番外編 美しい人 前編
オーレリアとフレデリックの長女アリーシャ視点。
サブタイトルの「美しい人」は一人だけを指し示すものではなく、複数の人物に向けたものです。
書きたいシーンを全部書こうと欲張ったら、びっくりするほど長くなるので前後編に分けました。
アリーシャ・ユーディットは、元ルヴァン公爵令嬢であるオーレリア・エドナ・ユーディットと、婚姻に際して臣籍降下をした元カルネアス第二王子のフレデリック・ダリオ・ユーディットの長女として生まれた。
本家であるルヴァン公爵家の家業の一つ発掘部門を受け継いだオーレリアは絶世の美女として名を馳せ、婚姻までに何人もの男性を虜にしたと有名だった。その母の夫の座を得たフレデリックも諍いに巻き込まれたと右目を失って眼帯を付けているが、それでも霞まない美貌を持ち、騎士とも見劣りしない逞しい体格の美男子。その二人の容姿、主に母の容姿を受け継いだアリーシャは、十歳にして絶世の美女としての片鱗があった。
父親譲りの烏の濡羽色の髪、母親から受け継いだ宝石のような煌めきのある紫色の瞳。ふと目を伏せればたっぷりとした長い睫毛が肌に影を作る。その肌も、雪のごとく白くきめ細やかで、父親に似た薄い唇は赤く色付いていた。
赤子の頃から美貌を約束された彼女に、婚約届や求婚状が送られるのは今日びまで絶えたことはない。
ただ、儚い美や可憐など形容されるアリーシャは、同様の美貌を持つ母親とは違い、活発で、領地であるユーディット侯爵領を遊び場として飛び回っていた。護衛騎士や侍女を引き連れて領都イルブラスは勿論、領内に広がるグリオス平原にあるコルツ町や領都が出来る前は中心だったフィンレント町も、山々が連なる国の北西部も、彼女の庭であるかのよう。
慌てる護衛騎士も呆れる侍女も、下に生まれた弟のロランスに窘められてもアリーシャは侯爵令嬢らしからぬ活発さで突き進んだ。更に下に妹のクララが生まれても、彼女の手を引いて「今日はフィンレントの公園に行きましょう!」などと言って連れ去ってしまうほど。美しい侯爵令嬢は、自由に振る舞うことができるお転婆である。
なぜなら、彼女自身に危害を加える者など領内にいないからだ。王家と国内唯一の公爵家の高貴なる血を受け継ぎ、絶世の美女の娘にも関わらず、アリーシャは愛されることで守られていた。
優しい父母は勿論、次期当主となるロランスとは良好な姉弟関係、若干彼女が振り回している感は否めないが仲が良い。可愛い妹のクララも姉に信頼を寄せていると付いて来てくれる。
そして、何よりもアリーシャを守る者は領民達だった。グリオス平原と国の北西部に古くから住まう彼らは、アリーシャを敬愛している。ユーディット侯爵家を敬愛している。古代期から続く紫色の瞳を持つことで、古代の豪族の娘リリアノの子孫であることで、グリオスの民はユーディット侯爵家を受け入れていた。崇拝する者すらいるほど。
初代領主でもあるオーレリアの歴史家としての功績もあるが、紫色の瞳に真なる主だと定めていた。つまり、ユーディット侯爵領の者達にとっては、アリーシャは大切な姫君となる。彼女を害するなど考える者などおらず、敬愛の念を抱いて見守っていた。
彼女が思うままに過ごせるユーディット侯爵領にて、一番重要なのは間違いなく母親のオーレリアだった。元王子を配偶者にすることで領地を賜ったが、侯爵家は彼女こそ当主。発掘事業と領地経営を両立する女性侯爵として在る。
齢三十でありながら、翳ることのない類稀なる美貌。気品と知性のある貴婦人。領都イルブラスにあるブラスの居城跡を皮切りに、様々な遺跡や遺物を発掘した精力的な発掘家、何冊もの歴史書を執筆した歴史家。穏やかで優しい心根のオーレリアは、アリーシャを含めた子供達に深い愛情を示してくれる。
発掘でオーレリア自らが出向く際は、子供達も現場に連れて行った。護衛や侍女の力を借りるが、父親と共に育児をしながら発掘調査をする。腕に抱き上げられてあやされながら、母親が調査員に指示を出していた記憶がある。予測した遺跡の見取り図を見ながら、アリーシャが声を上げれば、自分が何をしているのか簡単に説明をして様子を窺ってくれる。どこかで遊びたいと訴えれば許可をくれたし、一緒にいたいと強請ればずっと抱き上げてくれていた。それは他の姉弟に向けても同じで、育児と発掘調査を同時進行でオーレリアは熟していた。母親がアリーシャ達を非常に大切に思ってくれていると、子供心に理解できた。
領地が住みよいのもオーレリアが注意を払ってくれているから。フレデリックと協力して、治安維持や発展に尽力している。アリーシャには書類仕事の大変さなどよく分からないが、父親と共に執務室に籠もって真剣な書きごと、部下への指示の様子から頑張っているとは分かっている。
ユーディット侯爵領となった地域は、古代からカルネアス王家の所領にも関わらず、住民が王家に対して懐疑的であったため侯爵領になるまで殆ど手付かずだった。オーレリアはフレデリックと領地の盛り立てのために交通整備、山間や辺境地にある集落の維持のために資金を使っている。地域おこしとして、グリオス平原を乗馬が得意な領民達が馬で競走をする催し物を作り、観光の一つとして対外を誘引している。広大な平原を活用した新しい祭りは、内外に評価を受けていた。
そんなオーレリアは注目されやすい。彼女を拝するユーディット侯爵領では控えめであるが、カルネアス王国中から関心を寄せられている。平民も、貴族も関係なくオーレリアへと目を向ける。惹かれてしまう。
有名な歴史家で高貴な血筋だからこそではなく、殆どがその美貌に惹き付けられてのことだった。社交と銘打ってお茶会や夜会の誘いが大量にやって来る。全てフレデリックが断っているが、招待状は尽きない。アリーシャは執務室で大量に積み上がっている招待状を、いつも目にしていた。
一番有名な著書である古代の王弟ブラスと居城の発掘調査書は、国民の殆どが読んだと言われるほどで、何度か歌劇にされている。ブラスと引き裂かれた婚約者イレーヌの悲恋の物語を主題とした劇だが、オーレリアは出演を嘆願されていた。
なぜなら、彼女がブラスの遺骸を発見した場面が盛り込まれているからだ。監修をした劇作家が何度も交渉に来ていた。オーレリアの役は本人でなければ表現しきれないと観客達も望んでいると、母親本人に願っていた。
『素晴らしい演技力を持たれる役者の方々に私が混じるなど失礼に値します。私は一介の歴史家に過ぎません。領主としてユーディット侯爵領を守り立てる役目もありますので、残念ではありますがお断りさせていただきます』
劇作家が三度目の来訪までオーレリアが告げていた断りの言葉。四度目以降にはフレデリックが即座に断って面会を終えていた。アリーシャには見慣れた光景になっている。先月も劇作家が来訪し、肩を落として帰っていく姿を見た。クララが「おじさまのお洋服ヒラヒラだわ!かわい〜」などと言って、ついて行こうとしたのを止めたからよく覚えている。
自身の母親がどこまでも魅力的なのはアリーシャもよく理解できている。その人を惹き付ける母に邪な感情を抱く者がいることも、いつしか気付いた。
クララと共に、屋敷の中庭でお茶をしていたアリーシャ。金の髪に紫色の瞳という母親と同じ色をした可愛い妹が、口を汚しながら不器用な手付きでフォークを使い、ショートケーキを頬張るのを眺めていた。側にいるクララ付きの侍女が、いつものことだと微笑みを浮かべたままナプキンでクリームを拭う。
