第29話 最強の母親たち②
それは、もはや戦闘と呼べるものではなかった。
一方的な「理」による修正。あるいは、神の逆鱗に触れた羽虫たちの末路だ。
絶対零度の冷気が、逃げようとした帝国兵たちの脚を地面ごと凍りつかせ、逃走を許さない。
影の中から伸びた無数の漆黒の触手が、彼らが手にしていた不浄な魔導銃を飴細工のように握り潰し、その断片を虚空へと葬り去る。
さらに、巨体が地面を一度踏み抜けば、逃げ惑う男たちの目の前で大地が激しく隆起し、巨大な木の根が檻のように彼らを閉じ込めた。
「ひ……っ、ひぃぃぃぃ!! 助けてくれ! 悪かった、私たちが悪かった!!」
先ほどまで傲慢に笑っていた指揮官は、今や見る影もない。
彼は自分の股間から温かいものが漏れ出し、それが瞬時に凍りついていく屈辱に顔を歪めながら、腰を抜かして這いつくばっていた。
彼の目の前には、ユキの母親が、巨大な牙を剥き出しにして立ち塞がっている。
その瞳に宿る銀色の光は、「これ以上一歩でも動けば、魂ごと氷結させる」という冷徹な宣告だった。
「……殺す価値さえないわ。行きなさい。そして、二度とこの森を、この子たちを、その汚れた思考の中にさえ入れないことね」
私が静かに告げると、ママンズは一斉にその圧力を「解放」した。
予想に反して、一番ブチギレていたのはルウのママだ。
あの聖母のような優しさを持つ葉耳兎のママは烈火の如く怒り狂っている。
……もしかして、母親になって丸くなったけど、昔はヤンチャしてた系ママ?
大地を踏み締め、ルウママがギロリと帝国の侵略者たちを睨む。
ユキの母親に拘束を解かれた男たちは、もはや軍人としての矜持など微塵も残っていなかった。
彼らは、泣き叫び、失禁し、狂乱状態で森の外へと逃げ出していった。
武器も、誇りも、そして人間としての正気さえも、この庭に置き去りにして。
静寂が戻る。
残されたのは、ボロボロになり、力なく横たわっている剛山象だけだった。
「……さあ、お母さんたち。あの子を助けましょう」
私は、炎の盾を解き、疲弊して地上に降り立った不死鳥ママに駆け寄った。
彼女の美しい羽には、黒い煤と傷跡が刻まれている。私は彼女の胸元に手を当て、慈愛を込めて撫でた。
「ありがとう。……おかげで、誰も傷つかずに済んだわ」
不死鳥ママは、小さく安堵の吐息を漏らし、私の肩に頭を預けてきた。
頭を撫でると、優しい温もりが伝わってくる。
それから私は、動けずにいる剛山象の元へと歩み寄る。
ひどい……。
近くで見れば見るほど、吐き気がするわ。魔導鎖が皮膚を裂き、肉の奥深くまで食い込んでいる。
制御用の杭は骨を削り、そこから絶え間なく毒素を流し込んでいたのね。
……山の主として、どれほどの屈辱と痛みに耐えてきたのかしら。
剛山象は、死を待つような濁った瞳で私を見上げていた。私に近づく力が残っているはずもない。
私は、エプロンのポケットから、特製の「魔力中和薬」と、ユキの冷気で温度を保った薬湯を取り出した。
「大丈夫よ。……もう、誰もあなたを縛ったりしない。……痛いの、全部取ってあげるからね」
私は、まずその巨大な鼻先に手を置いた。
山のような重厚な魔力が、私の手のひらを通じて伝わってくる。
それは、本来なら大地を育む豊穣の力。
それが今は、不純物によってどろどろに汚されている。
私は、迷うことなく袖を捲り上げた。
まず最初に行うべきは、肉に食い込んだ「強制制御具」の除去だ。
私は、ヨルの母親に影の刃を借り、精密な外科手術を行うように、一つ一つの杭を慎重に引き抜いていった。
「――っ、ぐ、ぉぉ……」
剛山象が、痛みに震える。
私はそのたびに、ルウが生成してくれた高純度の治癒草の汁を傷口に塗り込み、痛みを麻痺させていく。
「我慢してね。……これを取らないと、あなたは本当の『山』に戻れないの」
1時間、2時間……。
日が完全に落ち、星々が瞬き始める頃。
ようやく、すべての拘束具が地面に転がった。
それから、私は巨大なバケツに薬湯を満たし、剛山象の巨体を洗い始めた。
泥と血、そして人間の醜い欲望。
それらをすべて、この水で流してしまいましょう。
あなたは兵器じゃない。あなたは、大地を鎮める気高い山の主なんだから。
私が「もふもふ海綿」で皮膚を擦るたびに、黒ずんでいた鱗が、本来の「落ち着いた岩肌のような灰色」を取り戻していく。
化膿していた傷口は、ルウの緑の魔力と私の洗浄によって、みるみるうちに塞がっていった。
洗浄が終わる頃。
剛山象の瞳から、赤黒い濁りが消え、深い森の奥にある湖のような、澄んだ青色が戻っていた。
「……ふふ。綺麗な目。……もう、自由よ」
私がそう告げると、剛山象はゆっくりと、震える足で立ち上がった。
彼は、自分を救ってくれた小さな私を、慈しむように見つめた。
それから、背後に控えるママンズたちに対し、山の主としての最大級の礼を捧げるように、その巨体を低く沈めた。
剛山象は、一度だけ、天地を祝福するような、朗々とした鳴き声を響かせた。
それは、苦痛の絶叫ではない。
自由を取り戻した『山の理』の、再生の産声だ。
彼は、そのまま静かに山の奥へと消えていった。
彼が去った後の足跡からは、不自然に突き出していた岩が沈み、代わりに色鮮やかな山の花々が、一斉に咲き乱れていた。
その花々の中には、園児たちのお手入れにも使える、伝説級の花々ばかり。
きっと、彼なりのお礼の品なのだろう。
「……終わったわね。みんな、本当にお疲れ様」
私は、疲労で座り込みそうになるのを堪え、4つの毛玉たちを抱き寄せた。
ユキ、ヨル、ルウ、ヒナ。
彼女たちは、恐怖の余韻を私の温もりで上書きするように、私の服に顔を埋めて甘えてくる。
空には、ママンズが静かに見守る中、銀色の月が昇っていた。
王都が崩壊しようと、隣国が野心を燃やそうと。
この庭に流れる時間は、誰にも、何物にも、汚させはしない。
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◼️保育日誌:星暦9999年、深冬の月
●園児:【お泊まり組】ユキ、ヨル【通園組】ルウ、ヒナ
●出来事:隣国隠密部隊の侵入。剛山象による威嚇。
ヒナちゃんのママが盾となり保育園を守護。
その後、他のママンズが到着し、敵を撃退。
●処置:ボロボロにされていた剛山象を緊急洗浄・治療。
拘束具を全撤去。本来の理を取り戻し、山の奥へと帰還。
●園長のコメント:特にルウママは怒らせないようにしなければならない。
優しく天使な人を怒らせた時が一番怖いというのは、どうやら
人間だけじゃなく幻獣にも当てはまるらしい。気をつけよ。
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通園組の2つの「もふもふ」が、愛する母親と共に帰路に着く。
お泊まり組を寝かしつけた私は、彼女たちの寝息を聞きながら静かにペンを置く。
腕には「山の理」を洗った時の温かな重みが残っている。
明日も、今日以上に波乱な1日になることを、私はまだ知らなかった。




