最終章 2
が、歴戦のアッシュにはそれすらも通じなかった。
40の突きは、アッシュの体をひねった抜きざまの剣で、その刃が届く前に受け流されてしまった。
40は体勢を崩し、前のめりに倒れ込んだ。振り返ったときにはアッシュの剣が、40に向かって高くかかげられていた。40は死を覚悟しながらも諦めなかった。
足の一本くらい、くれてやる。
その時だった。40は己の体に変化を感じた。
40はシーフとして馬鹿げた動きー何もない左手をアッシュに向かって差し出した。
その手の平から突然、決して外れることのない魔法の矢が現れた。
アッシュは剣を振り下ろすよりも早くその矢を受けて、よろめいた。
40はその隙に体勢を立て直し、間合いを取ると次の瞬間にはティスの魔法の灯りを打ち消し、ランタンの灯りだけの薄暗く、影が支配する場に変えた。アッシュが突然の闇に身を固くするわずかな間に、無音の空間をまで作り出した。シーフでは考えられない魔法の術の連続だった。自身が驚くほど40の体は次々と手をうち、この場を自分の有利に変えてしまった。
しかしアッシュも、そこで怯むような事はなかった。戦闘は一瞬こそが命である。次の瞬間には体を立て直し迫り来る40の短剣に対した。
無音の空間の中で、剣と剣が幾度も交差した。
影を利用しての奇襲を得意とするシーフ。
いかなる条件においても、正面から戦うことを本分とする戦士。
影に姿を隠し、死角から仕掛けられても、アッシュは40の短剣を的確にさばいた。重装備であればやられていたかも知れない。しかし軽装による戦いを続け、感覚を磨き続けたことによってアッシュは暗闇でも40の気配、殺気が分かったのだ。
一方40もアッシュからの反撃をかわし、時に受け、戦った。
シーフと戦士が正面から戦うなど、結果は目に見えている。しかし、今の40はその戦士たるアッシュと互角に戦っていた。いかに40に有利な状況とは言え、アッシュと対等に剣を交え続けるなど通常では考えられない事だった。
その無音の中で繰り広げられる戦いは、人を癒やし仲間を生きて帰すことが本分のティスにとって、心臓を握りつぶされるようであった。
二人が間一髪の所で受け、かわす度にティスは血の気が引いた。出来るものならば、いかなる法術を使ってでも二人の戦いを止めたかった。が、無音の空間の中で詠唱を断たれ、治療どころか為す術すら全くなかった。
否。それ以上にティスは、己を保つだけで精一杯であったのだ。それは奥に見えるアーベルの影響かも知れなかった。己の中にある血が次第に強く目覚めていくのを、ティスは歯がみする思いで感じていた。
私も、ここまでか。
ティスは覚悟を決めた。その時、唐突にティスは理解した。
アーベルの滴を体内に取り入れた者は、アーベルに体を侵されアーベルとして生きるようになる。それ故に狂気に走る。狂気に入られた者はすでに人ではない。人でない以上、狂気から元に戻る術はない。それは人の死を意味する。自分のような稀な例でさえ、ここまでなのだ。
戻る道はなかったーそれがさだめであったのだ。
それでもティスは後悔しなかった。イーメルが与えてくれた命を無駄にしない道が、まだあった。
震える手足を、湧き上がる血を押さえつけ、ティスは耐えてその時を待った。それは決して望んだ時ではなかったが、必ず迎える時であった。
剣と剣がぶつかり合う光と光の交錯は、それ以上長くは続かなかった。
40は再び影を利用してアッシュの死角に入った。そして一瞬の隙を逃さず、その小さな体をさらに小さく丸めアッシュの盾の陰から胸当ての小さな隙間ー心臓目がけて短剣を突き出した。
気配を感じ取っていなければやられていた。しかしアッシュは見るよりも早く体を入れかえ、逆にその足下に向かって大きく薙いだ。
剣風さえ聞こえてきそうな刃筋を間一髪で見切り、40は再びアッシュの死角に回り込もうとした。
だが、体はそうは動かなかった。
アッシュの薙いだ剣がアーベルに向かっていたのだ。
40は反射的にアーベルに向かって飛び出していた。
あまりにも無防備な瞬間であった。
アッシュの剣はその勢いのまま40の脇腹を深く切り裂いた。
沈黙が破られ、血しぶきが飛び散り、40の体はアーベルの反対へと飛ばされた。
アッシュは剣を下ろし、40を見た。
裂けた皮鎧を赤黒く染め、40の脇腹からどくりどくりと血があふれ出ていた。
二人の目が合った。
40のかすれた息使い、押さえきれぬ傷口から止めどもなく流れる血。アッシュの一閃は40の致命傷となり、その生命は、まさに尽きんとしていた。
だが、40はアッシュから目を離すと、片手で脇腹を押さえ、残る片手で這い、アーベルに向かった。
その信念のため、幾度仲間から外され、「匠」などと裏で蔑まされてきたことか。それでもなお、その生き方を変えなかった40をありのままに認めたのがアッシュであった。
そのアッシュと対立しても、40は信念を変えなかった。
アーベルを諦めることは、たやすかった。アッシュ、ティスの言に従い命を長らえることも出来た。だがそうまでして生きて何になるのか。生き延びることが目的ならば、はじめからこの道は取らなかったのだ。
近付く40にアッシュは、黙然と剣を振りかぶった。
40の動きは止まらない。残るわずかな力全てをアーベルに向けていた。
これほどまでの執念を見せ、死を前にしてすら諦めぬ者を、誰が言葉などで止められるというのか。しかもそれを止めるということは、そのまま死を与えるということなのだ。