第1話
「キディアス! パディル! もう任務は達成だ、退くぞ!」
左手の丸盾を握り直し、右手に剣をぶら下げたままダンスが叫ぶ。その声を聞いたキディアスは、踵を返して小走りにダンスの脇をすり抜けていく。魔術師の紫色のローブがひらめいた。
パディルはキディアスほど素直ではなかった。弓弦をいっぱいに引き絞ったパディルの視線の先には、3人を追ってきた異形の姿があった。
肉と骨と筋をこね上げて丸め、乱暴に押し潰した円盤状の肉塊。直径は大人の男性の背丈ほどだ。円周には魚のヒレのような触手があり、ビタンビタンと地面を踏みながらゆっくりと回転し、こちらに迫ってくる。
「もう少し……もう少し!」
弓の射程と威力を天秤にかけ、ギリギリまで異形を引きつけようとするパディルの肩を、ダンスは思い切り引っ叩いた。
「よせ、もう退くぞ!」
口を尖らせたパディルが振り返って文句を言おうとしたその瞬間、異形が真上に跳び上がる。そしてそれまでのゆっくりした回転が嘘のようにスピードを上げ、跳ねるように2人に向かって突っ込んできた。
「……!」
ダンスは丸盾を左肩の前に構えると、異形に向かって突進する。速度が乗り切る前に距離を詰めるのが狙いだ。
ズシっ、と嫌な重みが肩から後ろ足まで走り抜ける。ミシミシと膝と足首が軋み、盾の向こうからは生臭い粘液が降りかかってくる。
「この程度なら、馬車にはねられるよりマシだ!」
そう吐き捨てると、ダンスはひと足異形を押し返し、満身の力を込めて異形に盾を叩きつける。一拍置いて右手の剣で存分に斬りつけると、異形は身を撓めるようにその場に倒れた。異形の骨肉が波打つように乱れ、身体のどこからかくぐもった悲鳴が聞こえてくる。
「下がってくれ、ダンス!」
声に応じて真後ろに飛びすさると、入れ違いにパディルが放った矢がうなりを上げて飛び、異形の身体に突き立った。パディルは続けざまに二の矢三の矢を放っていく。
のろのろと体勢を立て直そうとしている異形の姿を認めたパディルはさらに矢をつがえようとしたが、そこで動きを止めた。前方にいるダンスがパディルに向けて右腕を突き出し、手のひらをいっぱいに広げている。攻撃中止の合図だ。
ダンスは慎重に異形の様子をうかがっている。うまく打撃を与えることはできたが、致命傷とはいかないはず。もう『壁』も近いことだし、このまま引き下がってくれれば……。ダンスは丸盾をかざしたまま、ゆっくりと後退っていく。
ダンスとパディルが見つめる前で、なんとか身体を起こした異形は再び転がりながら、こちらもゆっくりと遠ざかっていく。それを認めたダンスはやっと警戒を解くと、パディルに声をかけた。
「助かった。ありがとう」
「いや、おれのせいで危ない目にあったよな、ダンス。すまなかった」
殊勝な表情で謝罪の言葉を口にしたパディルに対し、ダンスは笑顔で肩を叩いた。
「いいさ。でも次は頼むぜ」
「2人とも、すまんがもう少し急いでくれ。魔術礼式をかけて、『壁』を抜けるぞ」
一足先に『壁』の前で待ち構えていたキディアスが2人に呼び掛けた。夕暮れの陽射しが『壁』を通じて降り注ぎ、キディアスの銀色の肌に反射する。彼女の金色の瞳からは、2人の背後を警戒する鋭い視線が放たれている。
ダンスとパディルが合流すると、キディアスは『壁』に向き直り、呪文を詠唱しながら両手で幾何学的な模様を描いた。『壁防御』の魔術礼式、街を護る巨大なドームである『壁』を通り抜けるには必須の礼式だ。ダンスとパディルの任務は、この『壁』を魔術礼式を用いて補修する魔術師のキディアスに同行し、異形から守ることだ。
『壁』の向こう側は、川面に顔を突っ込んだときのようにぼんやりと歪んで見える。両手でかきわけ、両足に力を込めて踏み込まないと押し返されそうな、高い密度を持った『壁』に触れるたび、ダンスは胸が詰まるような圧迫感を覚えるのだ。
『壁』に足を踏み入れるときの、ゼリーに顔を突っ込むようなあの感覚。そして『壁』から出ようとするときの、濡れた皮手袋を無理やり脱がそうとするような嫌な感覚。これが任務じゃなければ、頼まれたってやりたくない。
ダンスはかきわけるようにして『壁』を抜け出す。実際には何もないのだが、耳の穴や鼻の穴になんともいえない違和感が残っている。『壁』を越えると、後からパディルとキディアスも追いついてきた。
「よし、今回も無事任務完了だな。誰も怪我せず終われてよかった」
ダンスの言葉にパディルが元気よくうなずく。
「さあ、街に戻って祝杯だ!」
「私は魔術院への報告がある。付き合えなくてすまんな」
とキディアス。このやりとりも毎度おなじみの光景だ。
……数時間後。キディアスと別れたダンスとパディルは、外縁保守局の酒場で冷たいビールを酌み交わしていた。
「なあ、ダンス」
「どうした、真面目な顔して。飲みすぎたか?」
神妙な顔をしたパディルに向かって、上機嫌のダンスは木製のジョッキを掲げてみせた。
「魔術師でいるって、どんな気分なんだろうな」
「どんなって、おれたちが外縁保守局員なのと一緒じゃないのか?」
ダンスはまぜっ返すが、パディルは真剣な表情のままだ。
「おれたちは命がけで魔術師を護衛して、それでうまいビールが飲める。それ以上、何か必要か?」
「そりゃそうだけどさ」
と、パディルは唇を尖らせる。
「ダンスのおっさんは、不思議じゃないのか? なんで魔術師だけが『壁』を通り抜けられる、『壁』を補修できるんだろう?」
「うーん」
ジョッキを置いたダンスは、腕組みして唸った。彼にとって、それは「なんで太陽は東から登るんだ?」という疑問と同じ種類のものに感じられた。
「なぜ『壁』を、か……」
パディルと別れて街路を歩くダンスは、ふと上を向いた。白い月が夜空にかかり、『壁』を透過して柔らかい光を投げかけている。街を守る『壁』と、それを司る魔術師。そして魔術師を守るダンスたち外縁保守局員……。
「ビールをおいしく飲める、立派な仕事じゃないか。あいつ、何が気に入らないんだ?」