「んんっ、私はしゅくじょだから自分でふけるの〜」
不満の声を上げるクララに口元を緩めながら、カルネアス王国の古地図の写しを眺める。柔らかな日差しが注ぐ中庭は、山から降りるそよ風も相まって心地良さがあった。このままクララを抱き枕にして、ガゼボで昼寝をしてしまおうかとすら彼女は考えてしまう。
ただ、その緩くなっていた思考は騒がしい声や音で引き締まった。アリーシャは写しから顔を上げ、大勢の人の気配が近付いてくる中庭脇の外廊下を見る。
三人の護衛騎士を囲うように屋敷の警備担当の騎士達が一団となっていて、忙しない足取りで歩いている。その中心にはフレデリックに支えられたオーレリアの姿。
本日は領地の南端、グリオス平原の南の町に視察に行っていた。あまりに早い帰宅と物々しい様子。そして、父親にしがみついて顔を青くする母親の様子に、アリーシャはガーデンチェアから腰を上げた。
「お姉さま?あ、お母さまとお父さまだわ。おかえりなさいのごあいさつですか?」
「クララ、あなたの帰宅の挨拶はケーキを綺麗に食べ終わってからにしましょう。まずは私が挨拶をしてくるから、きちんと食べ終えるのよ」
「ん〜、はぁい」
のんびりした口調の返事に笑みを向けると、金の髪をツインテールにしている頭を優しく撫でる。歩き去ることで妹の頭から手を離し、従う侍女と護衛騎士に彼女を任せると、シンプルながら品のある青いドレスの裾を舞わせながら足早に歩く。
「どうされたのかしら?」
一番端にいた騎士に声をかければ、彼は振り返った瞬間、背筋を正した。内心で信奉する美しい侯爵令嬢に、だらしない姿を見せられないと思ったからだ。
「私は屋敷の警備担当ですから詳しくは知らないのですが、侯爵閣下が視察中に襲われたと」
「そう・・・『また』なのですね」
溜め息を漏らしたアリーシャは、中庭を望む休憩室に入っていった母親を目で追う。寄り添う父親にまかせるべきだと思うが、心配から休憩室に向かった。
扉の前で視察に随行していた弟のロランスと鉢合わせになる。金髪に紫色の瞳というクララと同じく母親の色を受け継いだ彼は、姉の顔を見て綺麗な顔を顰めた。
「邪魔だ」
「あら、お母様が心配だから来たのよ。邪魔は失礼ではないかしら?『お姉様、お先にどうぞ』と言うべきだわ」
呆れと溜め息を漏らしたロランスは、騎士の開く扉の脇に控えることでアリーシャに道を譲った。冷めた声で「早く入れ」と言われたが、聞こえないふりをしてあげた彼女は、素早く休憩室に足を踏み入れる。
奥にある二人掛けのソファに両親は並び座っている。フレデリックがオーレリアの肩を抱き寄せて、彼女はその逞しい胸に縋り付いていた。
身を寄せ合う両親はお互い愛し合っている。アリーシャにはそう見えていた。
「失礼します」
言葉をかければ、伏せていた目を上げるオーレリア。アリーシャに気付くと、青い顔のまま手を伸ばしてくる。
「アリーシャ」
「おかえりなさいませ、お母様。お加減が優れないと聞きました。大丈夫ですか?」
母親の側まで歩み寄ると、彼女の腕は取られて引かれる。オーレリアの膝に座るように腰を下ろした。後ろから抱き竦められて、横にいるフレデリックを見上げる。オーレリアを想う彼は、彼女の望むようにさせながらも、アリーシャを労わるように頭を撫でた。
「・・・こうしてあなたを抱き締めると安心します。無事、戻ってこれたのだと自覚できる」
「それならば良かった・・・何事が起こったのか私は詳しく知りませんが、お母様が安心してくださるのならいくらでも抱き枕になります」
「まあ・・・でも、もう大丈夫よ。ありがとう」
体を締める腕の力が失せた。アリーシャが振り返れば、オーレリアは微笑んでいた。引き攣っていても頑張って笑みを浮かべようとしていた。
母親は彼女に向けていた顔を、隣にいるフレデリックに向ける。アリーシャの髪を撫でていた手が、オーレリアの艷やかな金の髪をゆっくりと梳かすように撫でる。愛しいものを労る手付きを見ながら、彼女は腰を上げた。
「心が休まるようにメラニーに紅茶を頼みました。すぐに運ばれますよ」
「・・・ロランスもありがとう。あなたも大変だったのに気遣わせてしまいましたね。ごめんなさい」
「オレは・・・大丈夫です。お気になさらず。父上がいましたし、母上も無事に戻られたのですから」
ローテーブルを挟んで向かい合っているロランスは、フレデリックに顔を向けた。アリーシャも彼に並ぶように立てば、少し眉間に皺を寄せた父親の顔が見える。
苛立ちか、すでに怒りまでも感じているのか。優美な美貌の顔に浮かぶ歪んだ表情。母親が襲われるたびに父親は険しい顔を見せる。愛する妻が狙われたのだから当然だろうが、その滲み出る怒気に迫力を感じていた。内面で抑えているだけで、凄まじい怒りを抱えているのだと感じる。
「二人とも心配をかけたね。オーレリアは無事だ。だから大丈夫・・・ロランス、折角の視察だったのに面倒事に巻き込んでしまったね。すまなかった」
「いえ、仕方のないことだと思います。父上が謝ることでも、母上が畏まるようなことじゃありません」
「ありがとう、ロランス。でも、本当にごめんなさい」
ホッと息を吐いたオーレリアは、フレデリックから身を離して姿勢正しく座り直した。だが、彼は肩に手を回して自分から身を寄せていく。彼女を思い、心配だと表していた。
「フレデリック様」
「視察に関する書類制作まで時間はある。暫くはこのままでいよう・・・それと、アリーシャ」
「はい」
「屋敷の留守を預かり、クララの面倒まで見ていてくれてありがとう。視察は・・・無事には終わった。仕事は熟すことができたから今後の外出の予定はなくなったんだ。次の政務までオーレリアと過ごしていてほしい。構わないかな?」
「勿論です」
笑顔を見せれば、オーレリアが申し訳なさそうに顔を曇らせる。だが、それはアリーシャと目が合うと、すぐに笑みを浮かべることで隠された。
彼女は隣に立つ弟に顔を寄せる。まだ八歳の少年ながらロランスは冷静で落ち着いていて、肝が据わっていた。今までのことで精神が鍛えられてしまったのだろう。
「何があったか教えてちょうだい」
「いつものことだ、傭兵崩れのような連中に母上が拐われそうになった。護衛達の配置と動きを読まれていたから、内部に情報提供者がいるとみて父上が調査をする」
「お母様は怯えきってらっしゃるわ。いつもより酷い事をされたのかと思って聞いているの」
「・・・小柄だからか、小さな樽に詰められて運ばれそうになった」
「想像以上に酷い事をされていたわ・・・」
小声で話す間、フレデリックがオーレリアを抱き締めて額にキスを送っていた。労りのキスを、彼女は逞しい胸に頭を預けて受け入れ、小さく呼吸を繰り返している。
普段の母親は淑女然としているのに、あまりに弱った姿から精神的な苦痛が凄まじいのだと分かった。
(お母様を樽に詰めるなんて最低の行為だわ。どこに運ぼうとしたのか知れないけれど、本当にご無事で良かった)
アリーシャ達の母親オーレリア。姉弟達にその美貌を伝えた絶世の美女は、常に何者かにその身を狙われている。アリーシャは相手が誰なのか知らない。両親は知っているようだが、伝えられないことから知るべきではないと思っている。
