表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/37

第7話 プロペラ尻尾のユキ

耳掃除とマッサージですっかり「液体」のようになっていたユキだったが、一眠りして痒みが引くと、今度はあり余るエネルギーが爆発した。


フェンリルの赤ちゃんの体力は、人間の子供や子犬の比ではない。


何しろ、将来は世界中を駆け巡って「冬」を届ける神獣なのだ。

エンジンが掛かれば、小さな家など一瞬で破壊しかねないパワーを秘めている。


「きゅうっ! わふんっ!」


ユキが布団から飛び出し、私の周りを弾丸のように駆け回り始めた。


銀色の毛を逆立て、短い尻尾をプロペラのように振り回す。彼女が通った後の床には、うっすらと霜が降り、部屋の温度が急激に下がっていく。


「コラ、ユキ! 机の下はダメって言ったでしょ!」


私は150cmに満たない身体を必死に動かし、ユキを追いかける。


だが、プロの飼育員として、ただ追いかけっこをしているわけではない。


これは専門用語で「環境エンリッチメント」――飼育下にある動物の退屈を防ぎ、野生に近い心身の刺激を与えるための、極めて重要な「業務」なのだ。


私は、古いシーツを何枚か重ねて縛った「特製ロープ」を取り出した。


中には、ユキが好きな「氷晶石の欠片」を少しだけ縫い込んである。

振るたびにシャラシャラと冷たい音が鳴る、世界で一つだけの知育玩具だ。


「ほーら、ユキ。こっちよ!」


ロープを床に這わせ、蛇のように不規則に動かす。


ユキの蒼い瞳が、一瞬で鋭く細まった。狩猟本能のスイッチが入った証拠だ。

彼女は低い姿勢で身構え、腰を小刻みに振ってタイミングを計ると――。


「しゅぁっ!」


銀色の光が走った。


ユキは空中で一回転し、見事にロープの先端を捕らえた。

そのまま、小さな身体からは想像もできない力で、ぐいぐいとロープを引っ張り始める。


「――っ、うそ、すごい力……!」


私は踏ん張るが、体重の軽い私の身体がズルズルと床を引きずられていく。


150cmの私の身長では、重心が低くて踏ん張りが効くのが救いだが、それでも彼女の「遊び」は、大人三人がかりの綱引きに近い。


だが、私は手を離さない。

適度な「抵抗」こそが、彼女の顎の筋肉と、魔力の制御機能を鍛えるからだ。


「負けないわよ……! これくらいで音を上げてたら、フェンリルの保育士は務まらないんだから!」


私は全身を使ってロープを保持し、ユキと視線を合わせる。

彼女の瞳には、歓喜の火が灯っていた。


王立施設に運び込まれてきた時の、ひどく衰弱していた状態が嘘みたいに感じられる。自分の肉体を使い、意思を持って世界に干渉する喜び。


彼女が引っ張るたびに、部屋中にキラキラとした氷の粒が舞い散り、幻想的な光景を作り出す。


10分。全力の「力比べ」が続く。

やがて、ユキが満足したようにロープを離し、私の胸に飛び込んできた。


「どふっ!」


小さな体当たり。けれど、私くらいの体格だと、衝撃で後ろにひっくり返りそうになる。


私は床に尻餅をついたまま、飛び込んできた銀色の塊をしっかりと抱きしめた。

ハァ、ハァ、と、ユキの小さな舌が私の頬をペロペロと舐め上げる。


「はいはい、私の勝ち……いや、ユキの勝ちね。強くなったわね、本当に」


彼女の体は、運動のせいで少しだけ「冷え」が増していた。


放熱が正常に行われている証拠だ。私は彼女を抱いたまま、壁に寄りかかって呼吸を整える。


窓の外を見ると、空はいつの間にか、燃えるような朱色に染まり始めていた。


「……さて。いい運動をした後は、一番のお楽しみの時間ね」


私は立ち上がり、少しだけ筋肉痛が始まった足を叩きながら台所へ向かう。


夕方の授乳タイム。朝よりも少しだけ濃厚に、夜間の睡眠を助ける成分を配合したミルクを作る。


哺乳瓶を持って戻ると、ユキはすでに私の定位置(座布団の上)で、前足を揃えて待っていた。


その「お行儀の良さ」が、またたまらなく愛おしい。


「お待たせ。さあ、ゆっくり飲みなさい」


私は床に座り、ユキを膝の間にすっぽりと収める。


私の膝は、彼女にとってはこの上なくフィットする「専用シート」。


私が哺乳瓶を差し出すと、彼女は待ってましたと言わんばかりに、小さな前足で瓶をギュッと抱え込んだ。


「――ちゅぱっ、ちゅぱ、ちゅぱちゅぱっ……!」


静かな夕暮れの部屋に、再びあの湿った、愛らしい音が響く。

朝よりもさらに夢中な様子で、ユキは必死にミルクを吸い上げる。


時折、「くぅん、くぅん」と鼻を鳴らしながら、吸い付く力が強くなる。


「ユキ、そんなに急がなくても、ミルクは逃げないわよ」


私は微笑みながら、彼女の喉が規則正しく動くのを指先で確認する。


この「ちゅぱちゅぱ」という音は、私にとってどんな高価な癒やし音楽よりも、心を安定させてくれる。


彼女の生存本能が、私の指を通じて伝わってくる。


前世の動物園で、親に見捨てられたカモシカの赤ちゃんを育てていた夜。あの時も、私はこうして「飲む音」だけを頼りに、暗闇の中で命を繋いでいた。


「ちゅぱ……、ちゅぱ…………ぷはぁっ!」


瓶が空になり、ユキが満足げに口を離した。

ミルクで白くなった鼻先を、私の服でゴシゴシと拭いてくる。


「もー、拭かないの。……さあ、夜に向けて、最後のご挨拶の時間よ」


私はユキを抱き上げ、再び肩に乗せる。

彼女の重みは、朝よりも少しだけ増したような気がした。


背中を優しく、トントンと叩く。


「げぷっ」


夕闇の静寂に、可愛らしい、けれど誇らしげな排気音が響いた。


それが、一日の無事な終了を告げる合図のように聞こえて、私はユキの頭を何度も撫でた。


「完璧よ、ユキ。今回も100点満点だったって書けそうね」


ユキは私の肩に顔を埋め、すでに半分夢の中へ旅立とうとしていた。

私は、静まり返った部屋の中で、ランプに火を灯した。


これから、夜の「本当の番人」がやってくる時間だ。


私は石の板――「連絡帳」を手に取り、今日の彼女の頑張りを、一文字ずつ丁寧に刻み始めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