メインストーリー
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その日、ソフィア・フォン・アルヴェールは、人生で初めて公衆の面前で恥をかいた。
「ソフィア・フォン・アルヴェール。君との婚約を破棄する!」
王立学院の卒業式。
卒業生とその家族、来賓たちが見守る大広間で、第二王子エドワードは堂々とそう宣言した。
理由はありふれたものだった。
聖女に選ばれた平民の少女りりあを、ソフィアが虐めていた。彼女の聖女としての華々しい未来を脅かす悪役令嬢だから。
そして、エドワードは更に聖女と真実の愛に目覚めたのだという。
どれもこれも、ソフィアには身に覚えがなかった。しかし、ここで下手に言い訳をしても見苦しいだけだ。
「……承知いたしました」
だからこそ、ソフィアは微笑んだ。
背筋を伸ばし、完璧な淑女として一礼する。
「殿下のご多幸を、お祈り申し上げます」
それだけ言って、その場を去った。
誰にも弱みを見せなかった。
涙も流さなかった。
馬車に乗り、屋敷に帰り、自室に入って扉を閉める。
そして
「……無理ですわ」
ベッドに倒れ込んだ。
「無理ですわぁ……!」
枕に顔を埋め、ようやく声を上げて泣いた。
十八年間、大切に育ててきた公爵令嬢としての矜持が、粉々になった瞬間だった。
翌日、ソフィアは高熱を出して寝込んだ。
医師は「心労でしょう」と言った。
だが本人にしてみれば、心労どころではない。
人生の大事件だった。
そして高熱にうなされるソフィアは、不思議な夢を見た。
――前世の自分。
そこには魔法も貴族も王子もいなかった。
ただ、一人の女性の人生があった。
夫に先立たれ、女手一つで子供たちを育て、子供たちが結婚して家を出て、孫が生まれ...
いつの間にか髪は白くなり、顔には深い皺が刻まれていた。そして最後には、家族に囲まれながら穏やかに息を引き取った。
――ああ、なんて幸せな人生なのだろう。
そう思った。
同時に、もう一つの記憶が蘇った。
魔道具の箱の中で繰り返し映されていた物語。
白髪交じりの髭を蓄えた、威厳ある老紳士。
懐から印籠を取り出し、静かに告げる。
『この紋所が目に入らぬか!』
その一言で、悪人も役人も町人も一斉に平伏する。
『ははーっ!』
あの姿が、たまらなく格好良かった。
そして旅の終わりに、背を向けて歩いていく姿が、どうしようもなく寂しかった。
――私、昔はこういうおじいさんが好きだったのね。
目を覚ましたソフィアは、ぼんやりと天井を見つめた。
「……そういえば」
婚約破棄されたのだった。
しかも大勢の前で。
「もう、まともな縁談なんてありませんわね」
十八歳。
本来なら結婚相手を選べる年齢だ。
だが、一度婚約破棄された公爵令嬢という肩書きは、これから先ずっとついて回る。
「……まあ、いいですわ」
ソフィアは布団の中で小さく笑った。
「独身でも、幸せに生きてみせます」
そう思った、その翌日。
「ソフィア。少し書斎へ来なさい」
父から呼び出された。
書斎に入ると、父は一枚の紙を机の上に置いた。
「お前に一件だけ、見合いの釣書が届いている」
「……見合い?」
「そうだ。断っても構わん。受けるかどうかは、お前が決めなさい」
ソフィアは首を傾げながら釣書を手に取った。
そして。
「……六十二歳?」
思わず声が裏返った。
相手の名は、サイモン・グレイ。
貴族ではない。
しかし商会を一代で巨大企業に育て上げた大商人。
そして年齢は六十二歳。
「まあ……」
ソフィアの頬が、ほんのり赤くなった。
前世の記憶を合わせれば、自分の精神年齢は百歳近い。
むしろ――
「……ちょうど良いのでは?」
父が固まった。
「何がだ?」
「いえ。お受けしますわ」
「本当にいいのか?」
「ええ」
ソフィアは釣書を胸に抱いた。
そして迎えた見合い当日。
そこに現れた男を見て、ソフィアは絶句した。
銀灰色の髪。
