1話
バスの中は、遠足へ向かうみたいに騒がしかった。
野外実習は遊びじゃないぞ、と出発前に教師が言っていたが、誰も気にしていない。前後の座席を挟んで菓子が飛び交い、通路の向こうではスマートフォンを囲んで笑い声が上がっている。
日向湊は窓の外を見ていた。
別に景色を眺めたいわけではなかった。身体を窓側へ寄せ、できるだけ小さくしていれば、目立たずにいられるからだ。
後頭部に、靴のつま先が当たった。
軽く、二回。
「おい」
聞こえないふりをする。
もう一度、今度は少し強く蹴られた。
「聞こえてんだろ」
仕方なく振り返る。
竜崎が、座席の背もたれへ片足を載せていた。隙間からいやらしい笑顔が見え隠れする。その隣と、さらに後ろに、いつもの取り巻きの顔もある。
「着いたら、俺らの荷物も持てよ」
「……うん」
「あ?」
「分かった」
答えると、竜崎は満足したように背もたれから足を下ろした。
周囲には当然聞こえているはずだ。
すぐ近くで話していた生徒たちは、誰もこちらを見ようとしない。笑い声だけが途切れ、湊が前へ向き直ると、何事もなかったように喧騒が戻ってくる。
窓へ額を寄せる。
ガラスが冷たい。
野外実習が終わるまで、あとどれだけ耐えればいいのだろう。
まだ目的地についてもないのに、頭の中ではそんなことばかり考えていた。
その時、バスが大きく揺れた。
最初は道路の段差だと思った。
二度目の揺れで、窓の外の景色が横へ流れた。
前方で運転手が何か叫ぶ。
甲高いブレーキ音が車内に響き渡り、座席の上に置かれていた荷物が一斉に宙へ浮く。
誰かの身体が通路へ投げ出された。
悲鳴。
窓ガラスの割れる音。
バスが傾き、床だった場所が壁になった。
座席へ肩を強く打ちつけ、その反動で頭が左右に揺れる。目の前が白く染まって、何も見えなくなった。
これ、死ぬんだ。
そう思った。
直後に、意識が途切れた。
後頭部に、靴のつま先が当たった。
軽く、二回。
「おい」
上から聞き覚えのある声が聞こえた。
「いつまで寝てんだよ」
目を開ける。
最初に見えたのは、汚れた靴底だった。
一帯に白い霧が漂っている。
頬に触れているのはバスの床ではなく、冷たく湿った地面だった。
「起きろって」
つま先が頭を小突く。
湊は両手をつき、身体を起こした。
頭が重い。視界が揺れている。
所々に鈍い痛みがあった。けれど、あの事故の後とは思えないほどに外傷はない。
制服も泥で汚れてはいるが、破れたりはしていなかった。
周囲を確かめようとしたが、何も見えなかった。数歩先から向こうは、濃い霧に包まれている。
乗っていたバスも、通ってきた道も、窓から見た山も、何もない。
目の前にいるのは、後ろの席にいた竜崎と取り巻きの生徒たちだけだった。
「バスは?」
「知らねえよ」
「ほかのみんなは」
「それを今から探すんだろうが」
竜崎が苛立った声で答えた。
その顔には、わずかに怯えが浮かんでいた。
取り巻きの生徒もさっきまでの威勢の良さはなく、怯えた様子で霧の奥を窺っている。
誰も竜崎より前には出ようとしない。
「お前、先行け」
突然、竜崎にそう言われた。
「え?」
「何かあったら、先に分かるだろ」
霧の中を指さされる。
何があるのか分からない。道が続いているのかも、足元が安全なのかも見えなかった。
湊が動けずにいると、竜崎が背後へ回った。
「早く行けって」
尻を蹴られ、よろめきながら一歩進む。
霧は、その先の全てを塗りつぶしているかのようだった。
足元だけを見て進む。
湿った土。小石。見たことのない形の草。
車の音は聞こえない。
風もない。
聞こえるのは、自分たちの足音だけだった。
