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私は四角い月を眺めながら、誰の目も気にすることなく、口いっぱいに料理を頬張った。貴族の令嬢としてはあるまじき行儀の悪さだが、ここには私しかいない。建前も、嫌味も、重圧もない。
ただ美味しいものを食べ、夜風を感じる。
これこそが、至福の時というものだ。
「最高……。もう終わるまで、ずっとここにいたい」
締めのデザート枠、タルトの甘さに頬を緩め、幸せなため息をついたその時だった。
――カシャリ。
背後から、硬質な金属が擦れ合うような重い足音が聞こえた。
私はビクッと肩を揺らし、慌てて口の周りを手で拭ってから振り返った。
そこに立っていたのは、大柄な人影だった。
月明かりに照らされて浮かび上がったのは、漆黒の金属で打たれた全身鎧。しかし、ただの無骨な防具ではない。黒い装甲の表面には、まるで芸術品のように緻密で流麗な金色の装飾が施されている。兜は被っておらず、月明かりの下でもはっきりとわかる、艶やかな黒髪と、切れ長で意志の強い黄金色の瞳を持つ青年が立っていた。
体格の良さと、無駄のない立ち姿から、彼が並の兵士ではないことは一目でわかった。ゼリュキア帝国の騎士だろう。我が国の騎士とは比べ物にならないほど、装備の質も纏っている空気も洗練されている。
「こんなところで、一人きりの晩餐ですか? アウレリア・ウァレリウス子爵」
低く、しかしよく響く声。
私は驚きに目を見張った。この巨大帝国の騎士が、取るに足らない小国の貧乏子爵である私の名前と爵位を、正確に把握しているなんて。
「……私のことを、ご存知なのですか?」
警戒心を抑えつつ、私は努めて冷静な声で尋ねた。
騎士は、一歩だけこちらに近づき、軽く頭を下げた。
「ええ。ゼリュキアの船にお招きした大切な客人の名は、すべて頭に入れておりますので」
その言葉には嘘はないように聞こえたが、それにしても一介の騎士が私の顔と名前を一致させているとは恐れ入る。さすがは超大国、社員教育……いや、騎士の練度が違う。
私は手元の空になった皿を背中に隠すようにしながら、小さく微笑んだ。
「それはご丁寧に。でも、騎士様がこんな人気のない甲板で何をしているのですか? 華やかな大広間の警備を抜け出して、お仕事をサボっていてもよろしいので?」
少しばかりの皮肉と冗談を交えてそう言うと、騎士は気を悪くするどころか、フッと短く笑い声を漏らした。
「サボりですか。厳しいですね。私としては、これも立派な任務の一環のつもりなのです。主人からは、我が国にとって有益となる人物の『情報収集』を任せられておりまして」
「じょ、情報収集?」
「ええ」
騎士の瞳が、真っ直ぐに私を射抜いた。
「例えば、自国の古き悪しき因習に囚われず、いち早く精霊砂の価値に目をつけ、鉱山事業を展開している先見の明を持つ若き当主のことなどです」
「うっ」
含みのある言い方に、変な声が漏れてしまった。
「ウァレリウス子爵。あなたの噂は、我がゼリュキアの間でも少しばかり話題になっていました。身分や血筋といった無価値なものにこだわらず、実利と時代の変化に柔軟に対応しようとするその姿勢。多くの国で、そこまで合理的に動ける者はそう多くはありません。慣習があれば尚のこと」
騎士の言葉に、私は内心で舌を巻いた。
ゼリュキアの情報網はどうなっているのだ。自国では公爵令嬢の妨害によって燻っているだけの私の事業を、正確に評価しているばかりか、私のスタンスまで見抜いている。
「なぜ、あなたはそこまで合理的な考え方ができるのですか? お見受けしたところ、あなたの国は……そのような進取の気性を持つには、あまりにも息苦しい環境に見えますが?」
騎士の問いかけは、純粋な好奇心と、少しの探るような色を含んでいた。私は前世の記憶を持っていて、資本主義社会で揉まれてきたからだ、なんて言えるはずもない。私は少し視線を泳がせ、月を見上げながら、それらしい理由をひねり出した。
