第二十九話
ふたりは家に帰るまで、無言だった。
何か気の利いたことを言ってあげたいのだけど、あいにくそんなセリフは出てこなかった。
だから私は、咲良さんの手を握り続けた。
咲良さんも、握り返してくれた。
それで、十分だろうから。
お風呂が沸きましたと言うアナウンスが発声されるまで、ふたりは無言でソファに座っていた。
手を離さずに。
いや、手を掴まれたままという、そんな表現が正しいかもしれない。少し、痛かったので。
「先輩、先にお風呂頂きます」
「うん?私もすぐに行くよ」
咲良さんが、私を見つめている。
いつものあの、自信に満ちた表情ではなく、どこか弱弱しかった。
う~ん、困ったなあ。こんな咲良さんは初めてだし、どう対処すればいいんだ?
「はい、待ってます」
ふ~、どうしたらいいんだろう?
「おじゃまします」
咲良さんはいつものように、バスタブに浸かり、頭を後ろ向きに、つまりこっちに向けていた。
私はいつものように、咲良さんの髪の毛を洗おうと思ったけど、まだ髪を結ったままだった。
「咲良さん、髪を解いてくれるかな?」
「今日は、そんな気分じゃありませんから、いいです」
「そう、だったらなおのこと、咲良さんの髪の毛を洗わせて?」
「先輩?」
「何も無かった。平常運転だよ」
咲良さんは手を後ろに回して髪の毛を解くと、長い髪がぱらりと広がった。
その光景に、つい見惚れてしまった。女性の髪の毛って、いったい、どうなってるんだ?
私はシャワーで咲良さんの髪を軽く洗い流し、シャンプーを泡立てて、彼女の髪の毛を洗った。
いつもより、優しく、丁寧に。
「先輩」
「何かな?」
「なんで、何も聞かないんですか?」
「う~ん、何を聞いたらいいのか、正直分からないんだよ」
「私、最低なオンナなんですよ」
「ふ~ん」
「そこは、否定するところじゃないですか?」
「うん、そうだね。咲良さんは、最低じゃないね」
「先輩、ずるいです」
「ほら、一応人生の先輩だし、それなりに経験も積んでいるしね」
「もう、いいです」
「うん、いいよ。今は、君の髪の毛を洗うのに、集中したいしね」
「先輩」
「なんだい」
「愛してます。本当です」
「うん、ありがとう」
咲良さんの髪の毛についたシャンプーの泡を洗い流し、次にトリートメントをすることにした。
「先輩、もし警察に捕まることがあっても」
「捕まらないよ」
「でも、母さんが」
「どういう容疑で、私は捕まるんだい?」
「え?誘拐?監禁?」
「なんでさ」
「分かりません」
「私と咲良さんは、お互いに納得して婚姻届けを出したんだよ。それで誘拐って、変じゃないかな?」
「そうなんですか?」
「そうだよ。もちろん、君が私に愛想を尽かして出て行こうとして」
「出ていきません!」
「だから、たとえ話だって」
「すみません」
「まあ、一般論だけど、別れたい妻を無理やり引き留めたら、まあそこで監禁とかになるのかな?」
「そうなんですか?」
「そう、だって大事なことはさ、本人の自由意志だからね」
「私、先輩のお嫁さんでいたいです」
「私もだよ。君の側に居たいよ」
「もし、母さんが来たら」
「その時は、警察に通報しなさい」
「え?」
「だって、君を強要しようとしているのは、あの人でしょう?」
「そうなりますか?」
「そうなります」
「迷惑になるんじゃ」
私は咲良さんの頭を、わしゃわしゃしてやった。
「せ、先輩?」
動揺する咲良さんは、意外に可愛い。
いえね、一度はやってみたかったんだよ。
こんな時しか、恐らくは出来ないだろうから。
「ほら、富める時もだよ。迷惑云々は、考える必要無しだよ」
「先輩、どうせカッコつけるなら、もっとちゃんと言ってください」
「だって、セリフを忘れちゃったんだよ」
「だからですか、前の奥様の顔を忘れたのは?」
「いや、本当に分からなかったんだよ。怖いね、歳月って」
「でも母さんは、先輩の顔がすぐに分かったみたいですよ?」
「そうみたいだね。何でだろう?」
「先輩が、変わらないからでしょう?」
いい意味と、受け取っておこう。
昔から、良く言えば貫禄ある、悪く言えば老けているだったし。
容姿に年齢が追いついたと、そういうことかな?
「君がなんで、私の前の妻の話を聞きたがっていたか、これでよく分かったよ」
「先輩、私を軽蔑しますか?」
「またあ」
「だって」
「だってもないよ。ホント、君って面倒くさいね。もっと、シンプルに行こうよ」
「先輩こそ、もっとちゃんと考えてください」
「ああ、それは無理ね」
「先輩」
「仕方ないじゃないか。こうやって、生きてきたんだから」
「なら、私が先輩を守ります」
咲良さんが、腕を上げた。
「ええっと、なに?」
「応じてください」
「今、私は君の髪の毛を、懸命に洗っている最中なんだけど?」
「先輩?」
「ああ、分かったよ」
私も、彼女の手を合わせた。
トリートメントが付いた手だけど。
それでも、ふたりはしっかりと、手を握った。
決して、滑らないように、離れたりしないように。




