共に帰ろう
いよいよ最終回です。。
お付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。
大樹の幹をこの身体があっけなく通り抜けると、中は温かい水で満たされていた。神気を含んだ水は僕の身体に触れると死者の穢れを浄化しようとする。黒い靄が身体の表面から現れては水に流されていった。
「トワ!」
水中で光り輝く彼女はドクンドクンと大樹の息吹に合わせて胸を上下に動かしていた。僕の叫びは水の中に吸収され、彼女には届いていない。半ば泳ぐような形で彼女に近寄っても、目を開ける様子はない。
もっと苦しそうな顔をしているかと思っていた。
けれど実際に彼女をまじまじと見つめると、微笑んでいるように見える。そもそもこの空間だって想像よりもずっと温かかった。まるで母親の胎内のように水に満たされた場所。穢れすら祓う聖なる力に満ちた場所。なんて穏やかで、優しくて。
なんて静かな所なんだろう。
全力で叫んだ声すら消えていって。耳にはただ、水の揺蕩う音しか聞こえない。
本当なら訪問者すらいない孤独の空間。それでも彼女は満ち足りた表情で身体を委ねていた。
「トワ!」
輝く光のヴェールに包まれた彼女の耳元でもう一度叫ぶと、眠そうに長い睫毛がぴくぴくと揺れた。そしてゆっくりと目を開く。
「レー、ベ……? 私の願いを叶えてくれたのですね?」
僕の表情から読み取ったのか、周囲の気配から感じ取ったのか、トワは自分の最期の願いが無事叶えられたことを知って安堵の表情を浮かべた。
「うん。あの場所にいた彼らも、自らが災厄となることは望まないだろう。僕と一緒に、逝ってくれるはずだ」
「そう、ですか。良かった――。ごめんなさい、貴方にそんな悲しい決断をさせてしまって」
「謝らないでよ。君の願いを叶えられて、嬉しいんだよ? それに、君とも最後に会えたしね」
巫女様は僕に会うと謝りたくなる衝動にでも駆られるんだろうか。そんな馬鹿なことを考えつつ、笑って見せた。
後悔なんてあるはずがない。もう会えないと思っていたのに、最後にトワと話せただけで幸せなんだから。
「貴方はどうしてここに――あぁ、そうね、神木の力によって実体化していた貴方だからこそ辿り着くことが出来たのね」
「ほんと、神木には感謝しないと」
大きく腕を広げた僕をトワは拒まなかった。そのまま彼女を優しく抱擁すると、トワも背中に手をまわし、ぎゅっと力を入れてくれた。
ずっと触れ合えなかった。どれだけ想っていても、触れてはいけなかった。僕は穢れた死者の魂であり、彼女は強大な力を持つ巫女様だったから。
けれど、それももう終わり。トワは巫女様という存在から解き放たれる。
「さあ、トワ。帰るんだ」
「え……?」
身体を離し、泣き出しそうな目で見つめるトワ。けれど僕は自分に鞭を打って言葉を紡ぐ。
トワをもう一度目覚めさせるために。
「君はまだ死んでいない。過去のソフィアさんのように、眠っているだけだ。僕が今抱きしめちゃったから、君の巫女様の力は失われてしまったかもしれないけれど、ね」
「そん――な」
トワは慌てた様子で自分の身体を隅々まで見回し、もう一度絶望した声色で「そんなこと……」と呟いた。簡単なことだった。穢れた死者の僕は巫女様に悪い影響を与えるから触れてはならない。逆に言えば、僕がその気になれば巫女様の力を失わせることだって可能なはずだ。
「何を考えているのですか! 私はこんなことを望んでいたわけではありません!」
分かっている。トワはこの地を守るためにその幸せを諦めてしまったから。残酷な運命を受け入れてしまったから。彼女はこんな願いを口に出したりしない。けれど。
『トワ……!』
誰かの甲高い声が聞こえた。さすがベアトリーチェ、良いタイミングだ。きっと今頃神木の近くで彼女は叫び続けていることだろう。突然失われてしまった、友達の名を。
「ベアトリ―、チェ?」
『トワ! 帰ってこい!』
今度は鋭さを持った、青年の声だった。いつもは面倒だと言ってさぼりがちな彼が必死に叫んでいるのだと思うと、何だか愛おしくなる。
「ノエル……!」
「二人が待ってる。それだけで、理由は十分だと思うんだけど」
「帰れるわけ……ないじゃないですか。私は神木だけでは浄化しきれない穢れを引き受けるためにここへやって来たんです。戻ればまた災厄が――」
「僕が死者の魂を連れて行く。そうすれば神木だけでも事足りるでしょ。霊魂の間も解放したし、君がここに留まって浄化をする必要はない」
