【番外編】花恋慕
そのまなざし
その声
その存在すべてに
心奪われ
欲していた
沈丁花の香りは
私の心にも
恋を芽生えさせた
◇◆◇◆◇◆◇
「たしか葵も来てるんだよなぁ」
庭を眺めポツリと少年は呟いた。
左大臣家の別邸へ、わずかな従者を連れた『お忍び』。
だが、左大臣も母上も知っているんじゃ。
これは立派な『お出かけ』だよなぁと、少年は心の中で、苦笑いをしていた。
そんな彼の呟きに、従者の中では一番年老いた、お目付役でもある清原重綱が前に進み出て進言する。
「葵の君様は、大納言家の姫君を伴い、邸宅の裏にある小山へ行かれていると聞きました」
「ふーん。あの小山へねぇ。たしか左大臣が最近、自慢していたよなぁ。大陸から取り寄せた良い香りを放つ木を植えたとか……」
少年は左手を顎に当て、途中まで言いかけた言葉を飲み込んだ。
それから、眉間にシワを寄せて思案した後。
何かを思いついたように口の端を意地悪くつり上げた。
重綱は、主の少年が何か良からぬことを思いついた様が手に取るように読めて。
諫めようと口を開きかけた瞬間。
「おまえたち下がってよい」
と少年はいつのまにか脇息に体を預け、右手でしっしと追い出すように人払いを命じた。
従者をみな下がらせた後、少年は畳の上に体を投げ出す。
直衣がシワになることも構わず、大の字になって天井を見つめた。
感情を消し去った瞳はただ一点を凝視する。
しばらくぼぉーっとした後、ポツリと呟いた。
「行ってみようかなぁ。私もあの小山に。都に帰れば、もっと窮屈な身になるのだし」
少年はこの三月後に立太子を控えていた。
せめて最後のワガママをと母である中宮と叔父の左大臣に『お忍び』を頼み込んだのだ。
生まれた時から、帝になることが約束された未来。
少年自身もそのことに疑問を抱いたことはない。
二年前、話相手としてあてがわれた葵の君との出会いは。
少しずつ、そして確実に、そんな少年の世界を変えていった。
葵の君は左大臣家の子息で少年とは同い年の従兄弟である。
少年の話相手としてはこれほどの適任者はいない。
さらに葵の君はその能力、性格ともに優れていた。
そして、少年を含め周囲を驚かせたのは。
葵の君の容姿が少年と鏡を置いたように瓜二つだったこと。
──まぁ、今は亡き祖母の容姿を二人とも受け継いでいるって、母上が言ってたしなぁ。
瓜二つの容姿。
でも、性格は正反対。
いつも一歩後ろで穏やかに微笑む葵の君が『静』なら。
ものをはっきり言い、前へと行動していく少年は『動』。
だから、気が合うのかもしれない。
お互いがお互いの存在を邪魔しない上で成り立つ二人の関係。 少年にとっての葵の君は大人たちにあてがわれた気を許せる学友という位置付けだった。
「よぉしっ。葵のヤツを驚かせてやろう」
少年は起き上がり、直衣によったシワを軽く伸ばすようにはたいた。
その顔はイタズラを思いついた純粋な笑み。
そっと忍び足で、部屋の入り口へ近づき辺りを窺う。
どうやら、口うるさい清原の翁の姿は見えない。
これは絶好の機会だと少年はほくそ笑んだ。
廊下に出た少年に気づいた年若い従者がそっと歩み寄り。
傍らに片膝をついた。
「宮様。どちらへ?」
少年は無表情をはりつけ、軽い声音で言う。
「う―ん。葵のヤツを驚かせてやろうかと。なんなら、おまえも付いて来て良いぞ?」
年若い従者は恐縮した様子で。
ははっと先を行く少年の後をついて行った。
小山までの道のりは。
普段、御所内をかけ回っている少年の足でもきつかった。
でこぼこの激しい道を歩くのに慣れていないせいかもしれない。
もし、外へ出たとしても、移動手段は牛車に乗って。
平坦な道まで運んでもらい、歩くのはほんの少しだけ。
そう心の中で、思っていたことが、無意識のうちに、口から音となっていた。
「まるで、私の人生のようだ」
「宮様?」
年若い従者に声をかけられ。
ハッとしたように少年は思案の淵から顔を上げる。 心の中で呟いたと思っていた言葉は、無意識のうちに口から出ていたようだ。
この思いに、触れてほしくなかった少年は話を逸らすよう従者に問う。
「そういえば、葵のヤツ。小山へは、いつ向かったんだ?」
問われた従者は、出掛ける前、別邸に勤める左大臣家の侍女から仕入れた情報を伝えた。
「私が聞いた話によりますと、たしか……半時ほど前とのことでございます。大納言家の姫君もご一緒らしいので。このまま進めば、葵の君様たちに追いつけるかと思われます」
従者の言葉を聞いた少年は、先回りをして葵のヤツを驚かせたら。
どんな反応を示すのだろうと考えただけで、ここに来てからの退屈が吹き飛ぶような気がした。
「よし、少し先を急ごう」
小さく気合いを入れ、従者を急かし、歩を進めていった。
先を急ぐように歩いていると、ふいに鈴をころがすような愛らしい声が聞こえてきた。
「歩くのが早いわ。葵の君」
もしかしてと思った少年は小走りになる。
人の姿が見えてくると、そっと木の陰に隠れながら、二人に近づいていった。
