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レジスタンス-それはありふれた絶望だった-  作者: アンリ
第四章 圧巻のナイチンゲール ―ワタベ―
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4.清く正しく生きてください

 その日、仕事を終えて部屋に戻った誰もが口をきかなかった。


 代わりに硬く結んだ口から漏れ出てくるのはうめき声だ。


 誰もがベッドにうつぶせになっている。


 先日我が組が製作したねじから許容範囲を超える欠陥品が見つかった。その罰として今日のノルマ分の製作が終わった後で鞭打たれたのだ。工場の汚い床に四人並んで正座をし、丸めた背中に計三十発。誰のミスかは不明だが、それを特定しても意味はない。すべては連帯責任だ。


 嬉々として鞭をふるったネオンピンクの髪の守衛は、きっと心では泣いていたはずだ。自らが守護するデルタ系を自らが傷つけなくてはいけないという矛盾に――。


 こういう時、いつも申し訳なく思う。背中の痛み以上に心が痛む。尊くも慈愛に満ちたアルファ系になんてことをさせてしまったのか、と。もうこんな愚かで罪深い俺達のことなど見限ってくれても構わないのに。


 ようやく部屋に戻ってベッドに倒れ込み――それだけで意識が飛んでしまいそうだった。しかし背中は燃えるように熱くて、痛い。これでは眠るどころの話ではない。だがここでは薬なんてものは出ないし、ただひたすら耐えるほかないのだ。耐え切れなければ死ぬ他、ない。……このくらい辛くなければ、俺達のような底辺には罰にはならないのだ。


 仰向けのまま顔だけで横を向くと、ミヤギがひどく憔悴していることに気がついた。うつろな顔で呆然としている様には生気が感じられない。初めて肉体的な罰をくらった人間は大抵ミヤギのような状態になる。肉の痛みはもちろんのこと、やや非人道的な扱いに精神的な衝撃を受けたはずだ。


「おっさん、生きてるか?」


 冗談を混ぜつつ問いかけると、ミヤギはほんのわずかばかり頭を縦に動かした。だが呼吸は浅いくせに速い。額には玉のような汗が浮かんでいる――換気していない室内が蒸し暑いことだけが理由ではなく。


「ど……して……」

「ん?」

「どう、して……。どうしてこんなことをされなくては、いけないのでしょうか……」

「俺達がミスばかりするからだろう」


 これにミヤギが眉をひそめた。


 俺の答えに満足していないようだ。


 だから「俺達が人間以下の役立たずだからだ」と言ってやった。より上位の視点から見れば、それこそが唯一の解であり常識だからだ。


 これにミヤギが首を振った。


「そんなこと……ない、です……」


 シーツに顔をこすりつけるように、何度も何度も首を振る。ほんとうは首を動かすのも言葉を発するのも辛いはずなのに、ミヤギは必死で否定し続けた。


「そんなこと……ない……です……」

「いいや。俺が言うことが正しい」


 分からないのであれば何度だって言ってやる。


「ここはデルタ系の中でも特にダメな奴らをかき集めた場所だし、アルファ系はそんな俺達に更生のチャンスを与えてくれているんだ。神様に認められて天国に行けるように、来世では晴れて普通の人間になれるように」


 それはこの収容所に連れて来られた直後にまず説明されたことだった。


「おっさんにはこういう話は難しくて理解できないか?」


 ミヤギは歌については詳しいが、ここに収容されたということは、他分野に関しては期待薄なのかもしれない。


「……おっさん? 聞いてるか?」


 だがミヤギからの返事はなかった。


「……おっさん?」


 これはまずい、と気づく。汗はひどいのに、ミヤギの顔色はさらに悪くなっていた。


 その様子をしばらく見ていたら自然と起き上がっていた。


 痛む背中をかばいながら、まずはすべての窓を全開にしていった。ぬるい空気でも流れを感じられるだけでだいぶ涼しさが違う。次にドア近くにあるシンクまでよたよたと歩き、手ぬぐい二枚を流水で濡らした。ぎゅっと絞ったそれをミヤギの額、それに背中へと載せると、ミヤギが感極まったようなため息を漏らした。


「あ、あ……」

「どうだ。気持ちいいか?」


 ミヤギがこくこくとうなずく。その動きで額に載せた手ぬぐいが落ちそうになって「動くなって」と笑いながら直してやると、ミヤギのしわの目立つ目尻から、涙がつうっと伝って汗に混じった。


 他の二人にもミヤギと同じことをしてやった。キリュウに関しては機嫌をとるために、タケダに関しては未成年に対する無条件の思いやりで。本当はアルファ系のように慈愛一つでこういった行動ができるようにならなければいけないのだろうが、俺はきっと死ぬまでこういう打算的かつ単純な人間であり続けるのだろう。


