第1話
ダンスは『壁』の前に立ち、大きく息を吸い込んだ。傍らでは魔術師が忙しく手を動かし、何かをつぶやきながら魔術礼式を施している。
「この感じ、いまだに好きになれないんだよな」
魔術師が頷くのを確認して、ダンスは『壁』に踏み込んでいく。
『壁』の向こう側は、川面に顔を突っ込んだときのようにぼんやりと歪んで見える。両手でかきわけ、両足に力を込めて踏み込まないと押し返されそうな、高い密度を持った透明な『壁』。触れるたび、ダンスは胸が詰まるような圧迫感を覚えるのだ。
『壁』に足を踏み入れるときの、ゼリーに顔を突っ込むようなあの感覚。そして『壁』から出ようとするときの、濡れた皮手袋を無理やり脱がそうとするような嫌な感覚。これが任務じゃなければ、頼まれたってやりたくない。
『壁』は、街や港、牧場を包み込む、透明で巨大なドームだ。人間に害をなすモンスターや害獣は『壁』に阻まれるが、太陽の光や風、雨など自然の恵みは『壁』を通り抜けることができる。『壁』は善と悪を分けるフィルターであり、悪から人々を守る城壁でもある。
そして『壁』の維持管理を司る魔術院と魔術師は、絶対の権力を持って街に君臨していた。普通の市民は『壁』に近づくのは禁じられている。
ダンスは、魔術院の外部機関である外縁保守局に所属し、『壁』のメンテナンスに赴く魔術師の護衛を主な任務としている。
『壁』の外側に出て、魔術師が礼式を施して『壁』を補修するのを援護し、街まで護衛するのがダンスの任務だ。『壁』のメンテナンスを終えたダンスたち一行は、ふたたび『壁』を通り抜けて街へと戻ろうとしていた。
「これで今回も、無事任務完了だな」
ダンスは同僚の剣士と頷きあいながら、街への道を急ぐ。特権的な地位を持つ魔術師は、迎えに来た馬車に乗って一足先に帰っていった。さあ、保守局直営の酒場で疲れを癒すとするか。
――それにしても、あの『壁』の感触だけは嫌なもんだ。
ダンスがそう言うと、仲の良い同僚たちは、
「お前、この商売向いてないんだよ」
と笑ったものだ。ダンスはあえて反論せず、あいまいな笑顔を返したのを覚えている。
だが、その時笑っていた仲間のなかで、今も任務を続けているのはダンスただ一人。
一人は待ち伏せを受けて、ハリネズミのように矢を撃ち込まれて死んだ。
もう一人は『壁』の向こうに取り残され、今でも行方知れずのままだ。
だいたい、無事引退できた運のいい外縁保守局員なんて聞いたこともない。
「お前は向いてないから臆病で、だから生き残ったってことかもしれん」と言ったのは保守局の酒場で店主を務めるカルツだ。
カルツも元局員だが、任務で左脚の膝から先を失くしてしまい、カウンターの向こう側におさまる身分になった。
「腕は悪くない、運だっていい。経験も豊富で適当に臆病だから、死にもしない。資質としては立派なもんだが、何しろ目立たないんだよな。パッとしない」
パッとしないかわりに長生きできるんなら願ったりかなったりだよ、とニヤニヤ顔のカルツに捨て台詞を吐いて、ダンスは酒場を後にした。
それから一週間後。
ダンスは月イチ定例の任務、『壁』の点検と補修のために街を離れ、郊外の前哨地に腰を据えていた。
ここから目的のダンジョンまでは歩いてまる1日ほどだが、まずは今回の同行者と合流しなければならない。
ダンスはカルツから仕入れた干し肉をナイフで削いでは口に含み、ゆっくりと噛みしめながら炉に火を起こしていた。
薪の上を火の舌が踊り、本格的に炎が熾ったのを見計らったように入ってきたのは斥候を務める若者、パディルだ。斥候は偵察と退路の確保を担う役割。ダンスとパディルが組むのは3回目、もうすっかり顔なじみの間柄になっている。
「ようおっさん、今回もよろしく頼むよ」
「お前ね、おれが火を起こすまで外で待ってただろ? 若いんだから、こういう細かいことをめんどくさがるの、やめろよな。おれだからいいけど、そういうことで怒るやつだっているんだからな」
おっさんは怒らないでしょ、わかってるんだよという顔でニヤニヤしているパディル。
こんなやつだが、偵察にせよ追跡にせよ、腕は確かだ。手癖が悪いなんてこともないし、信頼できる相棒だと言っていい。
「おっさんのこと、信頼してるんだからね。剣の腕も確かだけど、何より撤退の判断がいい。尻尾巻いて逃げるの、大得意だもんね」
ダンスが怒らないのを確信しているとはいえ、いくらなんでも言い過ぎじゃないのか。つい真顔になったダンスが顔を上げると、パディルも珍しく真顔を作っていた。
「だから、感謝してるんだよ。前回はあそこで退却してなければ全滅してた。そうならなかったのは運だけじゃない、おっさんの判断があってこそだって」
あの時、無理していたら本当に全滅していたかどうか、それはわからない。
だが前回、同じダンジョンに別の入り口から侵入したパーティは帰ってこなかった。
剣士3人に斥候と弓手、傷口を縫う治療者まで連れた大所帯の彼らが、虎の子の魔術師ごと未帰還、つまり全滅扱いとなったのに対して、早々に撤退を決めたダンスのパーティはひとりの犠牲者もなく任務を終えたのだった。
「おれたちの仕事は、モンスターをたくさん倒すことでもダンジョンの奥深くまで侵入することでもない。求められた任務を果たすこと、それが可能なら無理する必要なんてないからな」
「そう、そういうドライなところがいいんだよ。生きて帰らなきゃ意味ないもんな、よろしくねおっさん……っと、そろそろいい匂いがしてきたじゃない?」
井戸から汲んできた清水を張った鍋に削ったヒツジの干し肉、前哨地に貯蔵されていたイモと香草を放り込み、塩をひとつまみ入れて根気よく煮立てると、保存食メインで仕立てたにしては十分な食事になる。
「腹が減ってるんだろうけど、あと一人来るんだからな。もうちょっと我慢してくれよ」
いそいそと食器を取り出すパディルに、ダンスは改めて注意を促す。
そう、今回のダンジョン巡回は3人パーティ。絶対に欠かせない魔術師がまだ合流していない。
「飯はおあずけかあ。ま、しょうがないかな」
と気落ちしたパディルに応えるように、前哨地の古びたドアがゆっくりと開いた。




