13 悪しき怪物は迷宮に潜む④
「……!?」
突然俺の腕に、ぞわっと鳥肌が立った。
まるで本能が危険を訴えてくるかのように。
「ごめん、ちょっと待った。……なんだか嫌な感じがするんだ」
並々ならぬ気配を感じながら、俺は静かに身構えた。
(どこから近づいてくる? 右? 左? ……いや違う)
上だ。
「何か来る……」
そのとき――。
突然開け放たれた天井の穴から、長身の人影が、俺たちの前にすたっと降り立った。
姿を見せたのは、やたらに綺麗で、その美しさが何処か得体の知れなさを感じさせるような女性だ。
すらりと長い手で、柔らかく編み込まれ髪を、右肩に流しながら彼女が振り返る。
聖母のごとき微笑みを湛えた口元。
人ならざる者特有の、美しすぎる顔。
体のラインがよくわかる薄手の白いドレスをまとった彼女は、まるでギリシャ神話に出てくる女神のようだ。
ただ唯一、女神にはないものが、彼女の頭からにょっきりとはえていた。
左右に伸びる、禍々しい二本の角だ。
「どこに行くのです? ミノタウロスよ」
彼女の声が、石牢の中に反響する。
俺の背筋を、嫌な汗が伝い落ちた。
こんな寒気、魔王との戦いでも感じたことがない。
なんなんだ、一体。
「姉上……」
(これがミノタウロスの姉……? )
俺は思わず面食らった。
咄嗟にふたりを見比べる。
筋骨隆々とした巨大なミノタウロスは、牛頭人身の存在だ。
一方の彼女は、華奢でほっそりとした人型の女性である。
女にしては背が高い。
でも、それもあくまで人間の範囲での話だった。
(うーん……。 確かにふたりとも角をはやしているけれど……。)
共通点は、むしろ角しか見当たらない。
(あ、義理の姉弟とか……? )
「ミノタウロス、返事をなさい。我が父母より血を分けた、たったひとりの弟よ!」
大仰な仕草で両手を広げながら、彼女がミノタウロスに呼びかける。
(いま「血を分けた」って言ったよな……)
義理の姉弟の可能性は、あっさり潰えた。
「ラビュリントスから出て行こうなど、正気とは思えません。そんなこと、許されるわけがないでしょう」
冷たく澄んだ声が室内に響く。
まただ。
彼女が喋ると、いやな緊張感で、どうにも背筋が寒くなる。
もしかして、相当の手練れなのだろうか。
「ですが姉上……!」
「言い訳は無用。それに父上もお怒りですよ」
「姉上、しかし――……」
「あなたは忘れてしまったのですか? あの忌まわしき過去を、呪縛にも等しい苦痛を!」
(……やっぱり、ミノタウロスには事情があるのか? )
俺は固唾をのんで、ふたりのやりとりを見守った。
できればミノタウロスに加勢してやりたい。
でも事情がわからないので、口を挟みようがなかった。
「さあ今すぐ、新しく出来たお友達に、断りの言葉を伝えるのです。外に出ようとするなど、自分が血迷っていたと認めるのです!」
「……姉上すまない……。それは……お断り致す」
「な!? ミノタウロス……!」
「姉上や父上がなんと言おうと。俺はここを出ていくと決めたのです」
「わ、私は決して許しませんよ。……ミノタウロスが、このおうちから出ていくなんて……!」
ミノタウロスの姉が、すっと息を吸い込む。
俺も思わずごくりと喉を鳴らした、そのとき……。
「そんなのお姉ちゃん……、絶対……ぜーったい耐えられないんだからっ……!!」
「………………………………え?」
(え、ちょ、え!? ……なんだって!?)
