クリス・フォード(1)
長いので分割しました。
「赤ちゃんの握力って意外と強いのね」
シャーロットの人差し指を握るテオドールの力が思いのほか力強く、シャーロットは驚いた。
領地経営の授業が終わるとケリーの部屋へ遊びに行くのがシャーロットの日課となっていた。
「シャーロット様、テオドールに笑いかけてみてください」
ケリーに促されてシャーロットはテオドールに微笑んだ。すると、テオドールも笑顔になった。
「ミラーニューロンという脳細胞が働き、見ているものと同じ動きをするんです。ミラー効果とも言うのですよ」
「へぇ。じゃあ、面白くないけど笑っているのね」
「ふふ。そこが面白いところで、笑うとアドレナリンが生成されて楽しくなくても楽しいと感じるようになるんです。逆に、悲しい、辛いと思うとノルアドレナリンという物質が生成され、免疫力が低下したり記憶が定着しにくくなったりするんですよ」
「へええ。笑った方が良いのね」
「そうですね。お嬢さまも勉強の時につまらないと思うより、嘘でも楽しいと言ってみるだけで記憶力が上がって早く終わりますよ」
知らなかったわ。ケリーは平民なのに、色々と知っているのね。不思議だわ。
「それにしてもテオドールはお嬢さまのことが大好きですね。お嬢さまがいらっしゃると必ずお嬢さまの方を向くのですから」
こんな感じでシャーロットの日常は過ぎていった。
「しゃーろっとしゃま、ほんじつもおうつくしいですね!」
早いもので、テオドールも3歳になった。最近では言葉もスムーズに発声できるようになり、行動範囲も格段に広がった。今も、庭で摘んできた花をシャーロットに差し出してくれている。
「ありがとう、テオドール。テオドールも素敵よ」
シャーロットがテオドールの頭を撫でると、テオドールは満足そうに笑った。
「あらまあ、本当にテオドールはシャーロット様のことが大好きですね。母親の私には花をくれたことなんてありませんのに」
言葉とは裏腹にケリーの目には温かみがある。
テオドールが初めて発した言葉が『シャーロット』であったことが、シャーロットの密かな自慢であった。以来、シャーロットはテオドールを目に入れても痛くないくらい可愛がっている。
子どもってこんなにも温かなものなのね。本当にかわいいわ。
テオドールも自分を可愛がってくれるシャーロットが大好きであり、会う度に庭に咲いている花を摘んで持ってきてくれる。
「そういえばシャーロット様、来週はいよいよご結婚なさるのですね。少し早いですが、おめでとうございます」
「…ありがとう」
ケリーの祝辞に、シャーロットは浮かない表情をした。
結婚式は王国で最も大きい神殿本部で行われた。貴族の中でも上位のものしか使うことができず、ここで結婚式を挙げることが一種のステータスとなっていた。
豪奢な刺繍を施された純白の花嫁衣装に身を包み、シャーロットはヴェールの下で憂鬱そうにため息を吐いた。
結婚式が豪華で盛大になるほど惨めに感じるわね。結婚すればリリィ・アップルと別れてくれると思ったのに。むしろ、リリィ・アップルと付き合うのであれば、私と婚約破棄するのが筋じゃないの?
