第二十八話
「母さん、何で?」
「咲良、さあ帰るわよ」
その中年女性は、我が愛妻の腕をむんずと掴んで歩き出そうとしたが、私も釣られてしまった。
だって、咲良さんが私の腕を離さないから。
仕方が無く、二人の間に割って入ろうとした。無謀にも。
しかし、その必要はなかった。
「放して!」
まあ、そうだろうなと思った。
咲良さんの方が力が強く、振り払われた中年女性の方が驚いていた。
「どうして?」
中年女性は何故か、私を睨んできた。
容姿はあまり似ていないけど、睨む時の表情は確かに母娘だった。
いや、こんなところだけ、似なくていいと思うけど。
正直、こんな女性をお義母さまと呼ばないといけないのかと思うと、ちょっとうんざりしてきた。
「あんたのせいね?」
「落ち着いてください。ここは、往来ですよ?」
「私だけに飽き足らず、私の大事な娘をかどわかして、一体どういうつもりよ!」
ホント、済まないと思うけど、あんた誰?そもそも、何の話?
「もしかして、覚えてないの?」
「すみません、咲良さんのお母さまということ以外は、よくは分かりません」
「私よ!」
私さんですかと問い返したら、受けるかな?
「とにかく、ご挨拶が遅れました。謹んでお詫びします。私はこの度、お母様の娘さんである咲良さんと結婚した、勝呂純と申します。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
誰だか分からないけど、咲良さんの母上殿であることには違いが無い。
一応、社会人としての最低限の礼儀は果たさないとと思ったけど、逆に切れられてしまった。
「あんた!ぼけたの?それとも、私を馬鹿にしてるの!」
「母さん、もうやめて」
「あなたもあなたよ。何で、家に帰って来てくれないの?」
「あんな男の居る家に、私は帰るつもりはないわ」
「もう、別れました」
「え?」
「今はもっと、素敵な方と一緒になったわ」
「いつ?」
「あなたが出て行って、しばらくしてからよ」
「出て行ったのではなく、私は保護されたんですけど?」
「ああ、そうそう。誘拐されたのよね」
「誘拐ではなく、保護です」
「きっと、言葉巧みに騙されたに違いないわ。本当、可哀そうな私の咲良。私の大事な娘」
「あのね、あの男に騙されたのは母さん。そして、私はあの男の被害者。勘違いしないでもらえるかな?」
「そうよね、あなたもあの時は思春期だったもの。素敵な男性を見たら、そりゃあ恋もしたくなるし、つい誘惑したくもなるわよね。ごめんなさいね、気付いてあげられなくて。あの時、きちんと話を聞いてあげられなくて」
「母さん、とうとう頭おかしくなった?」
「そうそう、あなたも冷静になってね。私はね、あの日のことを怒ってないのよ。だって、仕方が無いものね。でもね、お父さんになってくれる人を誘惑して、ベッドに招き入れようとするのって、さすがにダメよ。だって、あなたは中学生だったんだもの。そういうのは、大人になってからにしないとね。私、理解ある親だから」
咲良さんは、盛大にため息を吐いた。
「ね?恋をするなら、こんな先の無い男ではなく、未来のある若い男性にしないと」
基本的に同意したいけど、今はそんなことを言っている場合ではない。
「だからあなたも、目を覚ましてね。なんだったら、私があなたのお相手を探してあげるわ」
これはもう、水掛け論を遥かに超えた、神学論争の様相を呈してきた。
ここまで話しが噛み合わないって、ちょっとびっくりだ。
いえね、私と咲良さんの会話も噛み合ってないんじゃなくて、私が馬鹿なだけですから。
ただ言えることは、どっちがどうであろうとも、当時の咲良さんは中学生らしい。
なら、答えは一つだ。
「母さんは、いつもそう。私の話を、聞こうともしない」
「いつも、聞いているじゃない。どうしたの?前は、あんなに素直だったのに?」
「聞いてない!」
「咲良さん、落ち着いて」
私は、咲良さんの肩に手をやった。
どう見ても、いつもの咲良さんではなかったから。
「今はお互いに頭に血が上っているようですから、お話しでしたら後日にしませんか?」
「あんたには関係無い!だいたい、私を忘れるなんて、ホント最低!」
「だから、あなたは誰なんですか?」
「先輩、母さんは先輩の前の奥さんです」
「は?」
「そうよ」
ええええええええ?