両親が、特にフレデリックが家族に心配をかけまいとしているのだろう。ただ、オーレリアへの襲撃や誘拐未遂を何度も目にしたことで、共に体験させられたことで、アリーシャは母親を付け狙う邪な者がいるのだと理解していた。
知る限りではアリーシャが生まれる前、両親の婚姻式で襲撃を受けたときから。屋敷の侍女長であるメラニーや、長年勤めている兵士や騎士から聞いた。アリーシャも何度目かの巻き込まれたときに、あまりに異常だと思って聞いたら答えてくれた。
婚姻式での襲撃は、式前に侵入してオーレリアを連れ去ったというもの。すぐにフレデリックが護衛騎士達と領の憲兵達に捜査を命じ、彼自身も探すことで見つけることができた。領境にいた彼女はフレデリック自身が保護をして事なきを得た。婚姻式は日が暮れてから再開し、二人は無事、その日の内に夫婦となったそうだ。
計画を打ち出した主犯は不明。ただ、実行犯達は捕まり、指示役だった母親の兄アルバが逃走したことで収束はしている。収束するしかなかったと言われた。主犯である男の目星は付いていたのに、手出しができないことで断罪などできなかったと聞かされた。
その後、定期的にオーレリアは襲撃を受けている。学園の卒業式の日も、夫婦の蜜月期間にも、アリーシャを妊娠したときも出産したときも、身柄を狙う者達に襲撃をされて誘拐されかけた。
アリーシャの記憶にある一番古いものは、ロランスが生まれた日の三日後。生まれたばかりの弟を腕に抱いて、アリーシャを連れて中庭を歩いているときだった。母親の代行として領都に出向いた父親がいなかったときのことだった。
警備の騎士を倒した複数人の傭兵が屋敷になだれ込み、オーレリアを探した。震える彼女に腕を引かれたアリーシャは、怯えながらも母親を守ろうとした。弟を産んだばかりで体が整っておらず、その弟を腕に抱えているのだから。
自分が守らずしてどうするのか。長女だからか、幼いながらその考えに至って、一緒にガゼボに隠れた。オーレリアの身を守るように壁になろうとしたが、弟を手渡されて逆に守られた記憶がある。彼らの狙いは、母親だと明確に分かっていたのに。
その事件も、すぐに引き返してきた父親が兵と共に鎮圧したことで終わった。始めて聞いた人の断末魔が恐ろしくて、震え上がったことも覚えている。
屋敷の襲撃でオーレリアの警護は強化された。ユーディット侯爵家を拝する領民も一丸となって守り手となった。更に精鋭と呼ばれる騎士達が加わり、親戚の女騎士ウージェニーも加わった。母親と親友の彼女の守りもあって、暫くは襲撃を未然に防ぐことができていた。
オーレリアは歴史家であり、遺跡や遺物を発掘することが職務。自身の夢を叶えたという彼女は、襲撃に備えて大勢の騎士や兵士を従えて発掘調査を敢行していた。
大きいものならば、カルネアス王国東部に伝承として伝わっていた古代民族の地下の大集落の発見。滅亡した民族の生活跡や言語、独特の遺物から様々なことを解明した。
何十代か前の国王スチュアートが死した渓谷で宝剣の捜索をした折には、宝剣こそは発見できなかったが、偶然にも岩肌を彫って造られた隠れ神殿も見つけた。隣国に降臨した女神を祭るもので、隣国からの流民によって建立されたと提示した。
その他も、配下であるルスタリオ男爵家と協力して小さな集落の発見や中世期の国王の遺品などを発掘をしていた。オーレリアの功績は輝かしいものばかり。
しかし、遂に大事件が起こったことで、母親は現場に出向いての発掘調査ができなくなってしまった。
夜間のこと、家族と共に天幕で寝ていたアリーシャは騒がしい声で目が覚めた。隣のベッドで寝ていたロランスも起き、両親が抱き合って天幕の出入り口を覗いているのが見えた。フレデリックが小剣を抜き身で持っていたのも目に映した。
『声を出しては駄目だよ』
父親は小声で言いながらも、唇の前に人差し指を立てる。その顔は険しく、当時では初めて見た怒りの表情だった。
頷いだ彼女は、ロランスに抱き締められながら息を潜める。騒がしい声が争いの声だと気付いていた。天幕の周りで警備をしていた騎士達の気配がないことから、皆、戦地に向かったのだと分かった。
『狙いは、私・・・』
胸を手で押さえた母親の顔をよく覚えている。苦しそうに美しい顔を歪めていて、父親が顔を寄せて慰めていた。
『大丈夫だ、僕達の護衛騎士が優秀なのは知っているだろう?何よりウージェニーもいるし、すぐに鎮圧されるよ。だから、安心して』
『ええ、そうね・・・でも、私が現場に来なければ、このようなことにはならなかった』
結果として、護衛騎士達と警備の兵士達の尽力により襲撃者達は全滅した。何名か生け捕りになったが、目的すら口を割らなかった。黙秘を続ける彼らは、刑務所に送られて相応しい罰を受けている。
この時点でアリーシャは違和感を得た。なぜ、襲撃を受けるのに両親は追求をしないのか。厳しい尋問で口を割らせないのか。
二人は、誰の指示によるものか知っていたからだ。その人物はそれなりの権力と兵力があることで、捕縛することができない。罰することもできない。
アリーシャにはその正体が分からない。ただ、度重なるオーレリアへの襲撃は、主犯であるその人物が母親に懸想しているからだと分かった。美しい母親を強く求めていることで、末端の兵に襲撃を指示している。手に入れるまで何度も襲撃している。
早く捕まればいいのにと、彼女は願う。
オーレリアは自らが行う発掘調査を止めてしまった。身の安全を考慮して侯爵領から出なくなった。領内にいても襲撃を受けるのに、更に安全が見込めない外部に行くことはできない。
それは、母親にどれほどの虚しさを与えているのか。絶望すら感じてはいないか、と。
(お母様は幸せを感じられたことがあるのかしら?)
母オーレリアは決して幸せではないとアリーシャは思い耽り、そのような母の幸せのために、付け狙う邪な者が捕らえられることを日々願っていた。
扉がノックされてすぐ、アリーシャが確認する前に素早い動きでメラニーがローテーブルの側に歩き寄る。視界に捉えたときには、淀みない動作でと紅茶をカップに注いでいた。彼女は声は出さないものの、憂いを帯びた眼差しをオーレリアへと向ける。
母親は頑張って笑みを作って紅茶を一口飲んだ。「ありがとう」と感謝を送り、それでも視線を下ろしてカップの中の褐色を眺めている。
ほんの少しだけ心は癒えたかもしれない。けれど、やはり力ない様子に何かできないかとアリーシャは思考を巡らせる。
そうすれば、再び休憩室の扉がノックされた。アリーシャが振り返ると、騎士が扉を開いた出入り口から、クララが入ってくる。
澄ました顔の彼女は淑女の礼をすると、ツンとした表情のまま背筋を伸ばした。講師から礼法の授業を受け始めて間もないことから、見様見真似でお辞儀をしたとアリーシャは分かった。
後ろから笑う息遣いが聞こえる。オーレリアが笑みを浮かべている。
「お姉さまの言いつけどおりケーキをきちんと食べたので、おかえりなさいのごあいさつにまいりました。みなさま〜、おかえりなさいませ〜」
言い終えると誇らしそうに胸を張り、両親へと歩み寄るクララ。アリーシャが視線で追えば、クララは二人の間に体をねじ込んで座り、当たり前かのように背中を背もたれ、つまり両親の半身ずつに身を預ける。
「・・・完璧な挨拶だったね」
