第一節 任務開始 ③
「わりと激しめな戦闘だったってのに、まだまだ元気そうだな」
クレイグとアイオーンが戻ってきた。アイオーンはすでに右手を元に戻しており、まくし上げていた制服も下ろして黒い手袋をはめている。アシュリーとダグラスも、調査隊員たちを連れて戻ってきた。ダグラスの手の甲には、ほんのりと赤く滲んだ包帯が巻かれている。
「ダグラスよ、包帯を外せ」
「いや、いいよ。後で──って、おいコラ、勝手に外そうとすんな! 痛いっつーの!」
アイオーンが何をしようとしているのかを察したダグラスは、それを断ろうとした。だが、アイオーンは問答無用で彼の手首を掴んで固定し、包帯を解こうとしている。
「そなたがせぬゆえ、仕方なく解いているのだ」
「あー、もー……わかったよ。自分で解くって」
ようやく包帯を解く気になったダグラスに、アイオーンはため息をつく。
「怪我人が強がるな」
「別に、早く治さんと死ぬとかのレベルじゃないだろーがよ」
「雑菌が入るであろう」
「いや、雑菌の話かよ」
まさかの理由にダグラスは思わず呆れながら笑った。そのことに対し、アシュリーはすかさず「母さんみたいなセリフやな」と呟くと、「雑菌を侮るな」とアイオーンは注意する。
「……総長……すみません……」
イヴェットが俯きながらダグラスに近づき、謝罪した。
「ん? イヴェットは何も悪くないだろ? 何も気にすんなって」
ダグラスは明るい口調だが、イヴェットの顔は晴れる様子がない。
包帯を解くと、患部からの出血は止まっているが酷い火傷のように皮膚は赤黒く染まっていた。ダグラスは苦悶する顔を表に出していないが、これほどならば指先を動かすことも難しく、治癒術を施さなければ生活しにくいはずだ。
アイオーンは、ダグラスの手を掬い上げるように持った。すると、しばらくしてから患部に魔力が集まるのを感じ、皮膚が再生を始める。
「……治癒術を使いこなせる人が、この時代にいるなんて……」
ふたりの調査隊員は、驚きと感心の目をアイオーンに向けた。治癒術は、現代では失われた魔術のひとつだ。昔の人でも治癒術は難しい技術であったらしく、治癒術の技能継承は早くに途絶えたらしい。指南書は残っているらしいが、魔術は言葉や文字で教えるよりも、教師が直接やってみせなければ解らないことも多い。なので、魔術を覚えるには師弟ともに実践が重要となる。
「……それにしても、ここまで高度な幻影術式が施されていたのは、さすがに予想していなかったわね……」
初っ端の調査でこれほどの激しい戦闘が起きるとは。極秘部隊とはいえ、ユリアたちにしか対処できなかったことだろう。
「調査隊の人たちが受けた被害が、なんとなく小さめな印象を受けてしまっていたからだろう。すぐに聖杯を手放したから、それだけの被害で済んだのかもしれない。──本当は、聖杯はもっと凄い力を秘めているんだろうね。この侵入者対策と思わしき幻影術式からも、それを感じるよ」
「『ヴァルブルクと同じようなものかもしれない』って言ってたカサンドラ様の勘は当たりだな」
テオドルスとクレイグの言葉に、ユリアは憂いた顔で同意した。
やがて、ダグラスの治療が終わり、彼の手の甲には傷跡もなく元の姿に戻った。
「ありがとな、アイオーン。いやぁ……今日からガチめに戦闘訓練に励まんといかんね……」
と、ダグラスは、気の抜けた声を出しながら怪我をしていた手の甲を擦る。アイオーンは、ダグラスの治療を終えると、彼に踵を返して祭壇の間がある隠し扉の前へと向かった。
「……」
再び魔力で扉を動かそうと魔力を集束させる。今度は、何も起きずに扉を開けることができた。祭壇の間は、簡素な祭壇があるだけで他には何もない。アイオーンは祭壇の間に一歩足を踏み入れ、しばらく立ち止まった。室内をくまなく見渡すと、何も言わず祭壇の間から退室し、再び魔力を使って扉を締めた。
