は床に倒れ込むケイタロウの胸ぐらを、白褌の太い腕でガシッと力強く掴み上げ、その透けかけた身体に強引に『命の熱』を流し込んだ。
「親が見てくれないから消えるだと!? ふざけるな! 透明人間に扱われたなら、てめえのその重い肉体で、親の視界を物理的にこじ開けろッ!!」
俺は自らの分厚い胸を、ドスンと叩き鳴らした。
「見てほしけりゃ、叫べ! 泣け! 足掻け! 自分がここに生きているという事実を、親の顔面に叩きつけてこい! 逃げて消えるような真似を、この坂本エルロンドが許すと思うかッ!!」
圧倒的な質量。逃げ場を許さない、真実の生への執着。
「見ろ、ケイタロウ!」
俺は足元で必死に吠え続けるペスを指差した。
「この小さな命はな、テロリストに腹を割かれ、使い捨ての爆弾にされても……こうして傷だらけで吠え、必死に生きようとしているんだぞ! 五体満足のお前が、たかが親に無視されたくらいで、自分の命をドブに捨てるなァァァッ!!」
言葉ではなく、腹に包帯を巻いた小さな命の激しい咆哮が、ケイタロウの鼓膜と魂を強く打った。
ペスがケイタロウの足元に駆け寄り、その冷え切った震える手を、温かい舌で必死に舐め上げる。
「あ……あぁ……っ」
圧倒的な生身の熱と、決して消えることのない命の重さ。
ケイタロウの身体から、存在消失の呪詛が霧散していく。
「先生……っ! ペス……っ! 僕……本当は……消えたくない……! 僕を見てほしいんだよぉぉぉっ!!」
ケイタロウは俺の白褌の腕の中で、ペスを抱き締め、ついに声を上げて大泣きした。
小一時間後。
涙を拭い、確かな「質量」を取り戻したケイタロウが、しっかりと地面を踏み締めて教室の扉の前に立っていた。
「……坂本先生。ペス。僕、帰ります」
少年の瞳には、もう逃避の影は微塵もなかった。
「透明人間にはならない。僕がここにいるってこと……親父と母さんに、正面から言ってくるよ」
「おう! 胸を張って、てめえの足音を響かせて帰れ!」
ケイタロウは深く頭を下げると、力強い足取りで夜の学園を後にし、家庭という戦場へ自らの足で突撃していった。
「フゴッ……フゴッ」
俺は膝元のペスの頭を優しく撫でながら、再び机の上の『魔力圧縮爆弾』のコアへと鋭い視線を戻した。
「ふっ……自分の存在を懸けて戦う男の背中は、重くてデカいな」
生徒が己の戦場へ向かったのなら、教師もまた、己の死地へ向かわねばならない。
ペスの腹を割いたカルロスの凶行。学園を巻き込む大テロルへのカウントダウンは、いよいよ最後の秒針を刻み始めていた。