湊が足を止めると、竜崎たちの足も止まる。
「止まんなよ」
そう言われて、また背後から蹴られる。
「でも、足元が見えな──」
「知らねえよ。だからお前が見てこいって言ってんだろ」
二度目の蹴りで、身体が大きく前へ流れた。
そのせいで、霧の向こうから現れた人影を避けることができなかった。肩からぶつかり、反動で尻餅をつく。
「ご、ごめんなさ……い」
慌てて顔を上げる。
立っていたのは、同じ年頃の少年だった。
まともにぶつかったはずなのに、少年はよろめいてすらいなかった。
転んで尻を打った湊の顔を不思議そうに覗き込んでくる。
少年は怒るどころか、人懐っこい笑顔で言った。
「おう、生存者発見!」
遭難者を見つけたような言い方だった。
差し出された手をつかむと、軽く引かれただけで身体が浮いた。
少年は湊を立たせると、そのまま何事もなかったように尋ねてきた。
「ここどこか分かる?」
「いや……あの、僕たちも気づいたら、ここにいて……」
「あー、やっぱそうかー。ほかに何か見た?」
「おい」
会話に竜崎が割って入ってきた。
けれど相手にする様子はない。返事をするつもりはないのだろう。
顔も湊の方を向いたままだ。
竜崎が、肩を怒らせて近づいてくる。
「なにシカトしてんだ? 誰だよ、テメー」
それでも少年は竜崎を見なかった。構わずに会話を続けようとする。
「バスに乗ってたんしょ? 何人くらいいた?」
「えっと──」
「おい、聞いてんのか!」
竜崎が腕を伸ばした。
少年の肩をつかもうとしたのだと思う。
笑顔が消えた。
すっと片手を伸ばし、竜崎の顔を正面からつかんだ。
「え」
竜崎がなにかを発する間もなく、次の瞬間には身体が地面へ叩きつけられていた。
鈍い音が鳴る。
取り巻きたちは息を呑み、誰も動こうとはしなかった。
少年は、倒れた竜崎を見ることも、何か言うこともなかった。邪魔な物をただ払い退けただけ。そんなためらいのない動き。
「だ、大丈夫?」
考えるより先に、湊は倒れた竜崎へ駆け寄っていた。
だが、伸ばした手は強く弾かれる。
「触んな!」
竜崎は打ち付けた顔を押さえながら腰を浮かせて、再び少年へつかみかかろうとした。
その時、竜崎の背後の霧が僅かに揺れた。
中から湊が見上げるほどの巨漢の男が出てきた。
気配に気づいた竜崎が振り返るより早く、男はその背中へ手を置いた。
そのまま上から押し潰し、地面へ伏せさせた。
「ぐえっ」
竜崎に抵抗させる間も与えず、ベンチにでも座るかのように腰を下ろした。
手足をばたつかせて暴れるが、びくともしない。
この男も竜崎には興味を示さないようで、すぐに少年を見る。
「おい。勝手に行くなって言われてたろう。野地さん、探してたぞ」
「あー? 心配しなくても大丈夫って言ってんのに」
「そっちの心配じゃねーだろう。案の定、揉めやがって」
少年は一瞬きょとんとしてから、吹き出した。
「うはっ。乗ってるやつがそれ言う?」
「問題あるか?」
「いや、全然」
男の下で、竜崎が何か喚いていた。
やっぱり二人とも相手にしなかった。
取り巻きたちは竜崎を助けることも逃げることもできずに、少し離れたところで固まっていた。
湊だけがどうしていいか分からず、その場に立ち尽くしていた。
ただ、二人はそれを気にする様子もなく、まるで近所のコンビニでたむろするかのような気安さで話を続けていた。
少しして、霧の奥から大勢の足音が近づいてきた。一人や二人ではない。金属の触れ合う乾いた音と低い笑い声が混じっていた。
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