「そうでしょ〜。わたし、しゅくじょですから!」
「フレデリック様、すぐに甘やかさないでくださいませ。クララ、そうね・・・少し淑女らしさが足りなかったわ。これからもマナー講師の方の授業をしっかり聞いて覚えてね?」
「ん〜、かんぺきを目指すのがしゅくじょですから、がんばりま〜す」
のんびりと答えたクララから、果たしてきちんと理解しているのかなど分からない。母親も大分優しく注意していた。末子の彼女には二人とも甘くなっている。否、両親はアリーシャにもロランスにも甘かった。砂糖菓子のような甘さに、彼女と弟は自主的に自身が腑抜けになってしまうと自覚して、姿勢を正したに過ぎない。いつか、あと二年もすれば、クララも非常に甘やかされていると自覚してくれるだろうか。
そうならなければ、たとえ悪役になってでも厳しく指導しなければと、アリーシャは密やかに決意をする。
「でも、丁度いい。アリーシャ、クララ。オーレリアと一緒に休憩をしてくれないかな?僕は執務室で仕事をしなければいけないから、頼んだよ」
「分りました」
「はぁい」
「フレデリック様、私は」
ピョンとクララがソファから飛び跳ねて降りる。行儀の悪さにアリーシャが目を細めれば、その視界には戸惑う母親を優しく制する父親の姿が映った。
「今の君の仕事は休むことだ。大丈夫、視察して気付いた改善点は纏めておくし、今回の処理も終えておく。いつも通り、奴に・・・先方に調査依頼と装った抗議書を送る。どうせはぐらかされるだろうけど、抗議の実績は残しておきたいからね。さて、ロランス」
「はい」
「視察から戻ってすぐに悪いけど、手伝ってほしい。君も書類製作を学んだほうがいいしね」
「分りました、ご指導よろしくお願いします」
まずはフレデリックが立ち上がり、ロランスを連れて休憩室を後にした。すれ違いざま、弟から囁かれた言葉をアリーシャは胸に留める。
『母上は見た目以上に弱ってらっしゃる。頼んだ』
頷いた彼女は、先に行こうとするクララを抱き留めて、暗い顔のオーレリアに微笑みかけた。
「行きましょう、お母様。本日は図書室で読書などどうでしょう?中世期の平民社会をテーマにした歴史小説を購入されたと聞いています。ぜひ、拝読したいです」
読みたいのは本心。ただ、落ち込む母親に気持ちを切り替えてもらおうという下心もあった。
アリーシャの言葉にオーレリアの伏せがちだった顔は上がり、表情は緩んでいた。
「そうね、皆で読書の時間にしましょう。クララには是非読んでほしいご本があるわ。マナーについてのものだけれど・・・分かるかしら?」
母親の目は、アリーシャの腕の中で逃げようと悶えるクララに向けられる。暴れる彼女にオーレリアは声を漏らして笑って、アリーシャは少しの憤慨から顔を顰めた。
「分からせます。マナーが中途半端では貴族社会で笑われますから。椅子から飛び降りるなんて以ての外、ご挨拶も適切なタイミングと言葉があるって分からせます!」
「もう!お姉さまだって町に遊びに行くときには走ります!はねたりもしてます〜!わたしはお姉さまと同じことをしただけです〜!」
「時と場合があるの!」
嫌がったクララは体を捻ってアリーシャの手から逃れた。駆け出した彼女は、騎士が慌てながら開いた扉を潜り、走り去る。
「待ちなさい!」
感情のまま注意をすれば、オーレリアは声を漏らして笑った。側に控えるメラニーも微笑んでいて、和やかな雰囲気が漂う。
「あなたもクララも元気一杯だわ。私の娘なのにこれほど活発なんて・・・フレデリック様に似たのかしら?私と違って運動されるもの」
母親は腰を上げて、優雅な足取りで彼女の脇に立つ。少し顔を見上げれば、同じ紫色の瞳は優しさを湛えていた。
「クララを捕まえましょう。そうね、これは追いかけっこよ」
「されたことはあります?」
「あります・・・今のあなたよりも小さいときにだけれど」
やや罰が悪そうに答えたオーレリアは、アリーシャの手を取り、握り締めると歩き出した。母親に手を引かれながら、彼女ら休憩室から出る。中庭を縦横無尽に走るクララ。止めようと追いかけたり、驚きながら見守る侍女や騎士達を目にしながら、アリーシャの口元には笑みが浮かんだ。
クララを捕まえて図書室に向かったアリーシャだったが、母親の様子がおかしいと気付いた。血の気の引いた顔色。胸元を手で押さえていることに、吐き気を耐えていると分かった。やはり襲撃が堪えているのではと、控えている従者に医師を呼ぶように頼む。
イルブラスの病院からやって来た医者は、その場でオーレリアを診察した。怪訝と眉を寄せ、母親の脈と体温を触診で測る。彼女がもう少し精密に診察をしたいと言ったことで、オーレリアは寝室に運ばれた。母親の侍女でもあるメラニーも介助として一緒に寝室へ行ってしまった。
室外で待機をしているアリーシャは、何かしらの病を患わったのではないかと顔を青くさせ、腕に抱き留めているクララも泣きそうな顔をしていた。
不安で胸が張り裂けそうだが、他の目もあることで表情に出さないように努めた。そして、寝室の扉が開かれたことで動揺で揺れる紫色の瞳を医師に向ける。先程と打って変わって表情を緩めた女性医師が診断結果を告げた。
「妊娠、ですか?」
「はい、ご懐妊から一ヶ月は過ぎていらっしゃいます」
「お、お父様を呼んでください」
従者に告げれば、一礼をした彼は足早に歩き去って行った。ホッと一息付く。不安は払拭されて、新たに子供を宿した母親へと温かい気持ちが溢れていく。
「にんしんって、どんなご病気?」
身を寄せ合っているクララへと視線を落とす。不安と歪めた顔、紫色の瞳は湛えた涙で潤んでいた。
アリーシャは微笑むことで、小さな妹の不安を拭い去ろうとする。
「病気ではないわ。お母様はね、お腹の中に赤ちゃんがいるの。私達の妹か、弟がいるのよ」
「ほんと〜!」
丸くなった目から、一筋だけ涙が流れた。一変して喜ぶクララをしっかり抱き締める。
そのあとすぐ、フレデリックがロランスを連れてきた。僅かに肌に汗が滲んでいることで急いで来たと分かる彼は、すれ違いざまにアリーシャの頭を優しく撫でる。
「ああ、アリーシャ。医者を呼んでくれてありがとう、アリーシャ。クララも、オーレリアを心配しただろう?もう大丈夫だから安心して、大丈夫だ。大丈夫」
「お父様、落ち着いてくださいね」
「分かってる、分かってるよ・・・オーレリア!」
寝室の扉を開いたフレデリックは、明るい声でオーレリアの名前を呼び、急いで歩み寄ることで扉から手を離した。大きな音を立てて閉じた扉の向こう。父親の喜ぶ声と、母親の慎ましやかな声が聞こえる。
「クララを妊娠したときと同じくらい喜んでいる」
「何を言っているの。あなたを妊娠したときも大喜びしていたわ。あまりに騒がれるからよく覚えているもの」
「お前の記憶力はどうなっているんだ・・・父上も、もう少し落ち着いてほしい」
そう言うロランスの口元は緩んでいた。喜びが隠し切れないと分かる。
「早く会いたいわね」
「お姉さま、お母さまにおねがいしたら、赤ちゃんを妹にしてくれますか?」
「そんな簡単に性別は決まるわけがないだろう」
姉弟達はフレデリックに呼ばれるまで、並んで寝室への扉を眺めていた。
心が同じだと分かっている。新しい命が芽生えたことを喜び、無事に生まれてきてくれることを願った。