「けれど……。私は巫女なんです。来るべき時にこの身を捧げるのが使命で――」
「うん、だからさっき僕が君を巫女様からも解放したよね。死者の魂である僕にこれだけ触れた以上、もう巫女様の強大な力は残っていない。それはトワが一番分かっているはず」
「……っ!」
我ながら短い時間でトワのために尽くせたものだと褒めてやりたい。これで彼女がここに留まる必要も、これから巫女様として全てを背負う必要もなくなった。トワが、トワとして生きることのできる未来を与えてやれる。
ねぇ、だからそんな顔をしないで。
次の瞬間、右の頬に熱い衝撃が走った。あまりのことに、トワが平手打ちを食らわせたのだと気づくまでに時間がかかった。
「私も貴方と一緒に逝きます! どうせ死ぬ運命だったんです。それが早くなったからといって――」
「まだ君は死んでないから、駄目だよ」
「いいえ、すぐにもっと穢れを引き受けます。そうすれば私も貴方と一緒に――」
「前に教えたでしょ。誰かを引き留めたいときは痛みじゃなくて言葉で伝えるんだって。平手打ちなんか論外だよ」
「そんな屁理屈、言わないでください。これじゃあ貴方に全部委ねて、それでハッピーエンドなんて。そんな結末、許されない!」
震えるトワの肩にそっと手を置いて彼女の青い瞳を見つめる。
そんなこと、ない。トワは十分すぎるほど苦しんだ。オリバーさんもソフィアさんもアシュリーさんもベアトリーチェもノエルも、願いはきっとただ一つ。けれどそれがあまりにも遠く、手が届かない。僕たちが最善を選んでも悲しみの連鎖は続いていく。それを断ち切るための鍵を、トワは僕に与えてくれた。
僕はね、嬉しいんだ。やっと君の力になることが出来るから。
「君と出会ってから今日で三百六十日なんだって。一年も経っていないのに、君の存在を大切に想うには十分な時間だったように感じるよ。トワは、違ったのかな」
「いいえ、いいえ! 私も貴方と過ごした日々は宝物だった。その日々があったからこそ――ベアトリーチェ、ノエル、そしてレーベと過ごした日々があったからこそ私は巫女としてこの時を迎えられたんです」
「そっか。じゃあ、あの二人をこれ以上泣かせないで。ほら、僕は元々死んでたし、ね。君の方は突然いなくなっちゃったもんだから二人は相当ショックだったと思うよ」
ねぇ、トワ。僕は不思議と怖くないんだよ。もちろん君と離れるのは辛くて、もう目が覚めても古城には戻れなくて、ベアトリーチェやノエルと冗談を言い合うことも出来なくて。
だけど、君の力になれたっていう誇りだけを胸に、僕は逝く。僕が今、本心から笑ってるんだってこと、君なら分かるだろう?
「……貴方は分かっていないんです。貴方のいない世界なんて帰っても意味なんてない」
「そんなことないよ。ベアトリーチェもノエルも君を待っていてくれている」
「貴方のことも、待っているでしょう! ……だから、私は!」
そう叫ぶと、トワはいきなり僕の身体に抱きついた。一回り小さな身体が精一杯腕を広げて僕のことを包みこもうとする。肉体なんてなくなったはずなのに彼女に触れた部分は温かい。気づけば彼女を中心として青い光の粒がぽうっといくつも輝いていた。
「トワ、なにを」
「貴方は生まれ変わりを待つ魂。その魂は天へと昇り、神の力を得てもう一度この世界に生を受ける」
まるで古書を諳んじるように語る彼女の声に、迷いはなかった。
「けれど一度天に昇ればそれまでの記憶は全て失い、姿も変わってしまう。もうこの姿で会うことは出来ない」
そんなの、分かっている。だからベアトリーチェとノエルに最期の挨拶をして来たんだ。たとえもう会えなくても、いつか生まれ変わった魂はまた惹かれ合う――そこに僕の記憶がなくても仕方のないことだ。そう言い聞かせた。
「それなら私がここで、貴方に神気を注ぎ込みます。この魂が『貴方』であるうちに」
「そんなこと」
「出来るはずです。かつて神木の持つ力は死者の魂である貴方を実体化させました。神木の中という神聖な場所で神気を注ぎ込めば、貴方をまたあの世界に帰すことも出来るでしょう」
「でも、もう君に巫女様の力は残っていないだろう? 僕が全部……」
「私は神木と一体化するためにここで眠りに就いていたのですよ? たとえこの身体に神気が宿らなくても、この空間を満たす全ての力が今、私の支配下にあります」
耳元でトワが小さく息を吸うと空間を満たしていた水が一斉に輝きだした。彼女の支配下にあるというのは本当らしい。
