第6話 げっぷするユキ
私の肩に小さな顎を乗せ、ユキは「ふにゃ……」と満足げな吐息を漏らしている。
だが、ここでお昼寝を許すわけにはいかない。
授乳後の排気――いわゆる「ゲップ」をさせないまま寝かせるのは、胃に空気が溜まり、腹痛や嘔吐の原因になるからだ。
特に幻獣の幼体は、人間よりも内臓の配置が複雑で、些細なガスの停滞が命取りになることさえある。
「ほら、ユキ。トントンするわよ。頑張って出そうね」
私は150cmに満たない小さな体を目一杯使い、椅子に深く腰掛けてユキを自分の胸に密着させた。
手のひらを少しだけ丸め、空気を孕ませるようにして、彼女の背中をリズミカルに叩く。
トントン。トントン。
銀色の産毛越しに伝わってくるのは、ミルクでパンパンに膨らんだお腹の弾力と、力強く脈打つ心音。
前世の動物園で、人工授精で生まれたライオンの赤子を抱いていた時も、私はこうして「命の重み」を背中で感じていた。
「きゅう……?」
ユキが不思議そうに首を傾げ、私の首元に鼻先を押し付けてくる。
まだ冷気を制御しきれていない彼女の鼻先は、まるで氷の粒を押し当てられたように冷たい。けれど、その冷たさこそが、彼女が健やかに育っている証拠だった。
1分、2分。
焦りは禁物だ。ゆったりとした呼吸を合わせ、重力を利用して胃の空気を上へと導いていく。
そして――。
「……げぷっ」
ユキの小さな口から、思いのほか立派な音が漏れた。
その瞬間、彼女の身体からふっと力が抜け、安心したように私の首筋に顔を埋めた。
「はい、よくできました。100点のゲップね」
私は頬を緩め、彼女を再び膝の上へと降ろした。
普通ならここで「ああ可愛い」で終わるところだが、私の専門家としての目は、彼女のわずかな「違和感」を逃さなかった。
ユキが、しきりに右の耳を後ろに倒し、後肢で頭を掻こうとする仕草を見せたのだ。
「……ユキ、ちょっと見せて」
私は彼女の頭を優しく固定し、尖った耳の中を覗き込む。
外見上は、宝石のように美しい銀毛に覆われていて異常はない。だが、耳の付け根を指の腹で軽く押さえると、ユキが「くぅん」と嫌がるように首を振った。
「やっぱりね。蒸れてるんだわ」
フェンリルは、全身の毛穴から冷気を放出することで体温を一定に保っている。
だが、幼体であるユキはまだ毛の密度と放熱のバランスが未熟だ。特に耳の裏や付け根は、古い角質が溜まりやすく、それが放熱を妨げて熱がこもりやすい。
いわば、雪山育ちの子が、耳当て付きの帽子を被ったまま暖房の効いた部屋にいるような状態だ。
放熱できない熱は微弱な炎症を起こし、それが痒みとなってユキを悩ませていたのだ。
「大丈夫よ、ユキ。今、最高に気持ち良くしてあげるからね」
私は踏み台を蹴って、棚から自家製の「ケアキット」を取り出した。
前世の知識を応用して調合した、低刺激のハーブオイル。殺菌効果のある「白樺の精油」と、皮膚を保護する「蜜蝋」を絶妙な比率で配合したものだ。
まずは、ユキを仰向けに寝かせる。
私の膝は、ユキを乗せるのにちょうどいいサイズ感の「ベッド」になる。
彼女のお腹はミルクで丸くなっていて、ピンク色の地肌が透けて見えるのが、なんとも言えず無防備で愛くるしい。
「きゅう……っ、きゅう?」
不安げに足をバタつかせるユキに、私は自分の指を差し出した。
すると、彼女は待ってましたと言わんばかりに、私の人差し指を口に含み、「ちゅぱ、ちゅぱ……」と無心に吸い始めた。
よし、これで意識は「吸うこと」に集中した。
私は温めたオイルを綿球に浸し、慎重に耳の淵を拭っていく。
毛並みに沿って、固まった汚れをふやかしては取り除く。
次に、耳の付け根に指を添え、ゆっくりと円を描くようにマッサージを施した。
「ここが痒かったんでしょう? 古い毛を流してあげるからね」
マッサージによって滞っていた放熱が再開されると、ユキの耳から、微かな白い冷気が「しゅわぁ……」と立ち上った。
詰まっていた煙突が掃除され、排気がスムーズになった瞬間だ。
「ふにゃ……あ……ぅ……」
指を吸う力が、徐々に弱まっていく。
ユキの瞳はとろんと蕩け、脚の力も完全に抜けて、私の膝の上で「液体」のように伸びてしまった。
痒みが消え、代わりにオイルの清涼感と、私の手の温もりが、彼女を至福の眠りへと誘っていく。
耳の裏、首筋、そして脇の下。
熱がこもりやすい場所を一つずつ丁寧にケアしていくと、ユキの体から発せられる冷気が、清流のような澄んだ匂いへと変わっていった。
これだ。これが健康なフェンリルの「サイン」だ。
魔法のポーションを飲ませるよりも、この一本の綿球と、指先の感覚の方が、ずっと確実に命を救う。
私は心の中で、透明な達成感を噛み締めた。
ふと窓の外を見ると、木々の隙間から、昨夜よりもさらに濃密な、けれど穏やかな「冷気の気配」がこちらを伺っているのが分かった。
――来ているわね。
親狼。
彼女は、自分にはできない「繊細なケア」を私が施しているのを、じっと見守っているのだ。
私はあえて外を見ず、ユキの銀色の額にそっと唇を寄せた。
「おやすみ、ユキ。……ママには、ちゃんと『100点でした!』って報告しておくからね」
オイルの香りと、ユキの清涼な体温。
そして、私の胸に広がる、飼育員としての確かな誇り。
この小さな保育園の午前中は、こうして穏やかに、けれど奇跡のような密度で過ぎていった。