オーレリアは悪阻が酷く、心配したフレデリックによって妊娠休暇となった。アリーシャは他の姉弟達と一緒に、母親の見舞いや介助をする。病気ではないから、と青い顔で儚く笑うオーレリアだからこそ支えたかった。
ある日、領主代行として政務を行う父親から、外出禁止を言い渡される。何も知らないクララは不満と声を上げたが、理由が分かるアリーシャは母親に心配かけまいと笑顔を心掛けた。
オーレリアに何か、妊娠や出産などの慶事が外部に漏れれば、彼女を狙う襲撃が激化する。慣れるべきではないが、慣れてしまった領内の憲兵や騎士達が巡回により、武装した集団や不審者を取り押さえられる。中には領主館や屋敷までの警備を掻い潜り、侵入を試みる者達もいるが、フレデリック自らが指揮をして鎮圧していた。
今回の外出禁止令も、領都に怪しい一団が確認されたからだ。子供達が巻き込まれないように父親が急遽の措置を取ったのだとアリーシャは理解する。
「すぐに捕まるかしら?」
「ユーディット侯爵領の憲兵団と騎士達は捕物に慣れていますので、確実に捕らえるでしょう」
今よりも幼いときに護衛騎士となったロイが答えてくれる。アリーシャは、二階にある図書室の窓から外を眺めていた。しっかりと武装をした物々しい憲兵達の巡回を目に映しつつ、溜め息を漏らす。
「はあ・・・私が遊びに行かないことで、お母様も何事か起こっていると分かってしまわれるわ。心労を与えたくない」
「・・・」
ロイが何も答えないことから、逆に言いたいことがあるのだと最近理解できた。アリーシャは流し目で彼を見ると、無表情を崩さず佇む姿が見える。本心を晒すつもりのない完璧な騎士に、彼女は口を尖らせた。
「生まれるまでには落ち着いてほしいものだわ」
そっと呟いて、再び窓の外を眺める。
日を追うごとに領内の検挙率が上がり、終息に向かったのは六ヶ月後のこと。アリーシャは行動の制限を受けたことを不満に思っていたが、安定期に入ったオーレリアと過ごして気持ちを清算していた。
母を狙う邪な者の手先は、冬の季節に入ったこともあってか、姿を見せなくなった。カルネアス王国の北西部は僅かながら雪が積もる。襲撃者達には不慣れだろうと、何か知っている父親の護衛騎士カインが言っていた。
今は穏やかな気持ちのアリーシャ。オーレリアとクララと、やや嫌がるロランスと共にサロンでお茶をしている。
「お兄さま、それをいただいても〜?」
「駄目だ、人の皿から菓子を取ろうとするな」
弟達のやり取りに笑みを溢しつつ、妊娠で腹の膨らんだオーレリアの様子を窺う。締め付けのないゆったりとした橙色のドレスを着た母親は、和やかな雰囲気を纏っている。
ほぼ軟禁に近い生活を強いられていたのに、心に負荷がかかっているとは見受けられなかった。
(良かった)
安堵の息を漏らし、明日こそは領都に遊びに行こうと思考を巡らせる。
そうすれば、侯爵家の執事から入室を願う声がかけられた。母親が答えると、少し顔を顰めた執事が入室して封書を手渡す。
「国王陛下より送られました」
「ありがとう・・・・まあ、新年祭の招待状だわ」
蝋封をされた封書を開いたオーレリアが、中の手紙を改めたことで言葉を漏らす。戸惑いのある表情を浮かべた彼女は、気を紛らわせるように膨らんだ腹を優しく撫でていた。
カルネアス王国の国王はアリーシャ達の祖父に当たる。会ったのはニ度ほど、ロランスとクララの出産見舞いで来訪されたときに顔を合わせた。筋肉逞しい大きな人という印象を受けたが、恐怖すら感じる巨躯からは想像が付かないほど、幼かった彼女に優しく接してくれた。母親に似たことで今後が心配だと言われたが。
つまり、アリーシャは今まで王城で開かれる新年祭に参加したことがない。ユーディット侯爵領の階級隔たりなく皆でお祭り騒ぎとなる新年祭には、何度か参加している。
(ラスローお祖父様に会いしたい、ルヴァン公爵家にも顔を見せたいわ)
王城のある王都には母方の祖父母もいる。まだ五歳の叔父もいる。片手で数えられるほどしか会ったことがなく、少しの寂しさを得ていた。
「・・・」
招待状を読み込んでいたオーレリアが椅子から腰を上げる。子供達に一言「このままお茶をしていてね」と告げると、サロンから出て行った。
アリーシャは食べかけのチーズケーキに手を付けず、母親が出た扉を見つめる。
「お姉さま、そちらのケーキいただいても〜?」
「人の食べかけを貰おうとするな・・・アリーシャ、どうした?」
「ええ・・・お母様が動揺されていたから気になったの」
「今年はどんな文言で誘ってきたんだろうな・・・何を言われても父上は王城の新年祭に行かないというのに」
「ねえ〜ぇ、お兄さま!チーズケーキが食べたいです〜!」
強請るクララに溜め息を漏らしたロランスが、トングを使って彼女の皿の上にケーキを乗せる。目を輝かせて頬張る姿を横目につつ、胸騒ぎがするアリーシャは食欲が失せていた。
ユーディット侯爵家は他地域の新年祭には足を運ばない。それはフレデリックが取り決めたこと。常に狙われるオーレリアの安全を考慮しての措置だが、そうでなくとも絶世の美女と謳われる母親は人を惹き付ける。新たに邪な感情を抱く者が現れると考えられたからだ。
そして、それはアリーシャにも適用されている。母親にそっくりな容姿、つまり同様に人を惹き付けてしまうから。美貌の噂だけで求婚状は絶えない。偶然目にできた者がのぼせ上がり、領主館に乗り込んできたこともある。
彼女は、いずれ母親のように人を虜にする魔性の女となると言われている。悪意すら感じるその言葉は、本人の耳にすら届いてしまっている。
「侯爵領の領民達は私達を見ても変なことにならないのに」
「妙な気を起こした奴はお前が気付く前に捕まっているだけだ。お前は王家の血が流れる高貴な侯爵令嬢としての自覚がない。母上にそっくりな顔をしているのに危険予知能力が正常に働いていない」
「小言は止めてちょうだい」
顔を顰めて睨み付ければ、ロランスも目を細めて睨み返してくる。久し振りに喧嘩をしようかと、アリーシャは腰を上げた。
だが、言付けとして家令がやって来たことで口喧嘩すらできなかった。
「旦那様の決定で、来年は王城の新年祭に参加となりました」
彼女は目を丸くし、家令からロランスへとその目を向ける。同様に、珍しく目を丸くするほど驚いている弟。ちなみにクララは、チーズケーキを食べ終えることが急務だと、よく味わって食べていた。
「まあ、本当に似合うわ!昔のオーレリアを見ているかのよう・・・」
年明け前に王都に移動したアリーシャ達は、ルヴァン公爵家のタウンハウスにやって来た。祖父母と小さな叔父と新年を迎え、本日は王城の新年祭に参加する。カルネアス王国のラスロー国王陛下に拝謁することになる。
優しい祖母と母親と一緒に拝謁の為のドレスを選んでいた彼女。昔、オーレリアが新年祭で身に着けたというインディゴブルーのドレスを合わせられた。お抱えの仕立て屋によってデザインを少し変えたことで、少々古風だったドレスは流行りの形を取り入れている。
「とても美しいわ。自分の子に、このドレスを着せることが私の夢だったの」
後ろに立つ母親が、烏の濡羽色の髪を梳かすように撫でる。「黒髪がよく映える色ね」と、うっとりとした声で言うと、侍女達に似合う装飾品を選んで欲しいと頼んでいた。
