9. 名前
不幸というのはいつも唐突で理不尽だ。予想外の場所から襲ってくる。
こういう不幸が自分にはよく起きた。たとえば、雨の日に帰ろうとしたら傘立てに入れていた自分の傘が消えたことがあるかとか。たとえば、知りたくなかった自分の両親の秘密とか。あとは、変なクラスメイトに絡まれたりとか。
なんどもそういった不幸にあってみてわかったことがある。いざそのときになると心の準備なんてできないということだ。
朝食には父の姿があった。いつもならわたしが起きるころには家を出ている。父の仕事は朝早くて帰りも早い。起きてきた妹はパジャマ姿の父を見て文句をいいだす。
「お父さんだけパジャマだ。ずるい」
「お父さんはこの前の土曜日に会社にいったから今日は休みなのよ。あんただって運動会の次の月曜日は休みでしょ」
家族のためにがんばって働いてくれている父。いつも温かいごはんをつくってくれる母。妹と一緒に家を出る。
「いってきます。お父さん、お母さん」
学校に向かうランドセルの中に混じって歩いていると妹が誰かに駆け寄る。この前ケンカしたといっていた相手だ。仲直りできたらしい。
一人で歩いていると見慣れた背中を見つけた。いつも驚かされている仕返しをしようと背後から忍びよった。
何かを考え込むようにうつむき気味に歩き、こちらに気づく様子はまるでない。肩にぽんと手を置くと文字通り飛び上がった。
「あ、なんだ、入江ミサキじゃん」
ほっとした顔を見せる波濤シブキの頬には白い湿布が貼られていた。わたしが張ったものとは違うけど、やっぱり不恰好だ。替えの湿布を貼ったのだろう。それをからかおうかと思ったけれどでふと気がつく。前は額をみせていたのにおろした前髪で隠れていた。
「あれ? 髪型かえたの?」
「え、ああ、うん。ねぐせ、ねぐせだよ」
いつもとは違う歯切れの悪い答え方。わかりやすいごまかし方だった。本当に不器用な子だった。
風が吹いて彼女の前髪が揺れた拍子にちらりと見えた。白いおでこの端。ぷくりと腫れて青くなっている。
そこに向けられた視線を誤魔化すように笑うと前髪を押さえておでこをかくした。
「……転んだだけ」
「そっか、痛そうだね」
『ねえ、その額の傷はどうしたの?』なんて聞くことはしなかった。それは自分本位の質問でしかない。
休み時間になると彼女は担任に呼び出された。戻ってくるとうんざりした顔で話しかけてきた。
「さっきさ、担任にすごく聞かれたよ。保健室にもいけってしつこくてさ」
彼女と話していると周囲から妙な目で見られたけれど、それだけ。わたしは黙って席に座り、波濤シブキはラジオをいじっていた。
近くでは数人の女子が集まって、今朝のニュースで流れていた占いコーナーについて話していた。
「今日の一番は天秤座だって、わたしは五番だったよ」
天秤座のわたしはいったいどんな良いことがあるのだろうか。
この日もどこかで時間をつぶそうとした。でも、窓から見える空には厚い雲が広がっていた。
天気予報に裏切られた。傘は持ってきていない。
昇降口を出ると走るのと歩くの中間ぐらいの速さで足を動かした。家に帰るのを急いだのいつ以来だろう。
赤信号で足止めされることもなくどんどん家に近づいていく。占いは当たっていたらしく雨に濡れる前に家に着くことができた。
玄関に鍵を差込みひねる。この時間は誰もいないので無言で玄関にあがる。ランドセルを置いたら、傘をもってどこかに出かけよう。
薄暗い家の中で、ボタンを押すとパッとついた明るさに目をほそめる。慣れない明るさの中でソファーから誰かが体を起こした。
「……ん、帰ってたのか」
ぼんやりした顔でこちらを見てくるのは父だった。
「え、あ、うん」
いるとはおもわなくてびっくりして生返事になってしまった。今になって父が休みだったことを思い出す。
何を言おうかごちゃごちゃになっている頭で気がついた。父がわたしを見る目がいつもと違う。きょとんと不思議そうな顔でわたしを見た後、誰か懐かしい人に会ったように笑った。
「―――、―――」
父が誰かの名を呼んだ。知らない名前だった。
胸をこづかれたように一瞬息をするのを忘れた。
そうして、父が口にした名前の意味を悟る。それはわたしの本当の母親。第二次性長期を迎えたわたしは、その人に似ていたのだろう。
沈黙の時間はとても長く感じられた。はっとしたように父が「おかえり」といってきた。
わたしは唇をかむ。取り返しのつかないことを口にしないように。
「ミサキ、どうした?」
うつむいて黙っているわたしに耐えられなかった父が近づいてこようとする。
いつもどおりの演技を始めることができなくて、どうしようもなくて、わたしは家を飛び出した。
呼び止める声を無視してわたしは逃げるように駆け出した。
わたしはひたすら走った。事実だけが鮮明に頭に残っている。
厚く垂れ込めた雲からはごろごろと雷の音が響いている。大きく吸い込むたびに、ぷんと湿った匂いが鼻を刺激する。
どこをどう走ったのかわからないけれど、とにかく体が重かった。