品の良い口髭。
穏やかな目元。
「初めまして。サイモン・グレイです」
その瞬間、胸の奥が確かに跳ねた。
――この人だ、と。
しばらく当たり障りのない会話が続いた後、サイモンは静かに視線を落とした。
「実は、ずっと前から君のことが好きだった」
ソフィアは目を見開いた。
十年前、まだ旅商人だったサイモンは魔物に襲われ、死を覚悟した。
その時、幼いソフィアが現れ、圧倒的な魔力で魔物を殲滅した。
それがすべての始まりだった。
サイモンはその日から、ただ一つの願いを抱いて生きてきた。
いつか、あの少女に報いること。
そのために商会を築き、財を成し、ようやく届いたのがこの縁談だった。
「私は魔渇病だ」
静かな告白だった。
魔力を持つ者の体内から魔力が失われていく病。
放置すれば死に至る。
「もう長くはない。私が死んだ後、商会の権利や財産は全て貴女に遺す。私が死んだあとは好きに暮らすといい。」
「貴女はまだ若いのだから、まだ愛し愛されることもあろう」
その話を聞いたソフィアは、何事かを考え、言葉にするのを辞めた。
魔渇病なら、自分が傍にいればすぐに治せる。だがしかし、それを結婚前にサイモンに告げてしまったら、サイモンは遠慮して治療も結婚もしてくれないと思ったのだ。
「この縁談、受けさせて頂きたく思いますわ」
そう言って、満面の笑みを浮かべた。
ソフィアはすぐにメイドに荷物をまとめさせると、サイモンの家へ住み始めた。
弱り切る前に治療をしなければ。その一心であった。
引越し当日の夜、ソフィアは話した。
「魔渇病ですが、私がいれば治せますわ」
「魔力同調を使えばよろしいのでしょう?」
サイモンは思わず額を押さえた。
「魔力同調をご存じですか?」
「もちろん知っている」
「ならば話は早いですわ」
ソフィアは手を差し出す。
「私の魔力を差し上げます」
サイモンは眉を寄せた。
「……それがどういう意味か分かっているのか?」
「ええ」
「私と深く同調すれば、君自身の魔力も消耗する」
「それでもです」
「なぜ?」
ソフィアは少し考えた。
「死んでほしくないからですわ」
それだけだった。
ソフィアの瞳は揺らがない。
魔力同調。
それは信頼と接触と感情の一致によって成立する、魔力の共有現象。
手を繋げば延命。
口づけで安定。
深い結びつきに至れば、完全な回復すら可能となる。
「なら、やるだけですわ」
ソフィアは当然のように手を差し出した。
サイモンは一瞬だけ躊躇し、それからその手を取った。
触れた瞬間、魔力が流れ込む。
サイモンは驚いた。
温かい。
まるで、冷え切った身体に春が流れ込んでくるようだった。
「……君の魔力は、こんなにも温かいのか」
「そうですか?」
「……ああ」
その日から、二人の距離は静かに変わっていった。
手を繋ぎ、隣に座り、時に視線を交わす。
初めてのキスは一生忘れることがないだろう。
サイモンの顔色は見違えるほど良くなった。
やがて、ソフィアのお腹の中に、新たな命が芽生えてすぐのことであった。
医師たちが首を傾げる。
「魔渇病が……消えている?」
誰も理由を説明できなかった。
ただ一つ確かなのは、彼の隣にいる少女の存在だけだった。
そしてサイモンは、ある日静かに言った。
「もう、死ぬ理由がなくなってしまったな」
「それは良いことですわ」
ソフィアは微笑んだ。
「では、これからはお腹の子と三人で共に長生きするだけです」
サイモンは小さく笑い、彼女の手を握り直した。
「そうだな。君がいる限り、いくらでも生きていける気がする」
その言葉に、ソフィアはふと気づく。
前世で夢見た穏やかな老後は、きっとこういう形だったのだと。
誰かと共に生き、共に老い、共に笑うこと。
それだけで十分だったのだと。
「サイモン様」
「なんだい」
「大好きですわ」
「私もだよ、ソフィア」
銀灰の髪を持つ男は、静かに微笑んだ。
そして二人は、何度目かの夕暮れを並んで見つめた。