『私達はこの世界、この社会を全身全霊で護っています』


 初めて実物のアルファ系を見たのは小学校の入学式でのことだった。


 三人の苦悶に歪む顔を見ていたら、なぜかあの日の光景が思い出されていく……。


 一段高い檀上に立ち、とうとうと語るアルファ系は、見事な金髪と鮮やかなオレンジの瞳が印象的な女性だった。その全身から放たれるオーラは女神と見まごうほどだった。


『小学校を卒業するまでにあなた方に理解してもらいたいことが二つあります。それはあなた方が生きる意味と目的です』


 あんな風に堂々と論じる人はデルタ系にはいない。


 あれほど美しい人もデルタ系にはいない。


『生きる意味、それは社会に奉仕することです。つまりは社会を護る私達に誠心誠意奉仕すればいいので

す。生きる目的、それは次世代にこの秩序ある平和な社会を継承していくことです。つまりは社会を動かす私達に全身全霊で尽くすことです。……あなた方には残念なことですが、神は人を平等には造りませんでした。神のお考えは人間には到底理解できるものではありません。であれば私達にできることはただ一つ、この現実を受け止めることだけなのです』


 当時六歳だった俺には女神の話はほとんど理解できなかった。


 だが一つだけ心に刺さったフレーズがある。


『清く正しく生きてください』


 それはつまり、アルファ系のような間であろうと努めるべきだと――そういうことだ。


 だが気づけば――俺は愚者の烙印を押されてここに収容されている。道徳の授業のボランティアをしていたこともあるが、清く正しく生きることはできなかったというわけだ。


 もう一度幼き頃に戻れたら、俺はちゃんとした人間になれただろうか――?


 追憶が郷愁めいた悔恨の気持ちを呼び起こす。


 そのせいだろうか、三人の表情がやわらいでいくのを見ていたら、ほんの少し甘えた気分になってきた。せっかくアルファ系が手自ら与えてくれた罰、痛みではあるが、俺も少しばかり楽になってもいいだろうか。ああ、今日だけ、今日だけだから……。


 ああ、やっぱり俺は駄目な人間だ……。


 自分でもどうしようもないほどの自己愛に突き動かされ、吐きそうなほどの背中の痛みに押され、俺はとうとうシャツのボタンに手をかけていた。上半身だけ服を脱げば、あとは頭をからっぽにして淡々と動いていた。濡らした手ぬぐいは傷に触れた瞬間にはやや痛みを伴うが、その直後に味わえるひんやりとした感触がたまらなく心地いい。


「ああ……」


 何度も繰り返していたら、たまらず深いため息が出た。


 と、耳があの配膳係の声をとらえ、自然と手が止まった。


 手ぬぐいを持ったまま歌声へと集中していく。音の高低、強弱、長短――ミヤギの言っていたこの三点に絞って耳をすます。


 何を言っているのかまでは相変わらず聞き取れない。知らない言葉なのだろうか。アルファ系もアルファ系同士でたまに意味の分からない言葉を話していることがある。ということは、あの配膳係は頭がいい奴なのかもしれない。


 さらに意識して聞いてみると、今夜の歌は同じメロディを繰り返す単調なものだと気づいた。音は高くもなく、低くもない。強弱は――やや弱い感じがする。長短は――やや長い音の連なりのようだ。ただ、全体的にゆっくりとしているからかどこか優しい。


 ――しばらく聞き入っていたようだ。


 がたん、という音とともに配膳口の戸が開かれ、そこに四本の牛乳瓶が置かれた。


 これが今日の夕食、らしい。


 この収容所では平穏というものは存在しない。食事もそうで、毎日三食、栄養バランスを考えたメニューで満腹になろうだなんて期待してはいけないのだ。今朝のムカデ入りのパンもそうだが、ある時は丸三日水以外口にできなかったこともある。だから牛乳をもらえただけ、ましだ。これはきっと精神の鍛錬、修行の一種なのだろうと思っている。


 と、戸の向こうにいる青年と目が合った。


 実はこの時が初めてだった――実在の歌い手の顔を見たのは。


 その容貌はまさにナイチンゲールにたとえられる声質のとおりだった。随分無垢な顔立ちをしている男だ。繊細な頬のラインも薄い唇も、長めの前髪が眉の上で揺れる様も、どこか幻想的な雰囲気があった。だがその年齢を掴めない不思議な容貌は美しい歌声にとてもよく似合っていた。


 いつもと違う人間が戸の向こうで待っていたことに驚いたのか、一瞬、青年の目が丸く見開かれた。やがて 「ごめん、なさい」と青年がか細い声で謝った。


「え? ……あ、ああ。大丈夫だ」


 夕食がこれだけで申し訳ない、そう言いたいのだろうが、これはアルファ系が決めたことであり俺達はそれに従う他ない。それゆえ彼には一切の咎はない。


「それより……いつも歌ってくれてありがとう」


 どうしてそんなことを言ってしまったのだろう。


 とっさに口が滑ってしまった――そんな感じだった。


 俺がもっと聞きたかったのもあるし、満身創痍のミヤギの耳に届いていたら絶対に喜んでいるだろうと思ったから。


 感謝の言葉に青年が小さくうなずいた。


 ほんの少し戸惑いの残る笑みを浮かべて。



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