されるがままのアリーシャは、退屈から息を吐き、窓から見える冬の中庭に視線を向ける。窓枠でよく見えないが、中庭には子供が二人。クララと叔父のエドワルドが、花のない花壇の土を使って山を作っていた。その光景を冷たい美貌のスマートな紳士、つまり祖父が見守っている。
エドワルドは、後継者不在となってしまったルヴァン公爵家の念願叶って生まれた子供だった。オーレリアとは二十五歳差の弟。姉弟というよりは子供に近い。実際、再会を果たした母親は可愛らしいとエドワルドを抱き上げて頬にキスを送っていた。フレデリックが嫉妬するほど抱き締めていた。
本来の後継者、アリーシャも目にしたことがない伯父アルバは、ルヴァン公爵家から絶縁されている。婚姻式でオーレリアを連れ去ろうとしたことで、祖父が見限ったそうだ。今はどこにいるのか分からない。フレデリックも、見ず知らずの伯父などいないとアリーシャに告げた。
「可愛いわ、アリーシャ」
「ああ、非常に美しい子だから心配だわ。他の方々が目にされたら、きっとその場で求婚をされてしまいます」
母親と祖母の声に意識を引き戻される。アリーシャが正面を向けば、緩く巻かれた烏の濡羽色の髪はハーフアップにされ、その髪と銀細工の蔓の髪飾りが絡むように飾られている。胸元に煌めく楕円形の銀のペンダント。二の腕まで覆う黒手袋がはめれて、全体を引き締めて見せる。
「まるで夜の女神のよう」
祖母から熱を帯びた眼差しが向けられる。母親が美しい容姿となった原因の人が、魅了されたかのように見つめていた。
「私が夜の女神でしたらお祖母様も女神です。私達、そっくりですもの」
「まあ!嬉しいことを言ってくれるのね!私はもうお婆ちゃんなのに」
母親と姉妹だと言っても納得される若々しさの祖母は、両手で頬を包んで恥じらっていた。
彼女の所作から、母親のおっとりとした性格が形成されたのだとアリーシャは理解している。
喜ぶ祖母を眺めていれば、宿泊のために充てがわれた部屋の扉がノックされた。オーレリアが入室の許可をすると、フレデリックとロランスが入ってくる。
母親の色を持ち、父親に似た容姿の弟は、灰色の礼服姿が様になっている。黙っていれば本当に美少年だと、彼女は残念に思った。
そして、父親も鍛えているからこそ黒い礼服がよく似合い、眼帯も相まって精悍さを際立たせている。物語に出てくる王子様ではなく、屈強ながら美貌を誇る騎士といったところ。
「髪の色が同じだったらオーレリアと間違えていたな。綺麗だよ、アリーシャ。その深い青のドレスもよく似合っている」
「ありがとうございます、お父様」
「見た目だけなら儚そうなのにな」
「何か言いましたか、ロランス?」
それぞれに言葉を送る。フレデリックはにっこりと笑っていたが、ロランスは無言でそっぽを向いた。可愛げのない弟に何か言ってやろうと、アリーシャは青のパンプスで踏み込む。
そうすれば父親とすれ違い、目線で追えば母親の下に向かったと分かった。
オーレリアの身に着けているのは明るい橙色のドレス。首から手首まで細やかなレースで肌を隠しているが、妊娠していることで腹部の締めつけはなく、スカート部分がゆったりとしたドレープで非常に優雅だった。形容するならば、まさしく女神だろう。
寄り添う両親。特にフレデリックは熱っぽい眼差しを向けて、愛情を隠すことなく、オーレリアの手を掬い取って触れている。彼女も、穏やかに微笑んで求愛するかのような彼を見つめていた。さながら、愛を乞う騎士とそれに答える女神のよう。
(・・・なんて美しいの)
自身の両親ながら感じ取ったままの感想を内心で呟く。
想い合う麗しい夫婦。きっと芸術家達が目にしたら、後世に残すべきだと腕を振るうだろう。
何とも美しい光景にアリーシャはうっとりしていて。
「間抜け面を晒してるぞ」
余計なことを言ったロランスを殴ろうと拳を振り上げた。すぐさま祖母に言葉で止められて、未遂で終わってしまったことを悔しがる。
支度を終え、ルヴァン公爵家共に王城に向かう。なぜ父親が新年祭の招待に応じたのか分からないが、一抹の不安は感じている。ユーディット侯爵領よりも遥かに母親への警護が不足になることで、つけ狙う邪な者が魔の手を伸ばすのでは、と。隣に座るオーレリアの安全を思うアリーシャの乗る馬車は、妨害されることなく王城への道をひたすらに進んだ。
高台に造られた王城を窓から仰ぎ見たアリーシャは、馬車が車止めに着くと、フレデリックの手を借りて降りた。家族と共にルヴァン公爵家の後を追うように続く。
先に階段を上がっていた貴族も段差の上で止まり庭を眺めていた貴族も、ルヴァン公爵家の面々に挨拶をすると、アリーシャ達、ユーディット侯爵家に気付いた。
「おお、第二王子殿下だ」
「すでに臣籍降下をされている。確か、ユーディット侯爵家に婿入されたはずだ」
「ユーディット侯爵・・・何て麗しい方だ」
「王太子殿下だったグレナディア辺境伯すら魅了した女性だ。あれほどならば、心奪われても仕方ない」
聞こえる囁き声に不快に思って眉を寄せれば、知らない名前を耳にした。アリーシャは立ち止まり、並び立っている男性貴族達に顔を向ける。
彼らは美貌の侯爵令嬢に見つめられたことで目を見開き、そして顔を赤らめた。
「ユーディット侯爵によく似てらっしゃる。あの方こそアリーシャ嬢では?」
「ユーディットの秘められた花を目にできるなんて、我々は運がいい」
彼女のことしか話さなくなってしまった。声をかけようとする素振りすら見せられて、離れるために足早に階段を登る。
「流石はオーレリア様とフレデリック元第二王子殿下のお子様達。全員容貌麗しく、今後のご成長が楽しみですね。目を見張る美男美女となるでしょう」
「私の子と結びつけたいものだわ」
正門前にいた婦人二人の声。品定めの言葉にアリーシャは苛立ちすら感じて、思わず駆けてしまった。
「ああ、危ないな。そんなに急いでは転んでしまうよ。ほら、手を取って」
最上段で待ち構えていた父親が手を差し出す。弁えず感情に従ってしまったことに、彼女は頬の染まった顔を伏せた。
「申し訳ありません。気持ちが急ってしまって、思わず・・・」
「ここはユーディットじゃないんだから大人しくしろ。中身が知られれば嫁の貰い手がなくなる」
「嫌味を言うのはやめるんだ、ロランス」
「お父さま!あれ、あの絵はなんでしょ?すきです!もっと近くでみたい〜!だっこしてくださ〜い!」
「こちらのお姫様が我儘を言い始めたな」
苦笑しながらも視線を向けているフレデリックに頷いて合図をすれば、彼はクララを抱き上げて壁にかけられた絵画を見せた。
その隙にロランスを睨み付けていたが、フレデリックから離れたオーレリアが近付いてくる。母親は、白くほっそりした手を差し出した。
「では、私と一緒に行きましょう」
優しい笑顔を向けられたことで、反射的に手を向ける。アリーシャの手は弱い力で握られて、寄り添ったオーレリアと共に廊下を進んだ。
「人の目が気になるでしょう?私も子供の頃はそうだったわ・・・見られることで苦痛を感じる気持ちも分かります。国王陛下の拝謁が終わり次第、ご用意していただけた客室で休みましょうね」
母親の穏やかな声が気持ちを和らげる。ほっと安心感を得ながらも、先ほど聞いた名前が気になった。
(グレナディア辺境伯・・・辺境の防衛を任されている貴族の方。聞いたことがないから、ユーディット侯爵領からは遠い地の防衛をされている方よね・・・国の南部かしら?)
