第7話 プロペラ尻尾のユキ
耳掃除とマッサージですっかり「液体」のようになっていたユキだったが、一眠りして痒みが引くと、今度はあり余るエネルギーが爆発した。
フェンリルの赤ちゃんの体力は、人間の子供や子犬の比ではない。
何しろ、将来は世界中を駆け巡って「冬」を届ける神獣なのだ。
エンジンが掛かれば、小さな家など一瞬で破壊しかねないパワーを秘めている。
「きゅうっ! わふんっ!」
ユキが布団から飛び出し、私の周りを弾丸のように駆け回り始めた。
銀色の毛を逆立て、短い尻尾をプロペラのように振り回す。彼女が通った後の床には、うっすらと霜が降り、部屋の温度が急激に下がっていく。
「コラ、ユキ! 机の下はダメって言ったでしょ!」
私は150cmに満たない身体を必死に動かし、ユキを追いかける。
だが、プロの飼育員として、ただ追いかけっこをしているわけではない。
これは専門用語で「環境エンリッチメント」――飼育下にある動物の退屈を防ぎ、野生に近い心身の刺激を与えるための、極めて重要な「業務」なのだ。
私は、古いシーツを何枚か重ねて縛った「特製ロープ」を取り出した。
中には、ユキが好きな「氷晶石の欠片」を少しだけ縫い込んである。
振るたびにシャラシャラと冷たい音が鳴る、世界で一つだけの知育玩具だ。
「ほーら、ユキ。こっちよ!」
ロープを床に這わせ、蛇のように不規則に動かす。
ユキの蒼い瞳が、一瞬で鋭く細まった。狩猟本能のスイッチが入った証拠だ。
彼女は低い姿勢で身構え、腰を小刻みに振ってタイミングを計ると――。
「しゅぁっ!」
銀色の光が走った。
ユキは空中で一回転し、見事にロープの先端を捕らえた。
そのまま、小さな身体からは想像もできない力で、ぐいぐいとロープを引っ張り始める。
「――っ、うそ、すごい力……!」
私は踏ん張るが、体重の軽い私の身体がズルズルと床を引きずられていく。
150cmの私の身長では、重心が低くて踏ん張りが効くのが救いだが、それでも彼女の「遊び」は、大人三人がかりの綱引きに近い。
だが、私は手を離さない。
適度な「抵抗」こそが、彼女の顎の筋肉と、魔力の制御機能を鍛えるからだ。
「負けないわよ……! これくらいで音を上げてたら、フェンリルの保育士は務まらないんだから!」
私は全身を使ってロープを保持し、ユキと視線を合わせる。
彼女の瞳には、歓喜の火が灯っていた。
王立施設に運び込まれてきた時の、ひどく衰弱していた状態が嘘みたいに感じられる。自分の肉体を使い、意思を持って世界に干渉する喜び。
彼女が引っ張るたびに、部屋中にキラキラとした氷の粒が舞い散り、幻想的な光景を作り出す。
10分。全力の「力比べ」が続く。
やがて、ユキが満足したようにロープを離し、私の胸に飛び込んできた。
「どふっ!」
小さな体当たり。けれど、私くらいの体格だと、衝撃で後ろにひっくり返りそうになる。
私は床に尻餅をついたまま、飛び込んできた銀色の塊をしっかりと抱きしめた。
ハァ、ハァ、と、ユキの小さな舌が私の頬をペロペロと舐め上げる。
「はいはい、私の勝ち……いや、ユキの勝ちね。強くなったわね、本当に」
彼女の体は、運動のせいで少しだけ「冷え」が増していた。
放熱が正常に行われている証拠だ。私は彼女を抱いたまま、壁に寄りかかって呼吸を整える。
窓の外を見ると、空はいつの間にか、燃えるような朱色に染まり始めていた。
「……さて。いい運動をした後は、一番のお楽しみの時間ね」
私は立ち上がり、少しだけ筋肉痛が始まった足を叩きながら台所へ向かう。
夕方の授乳タイム。朝よりも少しだけ濃厚に、夜間の睡眠を助ける成分を配合したミルクを作る。
哺乳瓶を持って戻ると、ユキはすでに私の定位置(座布団の上)で、前足を揃えて待っていた。
その「お行儀の良さ」が、またたまらなく愛おしい。
「お待たせ。さあ、ゆっくり飲みなさい」
私は床に座り、ユキを膝の間にすっぽりと収める。
私の膝は、彼女にとってはこの上なくフィットする「専用シート」。
私が哺乳瓶を差し出すと、彼女は待ってましたと言わんばかりに、小さな前足で瓶をギュッと抱え込んだ。
「――ちゅぱっ、ちゅぱ、ちゅぱちゅぱっ……!」
静かな夕暮れの部屋に、再びあの湿った、愛らしい音が響く。
朝よりもさらに夢中な様子で、ユキは必死にミルクを吸い上げる。
時折、「くぅん、くぅん」と鼻を鳴らしながら、吸い付く力が強くなる。
「ユキ、そんなに急がなくても、ミルクは逃げないわよ」
私は微笑みながら、彼女の喉が規則正しく動くのを指先で確認する。
この「ちゅぱちゅぱ」という音は、私にとってどんな高価な癒やし音楽よりも、心を安定させてくれる。
彼女の生存本能が、私の指を通じて伝わってくる。
前世の動物園で、親に見捨てられたカモシカの赤ちゃんを育てていた夜。あの時も、私はこうして「飲む音」だけを頼りに、暗闇の中で命を繋いでいた。
「ちゅぱ……、ちゅぱ…………ぷはぁっ!」
瓶が空になり、ユキが満足げに口を離した。
ミルクで白くなった鼻先を、私の服でゴシゴシと拭いてくる。
「もー、拭かないの。……さあ、夜に向けて、最後のご挨拶の時間よ」
私はユキを抱き上げ、再び肩に乗せる。
彼女の重みは、朝よりも少しだけ増したような気がした。
背中を優しく、トントンと叩く。
「げぷっ」
夕闇の静寂に、可愛らしい、けれど誇らしげな排気音が響いた。
それが、一日の無事な終了を告げる合図のように聞こえて、私はユキの頭を何度も撫でた。
「完璧よ、ユキ。今回も100点満点だったって書けそうね」
ユキは私の肩に顔を埋め、すでに半分夢の中へ旅立とうとしていた。
私は、静まり返った部屋の中で、ランプに火を灯した。
これから、夜の「本当の番人」がやってくる時間だ。
私は石の板――「連絡帳」を手に取り、今日の彼女の頑張りを、一文字ずつ丁寧に刻み始めた。




