第一話 互いに望み、夫婦の契りを交わすまで、この扉は開かず
「単刀直入に言う。俺には本命がいる。だから――白い結婚にしたい」
大聖堂の控えの間で、王太子アルベリク・フォン・ラインヴァルトは、婚礼衣装に身を包んだまま、隣国から嫁いできた王女フィーネに告げた。
遠くで祝福の鐘が鳴っている。
扉の向こうでは、二人の婚礼を祝うために集まった貴族たちが、今か今かと入場を待っていた。
フィーネは手にした扇を持ち上げ、唇を隠した。
故国を発つ前から、愛のある結婚など期待していなかった。
これは両国の和平を盤石にするための政略結婚。王女として生まれた以上、自分の気持ちより国益を優先する覚悟はできている。
けれど、婚礼の直前に告げられて、何も思わないわけではない。
「承知いたしました。ただ、このような大切なお話は、わたくしが国境を越える前に伺いたかったですわ」
アルベリクの眉がわずかに動いた。
「……その通りだ。すまない。今日まで二人きりで話す機会を作れなかったとはいえ、俺の都合でお前を巻き込んだことに変わりはない」
「お相手は、どなたでしょう」
「ロゼリンド・オルブライト伯爵令嬢。幼い頃から親しくしてきた女性だ。正式な婚約を結んだことはないが、いずれ彼女を妻にしたいと考えていた」
「ロゼリンド様も、そのおつもりで?」
「ああ。今回の婚姻が決まったあとも、必ず迎えると伝えた」
つまり、フィーネを形だけの妻に据え、両国の関係が落ち着いたところで婚姻を解消するつもりなのだろう。
随分と身勝手な話だ。
けれど、今さら故国へ引き返せば、和平そのものが崩れかねない。怒りに任せて拒絶できる立場ではなかった。
「離縁後の生活については、責任を持って保障する。王都か故国、どちらに住むかもお前が選んでいい。今回の婚姻が解消された責任を、お前に負わせるつもりもない」
「書面にしていただけますか」
「もちろんだ」
「でしたら、異存はございません。政略結婚ですもの。お互い、望まぬ相手と無理に夫婦になる必要はないでしょう」
フィーネが微笑むと、アルベリクは安堵するどころか、気まずそうに目を伏せた。
「……お前は、もっと怒っていいと思う」
「怒れば、何か変わりますか?」
「いや」
「でしたら、笑っていた方が、婚礼衣装がきれいに見えますわ」
扉の外から、侍女が入場の時刻を告げる。
フィーネは扇を閉じ、アルベリクへ手を差し出した。
「参りましょう、殿下。少なくとも今日一日は、仲睦まじい夫婦に見せなければなりません」
アルベリクはしばらく、その手を見つめていた。
やがて白い手袋に包まれたフィーネの手を取り、低い声で応じる。
「ああ。お前の名誉は、必ず守る」
こうして二人は、誰よりも冷静に白い結婚へ合意した。
まさか、その日のうちに計画が破綻するとは、フィーネは想像もしていなかった。
婚礼の宴が終わると、二人は古くからの慣例に従い、王宮の西棟にある初夜の間へ案内された。
天蓋付きの大きな寝台には、白い花弁が散らされている。
壁際の卓上には葡萄酒と果物が用意され、暖炉では薪がぱちぱちと音を立てていた。
侍女たちがフィーネの外套を脱がせ、最後に侍従長が深々と頭を下げる。
「それでは殿下、妃殿下。どうぞ、よき夜をお過ごしくださいませ」
分厚い扉が閉じられた。
直後、扉の表面に刻まれた魔法陣が淡い光を放つ。金属が重なり合う音が壁の内側から幾重にも響き、取っ手の周囲を青い光が覆った。
フィーネとアルベリクは顔を見合わせた。
「……今、鍵がかかりましたか?」
「ああ」
アルベリクが扉へ歩み寄り、取っ手を引く。
青白い火花が散り、彼の手が弾かれた。
「殿下!」
「大丈夫だ」
アルベリクの手袋には焦げ跡が残っている。
彼が再び取っ手へ触れようとすると、扉の向こうから侍従長の声が届いた。
「殿下、お手を触れられませんように。その扉は、古の誓約魔法によって閉ざされております」
「今すぐ解除しろ」
「私どもには解除できません」
「ならば、魔術師を呼べ」
「この部屋の魔法は、王家の婚礼に用いられるもの。宮廷魔術師であっても干渉できないと伝えられております」
「伝えられている、だと?」
「何しろ、実際に使用されるのは五十七年ぶりでございますので」
フィーネは扉の脇に埋め込まれた石板へ目を向けた。
現在では使われていない古い言葉が刻まれている。婚礼に備えて学んだ知識を頼りに、文字を指先で追った。
「『互いに望み、夫婦の契りを交わすまで、この扉は開かず』……と読めます」
背後から石板をのぞき込んだアルベリクの顔が、険しくなる。
「俺も同じように読める」
「まさか、この『夫婦の契り』とは」
「侍従長」
「はい」
「この扉は、俺たちが何をすれば開く」
扉の向こうが、奇妙に静まり返った。
「古来より、王家の後継者を確実にもうけるために用いられてきた部屋でございます」
「答えになっていない」
「私の口から申し上げるのは、いささか差し障りがございます」
「お前が差し障るようなことを、俺たちは今からさせられるのか!」
アルベリクの怒声が室内へ響いた。
侍従長から返事はない。
やがて、遠ざかっていく足音が聞こえた。
「逃げましたね」
「ああ」
「ご自分の役目を果たした顔をして、逃げましたね」
「ああ……」
フィーネは改めて石板を見た。
互いに望み、夫婦の契りを交わすまで。
室内には寝台がひとつ。夫婦以外は誰もおらず、何かを成し遂げるまで扉は開かない。
どう解釈しても、求められていることはひとつしかなかった。
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