母親の発掘調査に連れて行かれたとき、南部だけは行かなかった。南部の地方都市には、カルネアス王国が拝するクヴァネス神ではない神の神殿遺跡が存在するようだが、両親とも当時の発掘に携わったからと近付きもしなかった。
(引っかかるわ)
何かあるのではと脳裏に過ぎり、探るように思い耽ようとすれば、オーレリアが立ち止まった。
意識を引き戻されたアリーシャの目に、両開きの扉が映る。左右に騎士が控えていることから、謁見の間の扉だと気付いた。
兵士によって開かれた扉の奥、深紅の絨毯の終わりにある段差の上に彼の人がいる。そこには玉座は二つあるものの、一つは無人で王妃の玉座だと分かった。アリーシャの祖母に当たる王妃は、数年前から精神的な負担を理由に公の場に姿を現さなくなった。
その無人の玉座の脇には、小麦色の髪と赤い瞳の目をした青年が立っている。真っ直ぐとこちらに顔を向けているのは王太子エイダン。伯父に当たるエイダンだとアリーシャは分かった。
彼女は家族と共に通路のような内部を進み、三段の段差の手前で止まる。その上に宰相が控えていているが、心なしか疲れ切った様子が窺えた。アリーシャの顔はそこか更に二段ある段差の上に、玉座の国王へと向かった。
父親のフレデリックとは違い、精悍な顔立ちの筋肉逞しい大柄な男性ではあるが、烏の濡羽色の髪にはちらほらと白髪が混じっている。以前よりも老いたと感じた国王の眉間にある深い皺は、長年浮かべていたと表すようにくっきりと刻まれていて、早い話が恐ろしさを与えられるほど強面だった。
アリーシャの脇にいるクララは、初対面ゆえに分かりやすく震えていた。それでも泣き叫ばないのは、相手がこの国の最上位の人間だと理解しているからだろう。
前にいる両親が臣下としての礼をする。アリーシャとロランスも続き、一瞬の間を置いてクララも辿々しく頭を垂れる。
「オーレリア・エドナ・ルヴァン、只今参じました。新年を迎えたことで、ラスロー国王陛下にご挨拶を申し上げます。今までのカルネアス王国の平穏は国王陛下の御尽力の賜物。新たなる一年も、国王陛下のご威光により平穏は約束されたものと存じます。我らユーディット侯爵家は偉大なる国王陛下へと変わらぬ忠義を捧げ、カルネアス王国の繁栄の一助となることをお約束いたします」
「・・・私、フレデリック・ダリオ・ユーディットは、妻であるユーディット侯爵を支え、ラスロー国王陛下の臣下の一人として変わらぬ忠誠を捧げます」
両親の挨拶を聞いた国王は「面を上げよ」と重々しい声で告げた。言葉を受けた二人が姿勢を戻すと、アリーシャが続き、ロランスとクララも顔を上げる。
彼女の目は祖父である国王へ。深く息を漏らした国王は、玉座の肘掛けに肘を乗せて、体を傾けると頬杖を付く。時折、フレデリックも見せる少々だらしない態度に血の繋がりを感じた。
「臣下としての拝謁は終わりだ・・・よく参ったな、フレデリック、オーレリア。俺の孫である子供達もきちんと引き連れて・・・ああ、その幼子はクララか。赤子の時に目にしたきりだったな。非常に可愛らしい娘である、フレデリック・・・いや、アルマによく似ている」
ここにはいない王妃の名前を呟くように言うと、国王は一瞬目を伏せて、すぐに鋭さのある眼差しを向けてきた。母親を、オーレリアを見ている。
「長子のアリーシャはそなた似の美しく品格のある娘に、後継者となるロランスはフレデリックに似た聡明な美男子。愛らしいクララも健やかに成長し、腹には新たな子が宿っているという。ユーディット侯爵家の繁栄に翳りはないな」
「・・・はい。フレデリック様の支えによって、我が侯爵家は成り立っていると言っても過言ではありません」
「子を生み育て、領地の繁栄に尽力する手腕はそなたの力でもある・・・男を惑わす魔性でなければ、より評価を受けていただろう」
母親を蔑むような発言にアリーシャは凍り付いた。国王陛下の厳しい眼差しも受けるオーレリアが、どのような表情を浮かべているのかなど、後ろにいる彼女には分からない。
男を惑わす魔性。確かにそれはオーレリアの性質ではある。今までのことが物語っている。国王がアリーシャに向かって母親似を嘆いたのも、それが要因だと分かる。
ただ、言い過ぎではないかと憤りを感じた。臣籍になったとはいえ息子の妻。義理の娘に対して言っていいことではない。
「陛下」
思わず声を上げようとすれば、聞いたことのない低音で父親が呼ぶ。明確に怒っていると分かり、彼女は吸い込んだ息をゆっくりと、誰にも気付かれないように吐いた。
「言うべきではない言葉があると以前にも話したはずですが、忘れてしまったようですね」
「そう怖い顔をするな・・・オーレリア、不快な思いをさせた。すまなかったな」
「いえ、私は自身が如何に他者に影響を及ぼすのか、これまでの経験で身に沁みております。ですから、国王陛下が憂いを感じられるのは尤もでしょう。私は変わらずユーディット侯爵領にて国の繁栄に貢献させていただくつもりです。この数年は家業である発掘調査も儘ならない状況ですが、領地のために職務を全うすることが、巡り巡ってカルネアスの礎となると信じております」
淀みのない真っ直ぐな声。鈴の音のような可憐なその声は、決して大きくもないのに謁見の間に響き渡った。
「・・・本当にすまなかった。言葉が過ぎた」
ただ、母親の声では拭えないほどアリーシャは重苦しい空気感を得る。最上位の人が謝罪を述べることで異様に感じた。アリーシャは声を発することもできないが、何か、オーレリアには何かがあると思う。人を、特に異性を惹き付けてしまう母親。十年以上も身を狙う何者かがいて、グレナディア辺境伯という人物も魅了したと貴族達が話すほど逸話に残っている。
(お母様は人目に触れてはいけない人。ご本人にそのつもりがなくとも魔性の女性で、何人もの男性を魅了したから領地から出ることをしない。領地であれば比較的に安全。それでも、美しいお母様を狙っている方がいる。侯爵領に刺客を差し向けて奪い取ろうとしている・・・お母様に本当の自由はない。目にした他者が欲望から手を伸ばすから、お父様に守られて生きていかねばならない)
母親は、幸せを感じたことがあるのだろうか。
いつも感じていた不安を、この状況下から強く感じてしまう。
「王命まで下してそなたを、ユーディット侯爵家を王都に招いたことも詫びる。すまなかった・・・孫を見たかったのだ、フレデリックの様子も、そなたが無事だという確認もしたかった」
「フレデリック様のおかげで本日まで無事に過ごすことができました。私の子供達も、ご覧の通り健やかに成長をしております」
「それは、そうだが・・・カルロが、グレナディア辺境伯が依然そなたを想って」
「国王陛下、ユーディット侯爵家の子女達の前です。その話題はお止めになられたほうが賢明でしょう。兄上が非常に憤りを感じていらっしゃる」
爽やかな美声。フレデリックよりも高いその声は、エイダン王太子から紡がれたものだった。
真顔で静観していた彼は、人好きのする穏やかな微笑みを国王に向け、次にアリーシャ達を、おそらくはフレデリックに向けた。
前にいることで表情の見えない父親が、分かりやすく溜め息を漏らす。エイダンの諫言もあってか、国王の険しい顔も緩んだ。
「そうであったな・・・王都から遠く離れたユーディット侯爵領から出向いてくれたことを感謝している。孫の元気な姿も目にすることができた。そなたらユーディット侯爵家には、事前の通達通り客室を用意している。そちらで新年祭を祝うが良い」
「兄上には残っていただきたく思います。久方ぶりにお会いできたのだから積もる話もあるというもの。お願いできますか?」
「・・・勿論です」
弟であるエイダンに臣下の礼を取ったフレデリック。すぐに頭を上げて、三段の段差を上って控えた。やっと父親の顔を見ることができたアリーシャは、怒りなどないと取り澄ました顔に違和感を覚え、それでも一言も発さずにいた。
退室の言葉を送った母親に続き、謁見の間をあとにする。順番が最後となったルヴァン公爵家とは、すれ違いざまにオーレリアが客室にいると伝えていた。
頬が染まった近衛騎士達に案内された客室は、他国からの賓客をもてなすための一室で、バルコニーから王都や王城の庭園を眺めることができた。
景色の良さにクララが興奮して欄干から身を乗り出すのを、オーレリアとロランスが止めている。王城の使用人から軽食が用意されると聞かされたアリーシャは返事をしつつ、腕白なクララの肩をしっかり掴んだ母親を眺めた。