「ひ、久しぶりだね?さ、30年ぶりぐらいかな?」
「25年ぶりです」
そんなに時間が経ったのか。時間って、残酷だなあ。
私の中の君は、まだ20代で通るぐらいに若い女性だったけど。
「とにかく、娘は私が連れて帰ります。今の夫も、娘に会いたがっていますので」
いきなりだ。咲良さんが、その母さんと呼んでいる女性の頬を、思いっきり叩いたのは。
「今度は、その男に私を差し出すつもり!」
「な、なにを?」
「私はね、あんたの前の男に、夜な夜ないたずらされてたんだ。身体をいじられてたんだ。あんただって、覚えてるでしょう?」
「ああ、あれは勘違いだったようね。お母さんも、悪かったわ。だから、話し合いましょう?」
「必要無い。だいたい、あんたはあの時、私に何て言ったか、忘れたの?」
「さあ?」
「お前は淫乱って、そう言ったのよ」
「そんなこと、私は言ってないわ。咲良、あなた大丈夫かしら?みんな、あなたのことを心配しているのよ」
「ほら、都合が悪くなると、そう言って誤魔化す」
「ほら、落ち着いて」
「その言葉で、私がどれだけ傷ついたか、あんたは覚えてもいない」
「ええ、ええ。だからこれからは、きちんとお話を聞くわ。私は、あなたの母親ですもの」
「あいつは、私を犯そうとした。そのあいつを、母さんは庇った。私を、庇わなかった!」
咲良さんのお母さまが、だじろいでいた。
「あんたは、私を裏切った!」
これで、どっちの言い分が正しいか、よく分かった気がした。
いや、分からなくても、私は咲良さんの味方だ。
それが、家族というものだろうから。
「わ、私は、あの時14歳だった。あんなことをされて、死にたいって思ったんだ!」
「ご、誤解だから。み、みんな、あなたの為なのよ?」
こういう常套句を使うような人間を、誰も信用は出来ないだろう。
それは、咲良さんも分かっているだろう。
「そう言えば、何でも通ると思っているの?」
「だって、あなたは私のカワイイ娘なんだから」
「なら、助けてよ。あの時に、私を助けてよ」
「だから、助けに来たのよ。そこのクズのような男から」
また、咲良さんが腕を振りかぶった。さすがに、これはまずいと思ったので、間に入ってしまった。
「イタッ!」
思いっきり、叩かれてしまった。とほほ。
「先輩?」
「ね?もう、やめよう」
頬をさすりながら、涙目になっていた咲良さんに言葉を掛けた。
しかし、あの状況でよく的確に、私の頬を捉えたと思うよ。
身長差を考えたら、ちょっと無理があるような。
ああ、いつもの彼女の癖かな。いやな癖だ。
「で、でも」
「とにかく、咲良さんは、私の愛する大事な妻です」
「あなたには、関係ない。咲良は、私の大事な娘です。返してもらいます」
「その大事な娘を、あなたの男に差し出す為にですか?」
「そ、それは誤解よ。そんなこと、する訳ないじゃない。頭、変になったんじゃない?」
「どう誤解か知りませんけど、咲良さんは私の大事な家族です。親だからと言って、好きにしていいはずはありませんよ」
「分かったわ。こいつのせいね?こいつのせいで、こんなひねくれた暴力娘になったのね?」
知らんよ。もう、好きにして。
「いい、警察に娘が誘拐されたって、訴えるからね?後悔しても遅いわよ」
私の前の奥さんにして、咲良さんのお母さまは、足早に歩き去った。
典型的な捨て台詞だけど、咲良さんにはこの方が堪えたようだ。
「さ、帰ろう」
「帰れません」
「なんで?」
「先輩に、迷惑を掛けました。警察になんて、どうしたら」
「うん?心配ないよ」
警察が、訴えを受理するはずがない。まあ、問い合わせぐらいは来るだろうけど。
「でも」
「そうだねえ。どう償ってもらおうかな?」
咲良さんのどこかすがるような目が、何だかとても愛しく思った。
本当に、可愛いと思った。
「そうだ、今度居酒屋にでも行こう。もう、随分行ってないんだよ。焼き鳥、食べたいなあ」
「先輩」
「うん、なに?」
「どうして先輩は、そんなに優しいんですか?」
「さあね。どうしてだろうね」
「否定しないんですね?」
「だって、私のお嫁さんがそう言ってくれてるんだから、きっとそうなんだろう」
「ありがとうございます」
咲良さんは私の胸にもたれかかり、嗚咽を漏らしていた。
私は、咲良さんの頭を撫でてあげた。
他に、どうしようもないからだ。
「ほら、私たちの家に、帰ろう?」
「はい。だんなさま」
彼女が顔を上げたので、私は咲良さんの流した涙をハンカチで拭ってあげた。
彼女は、笑っていた。
やっぱり、咲良さんは笑顔が一番だと思うよ。