シャーロットがちらっと横に立つクリスを見ると、彼は不機嫌そうな顔をして前を向いていた。
「新郎クリス、あなたはシャーロットを妻とし、いかなるときも助け合い、苦難を分かち、共に生きると誓いますか?」
「…誓います」
「新婦シャーロット、あなたはクリスを夫とし、いかなるときも助け合い、苦難を分かち、共に生きると誓いますか?」
「…誓います」
誓いたくないわ。
おそらくクリスも同じことを思ったのだろう、誓うまでに間があった。
「では、ここに夫婦となることを認めます。指輪の交換を行ってください」
シャーロットとクリスは指輪を交換し、正式な夫婦となった。
ばかばかしい。結婚の費用も、指輪も、新居も全てブラックウェル侯爵家が払ったわ。そうまでしてお父さまはこの結婚を進めたかったのかしら。
内心で毒づくシャーロットだが、新居に移ってからさらに呆れることとなる。
**********
結婚式が終わり新居に着くと、リリィが使用人と一緒に玄関の前に並び待っていた。
リリィ・アップル?ここで何をしているの?まさか、一緒に暮らすわけじゃないでしょうね。
シャーロットは背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
「ようこそ新居へ、シャーロット!ずっと待っていたわ」
シャーロットの姿を見つけると、リリィは駆け寄ってきた。
ひぃッ!こっちにやって来たわ。なぜこちらに来るのよ!あなたが行くべきはクリスの方でしょ!?
横目でクリスを見たが、笑顔のまま固まっている。当然、自分の方へ来ると思っていたみたいだ。
わかったわ!まずは女主人への挨拶が必要と考えたのね。夫婦共同名義とはいえ、購入と手配はブラックウェル侯爵家がしたもの。
「こんにちは、レディ・アップル。まさかあなたがここにいるとは思わなかったわ」
「えへへ。実は料理人として働くことになったの。王宮料理人にスカウトされる腕前だから、楽しみにしていてね!」
無邪気に笑うリリィを見て、シャーロットは正気を疑った。
クリスに頼めば働かなくても住まわせてもらえそうだけど。まさか、毒殺しようとしてる?でも、この状況で毒殺されたら、真っ先にリリィ・アップルが疑われるわよね。まあ、私の治癒力があれば死ぬことはなさそうだけど。
シャーロットは辛うじてそうなの、とだけ言い、新居へと足を踏み入れた。
**********
シャーロットの心配をよそに、新生活は何事もなく過ぎた。
何事もなさすぎて3年も経ってしまったわ。
月に数回、ブラックウェル侯爵家に戻りテオドールに会うのがシャーロットの楽しみとなっている。
「シャーロット様、見てください。シャーロット様には劣りますが、美しい花ですよ」
テオドールも6歳になり、父親とそっくりな外見になるだろうと予感させられた。
いつだったか、私がテオドールの名前を付けた時に思い浮かんだ光景と全く同じだわ。
「本当ね」
そう言って微笑むシャーロットは絵画から飛び出したように幻想的だった。
やっぱりシャーロット様は美しい。
テオドールが内心でそう思っていると、背後から母親の声が聞こえた。
「テオ、あまりシャーロット様を困らせてはいけませんよ」
「はあい」
返事は素直に言いつつ、テオドールはシャーロットに向かって跪いた。
「シャーロット様、ぼくと結婚してください」
今は無理でも、いつかシャーロット様と結婚するんだ。
テオドールは美しく微笑むシャーロットを見て決心した。
「まあ、この子ったら。すみません、シャーロット様。もう、テオったら、シャーロット様はご結婚しておられるのですよ」
「ふふ。テオドール、嬉しいわ。でもね、私はもう結婚しているからテオドールと結婚できないのよ」
かわいい王子様。私にもこう言ってくれる人がいたら良かったのに。私に子供がいたらこんな感じなのかしら。
シャーロットはテオドールとケリーを見て羨ましく思った。
**********
家に帰ると、甘い匂いが漂っていた。
「おかえりなさい、シャーロット。今、苺のドライフルーツを使ったガトーショコラを焼いているの。焼きたてはとっても美味しいわよ」
「…いただくわ」
3年間過ごしてきて、シャーロットはリリィの腕前を認めざるを得なかった。
王宮料理人にスカウトされた実力は伊達じゃないわね。侯爵家で食べた料理よりもずっと美味しい。
でも、この生活も終わりにしないと。
夜、クリスが帰宅したのを確認してシャーロットは部屋を訪ねた。
「話しがあるのだけれど」
声をかけると無言でクリスが部屋から出てきた。