第31話 迷走看護団爆誕
リビングの空気は、不死鳥ママが張ってくれた微かな結界のおかげで、一定の湿度と温度に保たれていた。
けれど、私の腕の中にいるユキの体温だけは、依然として猛威を振るっている。
「……ふぅ。よし、準備完了よ。……ユキ、聞こえる? 特製のお薬、作ってきたわよ」
私は、小さな身体を横たえ、ソファーの上に広げた清潔なシーツの中へと潜り込んだ。
左腕でユキの熱い身体を引き寄せ、私の胸元に彼女の頭を預ける。いわゆる「添い寝看病」だ。
ユキは、意識が朦朧としているはずなのに、私の肌の温もりを感じた瞬間、力なく投げ出されていた前足で、ギュッと私のエプロンの裾を掴んだ。
「わ、……ふぅ、……ぅ。……ん……」
掠れた鳴き声。
いつもなら「私は、誇り高き銀嶺狼ですよ」とでも言いたげな、凛とした響きはどこにもない。
潤んだ彼女の瞳が、ゆっくりと私を見上げる。
その瞳には、熱への苦しみと、それ以上に「どこにも行かないで」という、剥き出しの寂しさが混ざり合っていた。
ああ、もう。
そんな目で見られたら、心臓が持たないわよ。
いつもは生意気に、私の膝の上で『ここは私の場所よ』って顔をしてるくせに。
こんな時だけ、人間の子供みたいに甘えてくるんだから。
「ねえ、ユキ。何か食べたいものはある? ……冷たいのがいい? それとも、少しだけ甘いのがいいかな?」
私は、まるでお姫様に傅く執事のように、優しく彼女の耳元で囁いた。
ユキは、熱に浮かされながらも、私の問いかけを理解しようと必死に耳を動かす。
そして、私の指先を弱々しく、けれど切実に「ぺろり」と一舐めした。
「……冷たくて、甘いのね。わかったわ。……ちょっと待っててね。すぐに、とっておきのを作ってあげる」
私が少しだけ身体を離そうとすると、ユキは「くぅぅん……!」と、悲鳴のような甘え鳴きを上げた。
掴んでいたエプロンの手が、離したくないとばかりに震える。
「大丈夫よ、どこにも行かないわ。……すぐそこ、キッチンまでよ。……ほら、ヨル。ユキのそばにいてあげて」
影の中から、心配そうに様子を伺っていたヨルが、スッと実体化した。
ヨルは、自分の冷たい影の衣を広げ、ユキの身体を優しく包み込む。
ユキは、少しだけ安堵したように息を吐いたが、それでも視線は私を追い続けていた。
私は、急いでキッチンへ戻り、剛山象が遺した『氷晶万年雪』の青い花弁を、乳鉢で丁寧にすり潰した。
パウダー状になった花弁からは、目が覚めるような純粋な冷気が立ち上る。
そこに、昨日搾りたての「月光山羊乳」を注ぎ、さらに滋養強壮に効く「黄金蜂の蜜」を数滴。
仕上げに、同じく庭に咲いていた『陽だまりの実』の果汁を加える。
「よし……特製『氷晶シャーベットミルク』、完成よ」
私は、人肌より少しだけ冷たく調整した哺乳瓶を手に、再びユキの元へと滑り込んだ。
ユキは、私が戻ったことに気づくと、いつもはプロペラのように回転させる尾を、弱々しく「パタ……パタ……」と振った。
「さあ、お姫様。お食事の時間ですよ。……自分で飲めるかな?」
私が哺乳瓶の先を彼女の唇に寄せると、ユキは吸い付く力さえ惜しむように、私の指を求めた。
結局、私は自分の人差し指にミルクを垂らし、彼女の口元へと運ぶ。
「ちゅぱ……、ちゅぱちゅぱ……。ん……っ、んぐ……」
夢中で吸い付く、小さな音。
私の指を、まるで命綱のように両前足で抱え込み、必死に栄養を摂取しようとするその姿。
一口ごとに、ユキの喉が規則正しく鳴り、そのたびに彼女の身体から立ち上る「暴走する熱」が、氷晶万年雪の冷気によって静かに鎮められていくのがわかった。
……よし。効いてる。さすが剛山象ね。
この花の魔力が、ユキの中にある『冬の理』と正しく共鳴し始めてる。
でも、これだけじゃ足りないわね。この子の心が、まだ不安がってる。
私は、空いた右手でユキの背中を、円を描くようにゆっくりと撫で続けた。
「大丈夫よ」「私がここにいるわ」「あなたは最高に格好いい銀嶺狼になるのよ」
何度も、何度も、心の中で語りかける。
すると、ユキの瞳に、少しずつ、けれど確かな光が戻ってきた。
彼女は、ちゅぱちゅぱと指を吸いながら、私の方へと身体を擦り付けてくる。
熱はまだ高いはずなのに、その仕草はどこまでも甘く、私の母性をこれでもかと刺激した。
「わふぅ……。くぅ……。……んぅ……」
やがて、ユキは満足したのか、私の指を離した。
けれど、その代わりに、私のシャツの端を口に含み、そのまま「ちゅぱ……ちゅぱ……」と吸い始めたのだ。完全な赤ちゃん返り。
それから、小さな銀色の宝物が安心しきって眠りに落ちようとしていた。
……が。
そんな感動的なシーンを、黙って見守っていられない「協力者」たちがいた。
「もきゅーっ!!」「ぴぃーっ!!」
窓の外。
ママたちの目を盗んで戻ってきたルウとヒナが、居ても立ってもいられなくなったのか、リビングへとなだれ込んできたのだ。
「ちょ、ちょっと! ルウ、その口に咥えてる大量の野草は何!? ……ヒナ、そんなに鼻息を荒くしたら、部屋がサウナになっちゃうわよ!」
ルウは、「栄養をつけなきゃ!」とでも言いたげに、ユキの顔の周りに、どこからか毟ってきた(おそらく苦い)薬草をドサドサと積み上げる。
ヒナは、「温めてあげるぴぃ!」と、親譲りの熱を精一杯放ち、湿布を貼ったばかりのユキの額を再び沸騰させようとしている。
さらにヨルまでが、対抗心を燃やして影を肥大化させ、部屋を真夜中さながらの暗黒空間に変えてしまった。
「あああああ! もう、みんなストップ! ありがたいけど、今は逆効果なのよっ!!」
ちまっこい私は、ユキを抱きかかえたまま、四肢をフル活用して「迷走看護団」の交通整理に追われることになった。
……賑やかすぎるわね。
でも、ユキ。見て。みんな、あなたが大好きなのよ。
お姫様なんだから、これくらいのお騒がせは、我慢しなさいよね。
私の腕の中で、ユキは微かに口角を上げ、再び幸せそうに「くぅん……」と喉を鳴らした。