駆けた事で、火照って赤みがさした少年の頬を撫でるように、花葉色の風が吹く。
目の前に現れたのは、慣れないデコボコ道を歩き、肩で息をしている少女の姿。
腰まで伸びた黒髪が揺れる美しい少女だった。
頬を膨らませて。
可愛らしい桃色の小さな口をとがらせる。
水干姿の少年、葵の君と話をしている様子が見えた。
「えぇ、ちっとも大丈夫じゃないわ」
また聞こえてきた愛らしい声。
童女とは思えない艶やかな黒髪に、透き通るような白さの面。
その中に咲いたような形の良い小さな桃色の口。
そこから、紡がれる鈴を転がしたような、愛らしい声音。
心地よい風のように、耳を通り過ぎていく。
そして、葵の穏やかな慈しみを滲ませた音が、それを包む。
胸が苦しくなった。
私の前ではけっして見せることのない葵の表情。
愛おしくてたまらないという眼差しは、まるで心を預けることができる。
ただ一人へ向けられるもののように見えた。
葵のすべてを独り占めにできる幼き姫の存在に嫉妬したと同時に、今まで自分と同じだと思っていた葵には大切なものがいる。
その事実に先程までのからかいの気持ちが打ちのめされてしまった。
思わず拳をにぎりしめ動けずに、二人を眺め立ちつくす。
「宮様」
従者に声をかけられて振り向く。
「いかがなさいますか、宮様」
再び声をかけられた。
どうしたらよいのか、私にもわからない。
今、あの二人に声をかけ、そばに行って、かわいらしい幼き姫を間近で見たい気持ちもある。
だけど、声をかけてはいけないような気がした。
葵と姫の二人だけの世界があまりにも眩しくて、触れることをためらう。
私は帝になる存在なのに、なぜ、こんなにも気後れしなければならないのか。
あの幼き姫を手に入れることができれば、葵と同じ場所に行けるのだろうか、あの眩しい世界を手に入れることができるのだろうか。
「気がそがれた、行くぞ。屋敷へ戻る。そして、都へ帰る支度をするぞ」
葵たちを見つめたまま、命じ、踵をかえす。
都へ戻れば、私は帝になる。そして、あの姫を手に入れる。
風にのって、沈丁花の香がした。
微かな香りなのに私の心に、あの二人の姿とともに深く吸い込まれていった。
◇◆◇◆◇◆◇
六年後。
「まだ、まだ知らせは来ぬのか」
花詠の懐妊がわかった時、登花殿から、帝のいる清涼殿に近い藤壷へ居所を移し、その後、出産間近まで内裏に引き止め、先日、綾小路大納言邸へ宿下がりをしたばかりだった。
産気付いたとの知らせを受け、本来なら帝が内裏を抜け出すなどあってはならない。
だが、大人になるにつれ、鳴りをひそめていた帝の行動的な性質は居ても立ってもいられず、わずかな供を連れ、綾小路大納言邸へ忍びで訪れるという、暴走をおこした。
帝は部屋の中をうろうろし、扇をせわしなく開いたり閉じたりを繰り返す。
「主上、少しは落ち着いてくださいませ」
部屋の隅に座す、白髪混じりの翁が諭すように声をかける。
「花詠が産気づいてから、だいぶ立つではないか」
翁は幼い頃から仕えてきた主の姿に思わず、微笑みを浮かべてしまう。
「主上。女御様は今、御子を産むため戦っておられます。これは女子にしかできない戦いであります。男はただ待つことしかできないのです」
そんなやりとりを繰り返していると廊下のあたりがざわめきだす。
花詠付きの女房がやってきた。
手をつき、深く頭をさげて。
「女御様が、皇子をお産みになりました。主上、おめでとうございます」
翁も続けて。
「皇子がお生まれるになり、本当におめでとうございます」
深々と頭をさげた。
皇子誕生の知らせを聞いて、帝は先導の侍女も立てず、花詠の元へと向かう。
単身で現れた帝に、綾小路家の女房たちは驚きながらも、平伏して、道をあける。
逸る気持ちのまま来た帝はある部屋の前で立ち止まった。
中から赤子の泣き声が聞こえてきたからだ。
「花詠。私だ。中へ入ってもよいか」
すっと、障子が開く。
中には赤子を抱いた花詠の姿があった。
花詠は、赤子に向けていた視線をゆっくりと帝へ向けて、はにかむように微笑む。
その笑顔は、沈丁花の香りの中、葵に向けていた表情だった。
目頭が熱くなった帝は、思わず袖で目元をおおう。
「主上。皇子にございます」
か細くもしっかりとした声音が帝の耳に届く。
「ああ。よくぞ、無事に皇子を産んでくれた。ありがとう、花詠」
労いの言葉をかけながら、花詠の元に向かい腰を下ろす。
花詠は赤子の顔が、帝に見えるよう、抱きかえる。
少し疲れの滲む面ではあったが、大輪の花が咲いたような笑みを浮かべていた。
その花詠と小さな存在にたまらないくらいの愛おしさを感じずにはいられない。
赤子に触れてよいものかと悩んでいる様子の帝の手に、花詠は自らの手を重ねて導く。
導かれるまま、手を伸ばす帝の人差し指を、ふいに赤子の手がにぎりしめる。 まだ目の空いていない赤子ではあるが、そのにぎりしめる力強さに帝の心は奮えていた。
そして、ある決意を胸に誓った帝の目から一筋の涙がこぼれ落ちる。
――葵、これからは、君の思いとともに、私は、花詠と皇子を守っていくよ。