「大人になんてならなくていいの! ミノタウロスはずっとここにいて、自立せず、働かず、ずっとお姉ちゃんの傍にいてくれれば!」
彼女はぶんぶんとかぶりを振って叫んだ。
さっきまでの神々しい女神像は崩壊。
もう単なるブラコン姉貴にしか見えない。
「しかし、姉上!」
「父上だってそう言っているのに! うちの大事な長男が、また昔みたいに苛められたら大変だって……! だから、ね……!? ミノタウロスはおうちで、おねえちゃんと一緒に楽しく暮らしましょう?」
「この愚息を案じてくださった父上の思いは痛いほど感じております。姉上のお気持ちも。ですが姉上、私はもう護られるだけの子供ではない。夢があるのです」
(……えーと。 ……なんだこのやりとり……)
「な、何を言っているのです! 外の世界は、お前を虐げる者ばかり。幼いころ、悪しきミノタウロスと石を投げられたこと、覚えているでしょう?」
「あの頃の悪童どもはもうおりません。姉上、あなたが排除してくださった」
「そう。私の役目は可愛いあなたを護ること……」
ぞくり、とした。
妙な気迫に、再び鳥肌が立つ。
「ミノタウロスを苦しめる世界なんていらない。出ていくというのなら、もういっそ世界を滅ぼすわ……」
ぶつぶつと漏らしながら俯く彼女からは、黒い淀みのようなものが立ち込める。
つまり。
ミノタウロスは、過保護な父親とブラコンの姉から束縛されてきた、ということだろうか?
「……すまない、元勇者」
ミノタウロスがぐっと拳を握り締める。
「やはり、俺は共に行けないようだ」
「何言ってるんだ、ミノタウロス。簡単に諦めるなよ」
「だがこれ以上、ごねれば貴公にも迷惑がかかるだろう。姉上は、私を心配するあまり、国を一つ滅ぼしかけたこともあるお方だ。――少しの間だったが……夢を叶えられたような気がして、うれしかった。礼を言わせてくれ、元勇者よ」
「ミノタウロス……。おまえ、本当にそれでいいのか? おまえは農家になるのが夢だったんだろう?」
「ぐぬっ……」
ミノタウロスが、悔しそうに拳を握りしめる。
ほらな、やっぱり簡単に諦められる想いじゃないんだろう?
ミノタウロスの話を聞きながら、俺はちらっと天井を見た。
アリアドネが降りてきたあとも、天井は開け放たれたままだ。
(……警戒心が足りないな)
恐らく天井までかなり距離があるし、脱出できないと思っているのだろう。
でも正直、俺一人であれば楽に脱出できる距離だ。
ミノタウロスを抱えていても、まあなんとかなるだろう。
問題はふたつ。
まず、この姉の存在。
彼女の戦闘能力は未知数だ。
(それに彼女から流れ出る、背筋がゾッとするあの気配……)
あれのせいで、どうにもやりにくい。
問題のふたつめは、ミノタウロス自身。
彼がこの姉のせいで、諦めの気配を見せている点だ。
ミノタウロスに抵抗されたら、さすがに強行突破は難しい。
考えを巡らせながら隙を伺っていると、彼女と目が合った。
「すみません……。挨拶が遅れましたね。私はミノタウロスの姉。アリアドネと申します」
ドレスの裾を指先でつまんで、優雅な一礼。
言動以外の立ち振る舞いは、やっぱり完璧な女神だ。
アリアドネは顔を上げると、笑みを浮かべて俺を見つめてきた。
「我が弟を誑かした憎いお方……。あなたのことは許せません」
ゆったりとした動きで首をかしげ、アリアドネが俺を指差す。
「あなたは弟に外の世界を示した。夢を見せてしまった。なんて余計なことを……。あなたが生きていれば、弟はいずれ外の世界への憧れに飲み込まれてしまう」
腰につけていた短刀を、アリアドネがするりと抜き取る。
銀色の刃が光った。
「姉上!」
まずい。
どうやら臨戦態勢だ。
アリアドネの纏う負のオーラが増し、俺に対して殺気を注いでくる。
(来る……! )
「だからあなたを、消させていただきます……!」
叫びながら、アリアドネが突っ込んできた。
「――悪いな」
短刀による攻撃を交わし、細い手首を掴む。
俺はそのまま彼女を地面に倒し、逆に切っ先を彼女の首元に突きつけた。
ミノ回、次で終わります。




