第14話 最強の保護者②
新主任の男は、もはや言葉を紡ぐことさえできなくなっていた。
彼の眼前に広がるのは、人間が一生をかけて魔導の真理を追究しても、決して届くことのない「神域」の光景だ。
親狼の瞳に宿る、万物を凍結させる永遠の冬。親兎の肢体にみなぎる、生命の理そのものである森の憤怒。
その二つに挟まれ、小さな私の足元で這いつくばる彼は、まるで嵐の前の羽虫のように儚く、そして滑稽だった。
「ひ……あ、ぁ……っ」
男の股間から、じわりと不浄な液体が漏れ出し、地面を汚していく。
第一級魔導飼育士という肩書きも、王立施設主任という権威も、本物の幻獣の「怒り」の前では何の役にも立たない。
彼は、自分が「家畜」として管理しようとしていた存在が、どれほどまでに巨大で、どれほどまでに誇り高い「世界の理」であったかを、今この瞬間に、命を削るような恐怖と共に理解させられていた。
「助け……助けてくれ、ネネ……! わ、私が悪かった! 頼む、その化け物たちを、止めてくれ!」
命乞い。
バルトロもそうだったが、なぜ彼らのような人間は、自分が絶対的な優位にあると思い込んでいる時には傲岸不遜に振る舞い、立場が逆転した瞬間に、これほどまでに見苦しくなれるのだろうか。
私は、震える男の瞳を真っ直ぐに見つめた。
冷たい視線。それは、情けをかける価値さえないものを見る眼差しだ。
「……化け物、なんて呼ばないで。この子たちは、この森の、そして世界の主よ。それを『管理』しようだなんて、最初から身の程を弁えていなかったのは、あなたの方じゃない」
私が静かに告げると、親狼が男の鼻先までその巨大な顎を寄せた。
吐き出される氷の息吹が、男の髪や眉を一瞬で白く染める。
男は、牙が首筋に触れる感触に白目を剥き、ひきつけを起こしたように痙攣した。
「王都に帰りなさい、新しい主任さん。そして、施設にいた連中や、王都の貴族たちに伝えなさい。……『あいつは、もう戻らない』と。もし、二度とこの森を、この保育園を侵そうとするなら……次に来るのは、話し合いでも、連行命令でもない。文字通りの『冬』と『森』の裁きが、王都を飲み込むことになるわよ」
私の最後通告に、男は何度も何度も、壊れた玩具のように首を縦に振った。
親兎が、拘束していた蔓を弾くように解放した。
自由になったはずの騎士たちは、腰を抜かしたまま立ち上がることもできず、這いずるようにして壊れかけの馬車へと逃げ戻っていく。
新主任に至っては、プライドも何もかもを捨て、四足歩行の獣のように無様に森の出口へと走り去っていった。
ガタガタと音を立て、逃げ帰る馬車の轍が消えていく。
やがて、森に再び、静謐な沈黙が戻ってきた。
「……終わったわね」
私は、肺に溜まっていた熱い空気を、長く吐き出した。
すると、背後にそびえ立っていた二頭の親獣たちが、その圧倒的な威圧をスッと霧散させた。
親狼は、私の頭を慈しむように鼻先で小突き、親兎は、私の肩をその柔らかな耳で優しく撫でた。
『よくやった』『我が子を守ってくれてありがとう』。
言葉はなくとも、彼らの皮膚から伝わる温もりが、そう語りかけてくるようだった。
「わふっ! わんっ!」
足元で、緊張の糸が切れたユキが、私の膝に飛び込んできた。
銀色の毛並みを一生懸命に逆立て、新主任を追い払った手柄を誇るように、私の顎をペロペロと舐め上げる。
「もきゅーっ、もきゅっ!」
ルウも負けじと、私のサンダルの上に乗り、長い耳をパタパタと振ってダンスを披露している。
さっきまでの凛々しい姿はどこへやら。
結局のところ、彼女らはまだ「園児」なのだ。
私が守らなければならない、愛すべき、小さき者たち。
でも、私はこの子達に守られてしまった。
「はいはい、わかったわよ。二人とも、とっても勇敢だったわ。……偉かったわね、ありがとう。ユキ、ルウ」
私は、ちっこい身体を精一杯広げて、二匹を同時に抱きしめた。
右腕に銀色の冬、左腕に鮮やかな緑の春。
その重みと温もりが、私の心にある王都での暗い記憶を、少しずつ上書きして消し去っていく。
親狼と親兎は、そんな私たちの姿を満足げに見届けると、再びそれぞれの領分――雪深き銀嶺と、命溢れる森の奥――へと、静かに帰っていった。
また、いつもの「お迎えの時間」まで、この子たちを私に託して。
私は、静まり返ったリビングに戻り、机に向かった。
開いたのは、今日の出来事を記すための保育日誌だ。
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◼️本日の記録:ユキちゃん、ルウちゃん
●健康状態:両名とも外敵の侵入により一時的な興奮状態にあったが、怪我はなし。
●特記事項:王都より招かれざる使者が来訪。園児二名が連携して、
園長を護衛しようとする健気な姿が見られた。
その勇敢な行為に対し、本日のご褒美として、夕食に特製の
果実ミルクを増量することを決定。
●追記事項:害虫は完全に駆除完了。この森の平和は、守られました。
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私は、炭の筆を置いた。
外では、ユキとルウが再び、何事もなかったかのように追いかけっこを始めている。
ミルクの時間には「もにゅもにゅ」と「ちゅぱちゅぱ」。
二つの愛らしい音が、陽だまりの中に溶けていく。
「……さて。王都の連中の相手はもうおしまい。午後の日程は、何にしましょうか」
私は、ちっこい身体を大きく伸ばし、窓の外の青空を見上げた。
王都の主任の座よりも、バルトロの評価よりも、私には、この小さな保育園の平和を守ることの方が、ずっとずっと大切で、価値のある仕事なのだ。
独白を終えた私の唇から、自然と鼻歌がこぼれた。
もふもふたちに囲まれた、辺境の保育園。
私たちの生活は、まだ始まったばかりなのだから。