「……ここには、もう何も無い。外へ行こう」
いつも通りの無表情でそう言うと、アイオーンはひとりで出口に向かっていった。まだ様子がおかしい気がする。だが、それを指摘しても欲しい返事は帰ってこないだろう。
ユリアは、調査隊員たちに顔を向けた。
「動けますか? ……足が、まだ震えていますが……」
ふたりの足は、まだはっきりとわかるくらいに震えていた。現代ではあり得ない戦闘だったのだ。ある意味、戦争のような光景だと思っただろう。心に深く刻まれるほどの恐怖を感じるのは当然だ。
「……歩けます」
声色も弱々しい。ユリアは、申し訳なさそうに頷いた。
「……では、行きましょう」
皆が歩き始めたその時、テオドルスが走り出した。すでに遠く離れていたアイオーンを呼び止め、何かを耳打ちした。
◆◆◆
停車させていたワゴン車まで戻ってきた。
しかし、調査隊員の恐怖心は相当なもののようで、運転を任せることが不安になるほどに手が震えていた。なので、帰りはラウレンティウスとダグラスがそれぞれのワゴン車を運転してくれた。ユリアたちは、ワゴン車に内蔵されているナビゲーションを使い、まずは調査隊の詰所へと向かうことにした。詰め所に到着した後は、交通機関を利用すれば屋敷に帰れるため問題はない。
「今日は、ありがとうございました」
目的地に到着すると、一行は、ワゴン車から降り、別れの挨拶を交わす。
「いいえ……。助けていただいて、ありがとうございます……」
顔は無理をした笑みに、元気のない声。案内を頼んだことを悔んでしまうほどに痛々しい。
すると、アイオーンがふたりの前に近づいてきた。
「……ふたりとも、額の部分に少しだけ怪我をしている」
「えっ、怪我ですか……?」
調査隊員のふたりは、自分の額に触れる。しかし何も怪我はしていない。その隙に、アイオーンはふたりに近づいた。
「失礼」
と言って、左右の手の人差し指を、ふたりの額に押しつける。その瞬間、ふたりの目が虚ろになった。
あれは、まさか。
「──今日は、世話になった」
両方の指先を下ろすと、ふたりの目は元に戻った。
「いえいえ。何事もなくご案内できて良かったです」
先ほどの声色とはうって変わり、明るいものとなった。もうひとりの調査隊員も同様であった。
「では、私たちはこれで失礼します」
ふたりは踵を返し、元気な足取りで詰め所へと帰っていく。あの恐怖に苛まれていた心が、すっかり無くなっている──。
「アイオーン……あなた……」
「……あの戦闘があった時間と、その前後の記憶を消し、何も起きず穏やかに調査を終えた記憶を創ったのだ」
ユリア何かを言おうと口を開けた。が、テオドルスがユリアを制止する。
「アイオーンは悪くない。これは、私が提案したことだ」
「いいや。わたしも、テオドルスの考えに同意した。ゆえに同罪だ。……それでも、あの記憶は、彼らが生きていくには重き枷となるやもしれぬと思うとな……」
ふと、ユリアは思い出す。
地下遺跡から出る前に、彼はアイオーンのもとへ走っていた。それは、このことを提案するためだったのか。
「──私たちがそうしたのは、うっかり今日のことを誰かに漏らされたらいけないという不安があったからではないよ。あの人たちにとって、あの戦闘は間違いなくトラウマになっていたと感じたからだ。戦いが終わってからもずっと震えていた。車も運転できないほど、すでに支障が出ていた……。だから、アイオーンに頼んだんだ。──エゴであることは承知している」
「……あの人ら、車の中でもずっと黙りっぱなしで震えてたもんな……。このことで精神科に頼ろうとしても、あの出来事なんか医者にも言われへんし……」