「僕は……戻れるの」
頷く代わりにトワは僕を抱く腕に力を込めた。内側から何かが溢れだしてくるような不思議な感覚が満ちてくる。彼女の手を通じて神気が注ぎ込まれているのだろう。
「君とまた、一緒に過ごせるの」
小さな希望に縋るようにトワの背中に手を回す。
「そんな僕だけを特別扱いしてはいけないよ」と窘めると、「誰かのせいでもう巫女様ではありませんから」と皮肉っぽく返された。
まるで夢を見ているようだった。
君を失う日。
君が孤独の世界へ旅立ってしまうことが怖くて。
『貴方は私がこれから出会う候補たちの一人。そして貴方もこれから何人もの大切な人だと思える存在に出会える。私にばかり、感情を寄せては駄目。私にそんな同情を抱いてはいけないわ』
そう言った君の表情を忘れられなくて。
夜、何度も何度も悪夢で跳び起きた。
けれどそんな君が。
『……貴方は分かっていないんです。貴方のいない世界なんて帰っても意味なんてない』
こんな風に僕を想ってくれて。僕を特別扱いしてくれて。一緒に帰りたいと思ってくれて。
僕が候補として古城にいた時間は無駄じゃなかったんだってようやく分かった。ベアトリーチェとノエルが、トワの帰ってくる場所を作ってくれたからこんな夢のような未来が選べたんだ。
急に視界が開けて、僕とトワは抱き合ったまま神木の外に出ていた。根元の辺りで祈っている二人にはまだ僕たちの姿は見えていないようだ。まさか僕を生き返らせようと無茶をして不完全な状態で神木の中から追い出されたんじゃないかと不安になったけれど、トワは心配する必要はないと微笑んだ。
「心配しないでください。もう神気を必要としなくなったのであの空間を出ただけです。そこは暗くて寂しい所だから……。私たちの存在がこの世界に馴染めば二人にも認識してもらえるようになるでしょう」
安心させるためにしてくれたはずのトワの説明は半分も分からなかった。ただ僕が心配するような状況にはなっていないらしい。ということは、僕はもう死者じゃないのか。
そう尋ねようとして、けれどトワがふいに顔を動かしたから、僕も彼女から一旦離れてその方向を向いた。災厄を引き起こそうとした巨人から、大量の光の粒を引き連れてこちらへ向かってくる二人の姿。
「あ――もう僕が連れて行くことは……」
死者の魂でなくなってしまった僕に、もはやこの地に彷徨える魂を天に連れて行ってやる力はない。そう項垂れた僕に、駆け寄ってきた二人は「大丈夫」と口を揃えた。
「ありがとう。貴方がいなければ、私はこの人たちを置いて自分だけ浄化されてしまうところだった。――でもこれで十分すぎるほど。ここから先は、私たちが連れて行きます」
ソフィアさんの口調はオリバーさんの手記から想像したよりもずっと芯の通ったもので、彼女がどれだけの想いを抱えて眠り続けたのかを物語っている気がした。
ソフィアさんとオリバーさんは僕の返事も聞かずに頷き合い、まるで地を蹴るように勢いよく上に昇って行った。
「あ……」
お礼すら言えないまま逝ってしまった二人の姿を追って顔を上げると、光の粒が競い合うようにその後をついていくのが見えた。
「あの二人はきっと、大丈夫です。長い時間ずっと離れ離れだったのですから、私たちが邪魔をするのはよくありません」
「うん……そうだね」
「帰りましょう、レーヴェ」
あ、と彼女の方を覗き込むと、クスクスと声を漏らした笑み。まったく、こういう重要な場面でだけ名前を間違いなく呼べるなんて。絶対に狙っている。
「そうだね、トワ」
こんな風にこれからも笑い合えたら良い。トワが、トワのために歩む人生で、出来ることならずっと隣に寄り添っていたい。
僕がプレゼントした髪留めがきらりと光に反射してトワが一瞬目を閉じた瞬間。僕はトワの唇にそっと近づいていた。
巫女様から解き放たれた君はこれから大きな世界で自由に生きることになるんだろう。そして多くの人と出会い、もしかしたら違う人と恋をして、子供を作って、幸せに暮らしていくだろう。
けれどこれだけはどうか忘れないで。
「君の候補になれて、幸せだったよ」
心地よく身体を撫でる風に吹かれて身体を離すと、トワはいつもとは違う、はにかんだ表情で僕を見つめていた。
レーヴェがトワと一緒に地上へ舞い降りて、かっこよく別れの言葉を託したはずの二人からいじられるのは、また別の話。
ということでようやく完結いたしました。
評価や感想をいただけると嬉しいです。
読んで下さりありがとうございました。




