第35話
ぬるま湯のように淀んだ、粘りつくゼリーのような感触。高い密度のせいで、息が詰まりそうになる。いつになっても慣れない、『壁』の手触りだ。
キッドが手早く『壁防御』の礼式を施すと、パディルが『壁』を抜け、そしてダンスがその後に続いた。
「これが最後の『壁』通過、になるのかな」
一足先に『壁』を抜けたパディルが声をかける。
「もう、街に戻る用はないだろう。あの街と『壁』は、これからもあのままなんだろうな」
とダンスが応じる。長年続いた外縁保守局員としての任務から思わぬ形で解放されたダンスだが、その表情は必ずしも明るくはない。
浮かない顔なのはキッドも同じだ。サイバルダ院長は、最後に「『壁』ではなく、この私が街を守っている」とはっきり言った。
「だが、私は違う。私は真実を知りたい。『壁』は何者で、どこから来て、どこへ行くのか」
「そうだな。『壁』は、かつては本当に人々を守っていたはずだ」
キッドの独白に、ダンスが応えた。
「その答えは、街の外にあるんじゃないか。魔術院が書き換えてしまう台帳の中にではなく」
3人は最後に一度だけ、透明な『壁』越しにかすんで見える街を振り返ると、『壁』の外へと歩き始めた。まずは、あの村から始めよう。
一方、魔術院では。
サイバルダは机の前に座り、巨大な台帳のページにペンを走らせていた。先日の大規模な『壁崩落』の状況を報告する何通ものレポートをめくりながら、サイバルダは流れるように、迷いなくペンを動かす。
と、彼のペンが止まった。
そこには「キディアス・ダンス・パディル」と記されている。サイバルダは「キディアス」と書かれた部分に二重線を引き、「キッド」と訂正した。
さらにサイバルダの動きが止まった。
長い長い一瞬ののち、サイバルダは修正液を手に取ると、3人の名前を丁寧に消し去った。
サイバルダはため息をひとつつくと、分厚い台帳をゆっくりと閉じた。
そしてまた、同じ頃。
ドゥパルドは焦っていた。
いつものように、魔術院の一角にある湿っぽい彼の小部屋で、小さな身体を縮めるようにうずくまっていた。
そう、外から見ればいつもと変わらないドゥパルドだったが、その胸のうちはもう違う。彼は知りたくもなかったことを、知ってしまった。これまで何となく処理してきた『壁』にまつわる報告書も、今ではまったく違った意味を持って迫ってくる。
なにより恐ろしいのが、サイバルダ院長だ。院長は何も言わない。ただ、深い色をたたえた瞳でドゥパルドを見るだけだ。
それでもドゥパルドには何もできない。震えるペン先でミミズが這ったような字を台帳に書きつけ、弱々しく声を張り上げるだけだ。
「次、入室してください」