「……特別なことではありませんわ。ただ、生き残るために必要なことを選んでいるだけです」
「と言いますと?」
「我が家は裕福ではありませんから。過去の栄光や血筋の自慢だけで、お腹は膨れません。時代は変わっていきます。馬車が列車に変わり、剣が銃に変わっていくように。変化を恐れて古い箱の中に閉じこもっていれば、いずれ必ず置いていかれる。私はただ、自分の足で立ち、自分の家を守るために、一番確実だと思う道を進んでいるだけです」
前世で倒産していく古い企業をいくつか見てきた経験から出た、半ば本音の言葉だった。建前として、亡き父の教えだと言い添えようかと思ったが、騎士の真剣な眼差しを前にして、それはやめた。
騎士は私の言葉を聞いて、少しだけ目を細め、やがて深く頷いた。
「……なるほど。血統や建前ではなく、現実の先を見据えている。あなたの仰る通り、変化を恐れる者に未来はありません。素晴らしい見識ですね」
「買い被りすぎですわ。現実は、自国で嫌がらせを受けて身動きが取れない、しがない貧乏子爵ですもの」
私は自嘲気味に笑った。
しかし、この騎士と話していると、なぜだか不思議と心が軽くなるような気がした。
ゼリュキア帝国の騎士。商人国家であるあの国では、軍隊の多くは実力主義の傭兵で構成されていると聞いたことがある。ならば、目の前にいるこの黒と金の騎士も、おそらく平民の出なのだろう。貴族特有の鼻持ちならないプライドや、見下すような視線が彼からは一切感じられない。
「ところで……騎士様も、ああいう堅苦しいパーティーは苦手なのですか?」
私が大広間の方を顎でしゃくって尋ねると、騎士は少しだけ虚を突かれたような顔をした。それから、肩の力を抜いて、ふうっと息を吐いた。
「……嫌いではありません。人々の欲望や思惑が交差する場を観察するのは、学ぶことも多いですから。どちらかと言うと楽しいです。ですが……正直に言えば、酷く疲れますね。本音を隠し、腹を探り合い、中身のない美辞麗句で飾り立てられた会話を延々と聞かされるのは、骨が折れる。なによりビジネスとして、効率が悪い」
その言葉に、私は思わず吹き出してしまった。
「ふふっ、あははっ! 全く同感ですわ! 私もさっきまで同じことを考えていました。本当に、あれは精神を削られますよね」
「ええ。戦場にいる方がよほど気が楽だと思ったことは、一度や二度ではありません」
騎士もまた、皮肉っぽく笑いながら同意してくれた。
平民出の傭兵上がりの騎士と、自国で爪弾きにされている貧乏子爵。立場は全く違うはずなのに、建前だらけの社会に対する「疲れ」という一点において、私たちは見事に意気投合していた。
それまで私の周囲にいた人間は、フラウィア公爵令嬢のように私を蔑むか、あるいは関わり合いになるのを恐れて距離を置く者ばかりだった。だからこそ、こうして本音で言葉を交わせる相手がいることが、私にはとても新鮮で、そして心地よかった。
「そういえば、申し遅れました。私はユリウスと申します。一介の騎士ですが、以後お見知りおきを」
「ユリウス様ね。よろしく、ユリウス様。私はアウレリアよ。せっかくの静かな夜だもの、お互い、肩書きや建前は抜きにして少しお話ししない?」
私がそう提案すると、ユリウスは黄金色の瞳を優しく細め、微かに口角を上げた。
「……ええ、喜んで。アウレリア嬢」
角張った四角い月が照らす静かな甲板で、私と黒の騎士は、その後も時間を忘れて気さくに語り合った。
ゼリュキアの最新の潜水艦の話、私の鉱山で採れる精霊砂の可能性、そして時折飛び出す互いの国に対するちょっとした愚痴。
パーティーの喧騒から逃れて偶然出会ったこの時間が、私の運命を、そして傾きかけていたウァレリウス家の運命を大きく変える始まりになることなど、この時の私はまだ知る由もなかったのである。