アシュリーの言葉に、ユリアたちは黙り込んだ。
たしかに、世の中には忘れたほうが良いこともある。あの人たちにとって、それはあの記憶かもしれない。
勝手に他人の記憶を消してしまった──いつかのユリアも、両親とテオドルスを殺めなければならなかったことに絶望したことで、自身の肩書きからも逃げて目をそらし、アイオーンに願って人々の記憶を改ざんした。それは、本当にしても良かったことなのかと、今でも疑問に思うときがある。だが、消してしまった。それは変わらない。この晴れない気持ちは、その罰としてずっと抱き続けると決めた。
だが、彼らから消した記憶は、彼らにとって大切な記憶ではなかったことは確かだ。そして、その記憶があるからこそ、苦しみを抱えながら暮らすことになりそうだった。その苦しみは、ユリアにはよく解った。
ユリアは、長く深い息をゆっくりと吐き、空を見上げる。
「──この遺跡調査では、はっきりと判ったことはなかった。次に有力な情報があるのは、警察機関からの情報ね」
ここで長く立ち止まっているわけにはいかない。
今は、聖杯のゆくえを探らなければ。
「ラルス。今朝、言っていたわよね。警察機関から貰った情報があるって──どういう情報なの?」
「森の中で、奇妙な現象が三つ起きているらしい」
「三つの奇妙な現象……?」
「まずは、魔力濃度の異常だ。そこにある母なる息吹は小さいもので、噴出している魔力濃度は普段なら低いほうらしい。だが、森の奥に行くにつれて濃度が極端に上がっていくとのことだ」
魔力濃度が上がることは、現代では有り得ない現象だ。今も、母なる息吹から噴出される魔力は減衰していっている。それなのに極端に上がることは、明らかに異常だった。すると、それを聞いたアイオーンは、ふと何かを考える様子でラウレンティウスから目線をそらした。
「次は、謎の黒い霧の発生。魔力濃度が高まっている場所から、どこからか黒い霧が流れてくるらしい。そして、最後に、野生動物たちが死ぬか凶暴化するかのどちらかの異変が起きていることだ。凶暴化している個体は少ないようだが、身体の一部が不自然に変異している個体もいるらしい。爪や牙が巨大化していたりな」
「まるで魔物のようだね……」
「動物が、魔物みたいに……」
テオドルスとイヴェットが呟くと、特務チームに緊張が走った。魔物は、魔術師と同じく魔力を扱うことができる生き物だ。大気中の魔力が薄まってきた時代から姿を消していき、今では旧ヴァルブルク領とごく一部の地域のみに存在する。魔力濃度が上昇していることもあり、その森だけ時代が逆行しているかのようだ。先ほどの遺跡調査での出来事とは、また違う異常さである。
「あまりにも急に現れた異変だから、自国の警察機関に属する魔術師に調べさせるよりも、先に俺たちに行ってほしいと思って情報を回してくれたんだろう。この異変に聖杯が関わっていたら、普通の魔術師だと何もできない」
と、ラウレンティウスは言った。
「その状況だと、早めに行ったほうが良さげかもな。その森の近くに、街か村があるんじゃないか?」
クレイグが問うと、ダグラスが頷く。
「ああ。付近の村人たちは不安に思っているらしい。母なる息吹があるから、森から比較的遠くにある村で、普段でも森には誰も立ち入らないみたいだけどな。それでも、そんなのが起こっちまったら怖いわな」
「総長。今日はみんな疲れも溜まってるやろうし、そんな森に夜から行くのも危険すぎます。急ぎやとしても、行くなら明日の朝がいいですよね」
「ああ。アシュリーの言う通り、無理はするもんじゃねえ。明日、向かおうぜ」
ダグラスの言葉に、他のメンバーは頷いた。