息が上がっても足をのろのろと前に出していると誰かに呼ばれた。振り向いて足を止めた瞬間にいきなり疲労感がどっと来た。
「マラソン? あんまり足はやくないね」
あまり会いたくない相手につかまってしまった。足を止めてはあはあと息を整えている間も話しかけてくる。それにこたえる気力もなく、ただぼんやりと波濤シブキを見ていた。
「今日もお兄ちゃん見つからないんだよ、もうこの町はだいたい探したのに」
唇をとがらせて不満げな顔にはまだ湿布が貼られたままだ。おでこにできた痣もまだ治ってないだろう。そんな傷だらけの顔で笑っている。
こいつは本当によくわからないやつだった。無理をしてるのか、それとも切り替えが早いのか。でも、ただひとつ希望を持ち続けられている。それは胸からぶら下げているラジオのせいに違いない。
「……ねえ、あんたはどうしてお兄さんのこと調べようとしてるの?」
瞬間、辺りが急に明るくなった。雷の光をうけた波濤シブキの目はぎらぎらと光っていて、その視線は雲を突き抜ける。
「約束したから。お兄ちゃんのことを見つけるって」
本当なのかはわからない。だけど、雷をにらみ続ける彼女をまっすぐに見られなくて視線を地面に落とした。
頭頂部に湿り気を感じたと思ったら、大粒の雨粒がぽつりと地面に落ちた。熱されたアスファルトにできた黒いしみはどんどんと増えた。とつぜんの大降り。二人で近くの軒先に逃げ込んだ。響く雨音が周囲の音を掻き消す。
「お兄ちゃんの住んでるところはきっと夕立なんてないんだろうな~」
「えー! なにー?」
雨音で聞こえずらくて聞き返すと大声でもう一度言ってくる。
「早くお兄ちゃんを見つけるの。そこはすごくいい場所なんだってーっ!!」
「じゃあ、見つけたらわたしもそこに連れて行ってーっ!!」
わたしも大声でいうと、「いいよ!!」と大声で返事したあと笑いかけてきた。
彼女の横顔を見たあと、また視線をぬれた地面にむける。さっきまであった日常は別世界に塗り替えられている。薄暗くて雨音しか聞こえない世界。そこに二人きりにされたようだった。
この土砂降りが収まったら、波濤シブキはあの狂った父親が支配する家に、わたしはいい子を演じる家に帰らなければならない。
「あのさー、もしかしてこの町にいないんじゃないのーっ!!」
「そっか……そうかも! 入江ミサキはやっぱすごいや!!」
それはただの思いつきだった。でも、こいつは無邪気に喜んでいた。
雨の勢いが落ちてきた。元の世界に戻ってしまう。なんでわたしたちはこんな場所にいるのだろう。
雨音も収まってきた。「じゃあさ」と普通の声で話しかけると波濤シブキがこちらを向く。
「いっしょに探しに行かない?」
もしもここで断られたらきっとわたしはやめただろう。でも―――
「うん、いく!」
―――即答だった。
「お兄ちゃんにも言われてたの。一緒に来てくれる友達もいるなら誘うといいって。一緒に探すのをがんばってくれる友達がボクもほしかったんだ。入江ミサキなら着いてきてくれると思ってた」
そういえば、以前に『才能』がどうとか言っていた。それってそういうことだったのか。
友達といわれて、認めたくないけれどうれしく思っていた自分がいた。そうか、わたしはずっとそういう相手がほしかったらしい。
「ところでさ、なんでわたしのこといちいちフルネームで呼んでるのよ」
「なんでって、入江ミサキは入江ミサキじゃないの?」
「なんかいやじゃない。普通に呼んでよ。わたしもあんたのことシブキって呼ぶからさ」
若干の照れを感じながら名前を呼ぶと、彼女はびっくりした顔をした。
「名前がいやなら名字で呼ぶけど……」
「ちがうよ。名前呼ばれたのってお兄ちゃん以外だと久しぶりだったから」
そういうとうくくとこもった声で笑い、『ミサキ、ミサキ』と呟きだした。
それから二人で話して、お互いの家に戻って準備をしたら駅で集まることを決めた。行き先は決めていない。きっと遠くにいくことになるだろう。
さっきまでやまないでほしいと思っていた雨が今度はさっさとやんで欲しいと待ちきれない。焦れていると、わたしを置いてシブキはひょいと軒下から飛び出る。濡れるのもお構いなしだった。
「ミサキ、先に行ってるね」
「まだ雨降ってるけど」
「だってボクの家のほうが遠いじゃん」
「ラジオが濡れちゃうよ」
「そっか。う~ん、あっ……そうだ。」
悩んだかと思ったら、首からヒモをはずしてぐいと前に押し出してきた。
「持ってて」
「いいの? 大事なものなんでしょ」
「ミサキならいいよ」
そういってわたしの手にもたせると、シブキは雨の中を飛び出した。
「待っててね。すぐ行くから!」
にこっと無邪気で本当に楽しそうな笑顔だった。
雨しぶきを撒き散らしながら走る彼女はあっというまに道の向こうに消えた。
ひとに認められることはうれしい。その喜びを初めて知ったかもしれない。もしかしたら、生まれてきたとき、初めてしゃべったとき、初めて立ったとき、お父さんと顔のしらないお母さんはわたしを認めてくれたのだろうか。