何をするにも美しい人は、だからこそ人の心を奪ってしまうのか。その内面は生真面目で清らか。非常に落ち着いていて、他者を惑わすような性格ではないのに・・・いや、だからこそ惑わせてしまうのか。
最上の美を持ち、邪心などない澄んだ心根だから人は引き寄せられてしまうのかもしれない。
「アリーシャ?」
「ぇ・・・あ、はい!ごめんなさい、お母様。考えに耽ってしまってぼんやりとしていました」
「まあ、そうなの?そうね・・・アリーシャは初めての拝謁で、荘厳な王城にも威厳のある国王陛下にも驚いたのでしょう?放心してしまうのは仕方のないことだわ」
気が付いたらオーレリアの顔は眼前にあり、驚いたアリーシャは慌てながらも反応した。その様子を咎めることのない優しい母親は、穏やかな言葉を紡ぎながら彼女の後れ毛を後ろに撫で付ける。
「軽食が手配されたと聞いたわ。王城のお食事もお菓子も、とても美味しいから沢山いただいてね?」
「おかし〜?お母さま!早く食べたいです!」
抱き上げられているクララが反応を示したことで、オーレリアは楽しそうに笑った。
その感情は一時のものではないかとアリーシャは心を暗くする。
「お母様、あの」
「あ!おかし!おかしがきました!」
「駄目ですよ、お仕事をされた方に失礼だから・・・ありがとうございます」
「ありがとうございます〜」
恐縮だと緊張をする使用人がテーブルにサンドイッチや各種パイ、様々な焼き菓子とケーキ類を並べていく。侯爵家では目にすることのないテーブルから溢れるほどの食事に、アリーシャは少し引いて、クララは目を輝かせて、バルコニーに至る扉を施錠したロランスは呆れと溜め息を漏らした。
三者三様の反応に、オーレリアはまた楽しそうに笑ってくれる。楽しいと思っているようで、だからこそアリーシャは心が傷んだ。
(一時でも楽しく思っていただけるのなら)
彼女は追求の言葉を飲み込む。今、微笑む母親に言うべきではないとテーブルの食事に目を向ける。心に不調をきたすことを恐れて、口を噤むことを選んだ。
用意された食事を口にしつつ、取り留めのないことで談笑して、アリーシャは穏やかに過ごしていた。
途中、拝謁を終えたルヴァン公爵家のエドワルドが寂しいからとクララを呼び、庭園に向かうことでロランスが見張り・・・見守りのためについて行ってしまう。
フレデリックはいまだ戻らず、オーレリアと二人きり。ソファに座る母親は優雅な所作で紅茶を飲み、顔を綻ばせていた。危ない真似をしかねないクララがいないことで、アリーシャは開放感のあるバルコニーに出る。
真っ青な空、その下で広がる整然とした王都の町並み。欄干から下を覗き込めば、王城の整えられた空中庭園で憩う貴族達が見える。ミニチュアの人形サイズの大きさで見えづらいが、ロランスとクララがいるのではないかと彼女は凝視した。
「そのように真剣に覗き込んだら落ちてしまうわ」
後ろからオーレリアの声が聞こえる。焦った声色から心配をさせたと分かり、急いで背筋を正した。
「お母様、ごめんなさい。ここから空中庭園が覗けると分かって、つい観察などをしてしまいました」
「王城の庭園は見事ですものね。あなたが気になってしまうのは分かります・・・庭園に、降りたいかしら?」
躊躇いのある口調にアリーシャは首を傾げたが、確かにロランス達の姿以外にも動物をモチーフに剪定された木や、精巧で美しい彫像も気になる。間近で目にしてみたいという好奇心が湧いてきた。
「行ってもよろしいですか?」
オーレリアから許可を貰ってから行こうと尋ねる。何気なく聞いたつもりだった。
「・・・伺うのは、止めておいたほうがいいわ」
「え?」
予想外の言葉にアリーシャは理解が及ばず、声を漏らすだけ。
今まで母親は、彼女の行動を制限するようなことを言うなど一度も無かった。思い付きで領土に遊びに行きたいと言えば、護衛をしっかり付けるようにと注意を促すことはあった。登山したいからと山間部を目指そうとすれば、身の危険を感じて準備を手伝ってくれていた。
それなのに、警備の騎士が配置された安全な王都の庭園であるはずなのに行かないことを勧められる。なぜなのか。
「アリーシャ、あなたは私に似ている。髪の色が同じだったら殆ど私そのものになります。あなたも、入城をする前に他家の方々から注目を受けたでしょう?密やかな声で囁かれていたでしょう?あのようなことは、まだ良い方なのよ・・・あなたが庭園に降り立てば、他の方々はあなただけを見つめる。何をするにも目で追って、話しかけようと近付いて・・・隙を見せれば捕まえようとします。私は以前参加した王城の新年祭で、とある方に追い詰められたことがある。あなたにも、そのような方がいないとは言い切れないわ。人の欲望というのは、曝け出されない限り他人には分からないのだから」
「・・・そうですね」
母親と似た容姿だから危険な思いをする確率は高い。母親がそうだったのだから、アリーシャとて狙われる可能性がある。ユーディット侯爵領以外では、自身の身も危険に晒されると彼女は思い出した。
他の貴族令嬢より運動をしているからといっても、自分が非力だと理解している。同年の少年にすら敵わず、捕まれば振り解くことすら困難極まるだろう。
アリーシャは溜め息を漏らすと、欄干に両腕を交差して乗せ、そこに自身の頭を乗せた。体格のせいで非力な自分に嫌気がさしている。
「・・・体を鍛えたいわ。そうすればロランスは勿論、他の貴族の男の子達にも負けないのに」
「まあ・・・」
小さな呟きだったが、オーレリアの耳には届いたようだった。驚きから漏れた声を聞きつつ、再び溜め息を漏らす。
「鍛えて騎士のようになれば、誰も私を侮らないと思います。強そうだと、話しかけることすら止めるはずです」
「・・・そうね。今のアリーシャを同じ年の頃の私と比べてみるけれど、体付きがしっかりしているから武術を習えるかもしれないわ。私は骨も細くて体格も華奢だったから当時の護衛騎士・・・ほら、私付きの騎士のベルベットは分かるでしょう?彼女のお父様が以前の護衛騎士だったのだけれど、鍛えるのに適さない体格と言われたの。怪我をするから止めてほしいとも言われたわ」
「では、私がその気になれば、お父様みたいになれますか?」
「まあっ!ふふっ・・・フレデリック様は男性の中でも逞しい方だから、そうね・・・あなたのお祖父様、ルヴァン家のお祖父様くらいにはなれるかしら?」
「う〜ん・・・」
細くはないが、逞しくもない祖父の姿を浮かべる。ただ、女性に置き換えればスマートでスタイルのいい見惚れる体格だと思い、アリーシャは頷いた。
「では、まずはルヴァン家のお祖父様を目指して体を鍛えます!ユーディット侯爵領に戻ったらロイや、ああ!教官をされているミオにお願いしてもよろしいですよね?しっかり筋肉を付けて、剣術を学んで、そして」
彼女が振り返れば、優しい笑みを浮かべて頷いているオーレリアの姿が映った。
「私が、お母様を守るわ」
「ん?何かしら?」
最後の呟きは小さく囁いて、それでも強く決心をした。口にしては心配するだろう美しい人を、守るための強さを手に入れるために。
「・・・お姫様を守る騎士のようになりたいです」
「私のお姫様は騎士様になりたいの?素敵なことだわ。あなたなら・・・あら?」
会話の合間に客室の扉がノックされた。オーレリアは振り返り、アリーシャも欄干から離れて室内へと足を進める。
「フレデリック様が戻ってこられたのかしら?それとも、ロランス達?」
アリーシャが室内に入れば、オーレリアは腰を上げ、扉に向かって体ごと振り向いた。彼女は一歩踏み出した。応答しようと踏み出したが、許可を口にする前に扉は開かれてしまう。
室内に戻ったアリーシャは、ガラス戸に手をかけたまま唖然としていて。
「あ、あなたが、どうして!!」
震えた声を上げた母親が、恐れるように後退る。
勝手に扉を開いたのは艷やかな烏の濡羽色の髪の男性。王家の色である赤い瞳の目は涼しげだが、精悍で非常に整った顔立ちから甘さは感じない。むしろ、力まなくとも眉間に皺があることで強面な顔に見えて、祖父である国王にそっくりな顔だと分かった。
驚くほど長身で、筋肉逞しいと礼服を着ていても分かる巨躯の男性は、オーレリアを見つめながら薄い唇を笑みで歪める。




