番外編 ディクリーヌの恋−2
それからしばらくしたとある日の夕方、それは起きた。
「……お疲れ様でした。ではまた明日」
「……私もそろそろ失礼」
「……では」
皆がぽつりぽつり、と帰っていき、残ったのは私ひとりだった。メルヴィンはタバサ女史に頼まれた仕事で、一日中外に出ている。
寮生活は快適だった。さすがに貴族家の暮らしとは違うけれど、衣食住に渡って何の不服もない。けれど多くの人間が集まっているとあって、当然噂話には事欠かない。私はその格好の的だった。
『あの人の父親って巨乳好きのせいで身を滅ぼしたのよね。あの見た目だもの。あの子もきっと遊んでるのよ』
『いっそ父親のお気に入りの店で売れっ子になれば良かったのに』
皆おもしろおかしく私のことを噂しているのは、当然知っていた。それに大分慣れたつもりだったけれど。まったく堪えないかと言えばそんなことはない。だから仕事に打ち込んでいれば寮の皆と顔をあわせずに済んで一石二鳥だったのだ。
けれどこの日に限って言えば、その判断は間違いだった。
ガタンッ……!! カツンッ……。カツンッ……。
ふとドアが開いて誰かの靴音が聞こえた気がして、ハッと振り向く。けれどそこに人の姿はない。気のせいかと座り直した時。
「……っ!? んぐっ……!! な……、だ、誰っ……!?」
背後から急に口元を覆われ、体の自由を奪われた。突然のことにパニックになりながらも必死に抵抗するけれど、その力は強く振りほどくこともできない。
(ちょっと……!! 何なのっ!? こ……怖い……!! 誰か……、誰かっ……!!)
声を上げたくても上げられない。両手も拘束されているせいで使えない。夜も更けた職場には誰もいない。いつもいるメルヴィンも。
(助けて……!! 助けて……、誰か……!! メルヴィン!! ……メルヴィン! 助けてっ!!)
どうしてその名前が浮かんできたのだろう。不意に頭にメルヴィンの顔が浮かんだ。ここにいないメルヴィンが、助けにきてくれるはずもないのに――。
「何をしているっ!! 今すぐにその人から離れろっ!!」
バアアアアアァァァンッ!!
ドガッ!! ……バキッ!!
「……っ!?」
ついていたはずのデスクランプが派手な音を立てて床に落ち、真っ暗闇になる。誰かがかけ込んできて私をつかまえていた人間とどうやら格闘しているらしいと気付き、慌ててランプを拾い上げ辺りを照らしてみれば。
「メルヴィン……!? どうしてあなたがここにっ……!?」
思わず驚きの声を上げた私に、メルヴィンが叫ぶ。
「説明は後回しっ!! そこの紐を取ってくれ!! 早くっ!!」
「は……はいっ!!」
言われるままに書類綴じ用の丈夫な紐をメルヴィンに手渡す。いつのまにか大柄な男を抑えつけていたメルヴィンが、その紐で手早く男の手首を縛り上げた。その手つきはいつも書類仕事ばかりしているようには到底思えないほど力強くて、なんだかドキリと胸が跳ねた。
(一体どうなってるの……? なんでここにメルヴィンが……?)
何がどうなっているのかさっぱり分からず、呆然と目の前の状況を見守っている間に男は床に伸びていた。そして。
「……怪我は? 何もされていませんかっ……!?」
こちらを心配そうに見上げるメルヴィンと目が合った。そこに浮かんだひどい焦りと安堵の色にまたしてもドキリとする。
「大丈夫なのかっ!? ディクリーヌ!!」
「えっ!? え、ええっ!! だ、大丈夫よ……。何も……」
急に呼び捨てにされた驚きも相まって、思わずぽかんとメルヴィンを見つめる。するとメルヴィンは「はぁーっ……。良かった……」と安堵のため息をもらし、床の上に座り込んだのだった。
「あのー……、なぜあなたがここに……? 今日はタバサさんに言われて外に出ていたはずじゃ……」
「……」
いや、その前に言うべきことがあった。
「その……、なんだかよく状況は飲み込めないのだけれど……。あり……がとう……。助けて……くれて……」
なぜこういう時、もっと素直にすらすらとお礼が口をついて出てこないのだろう。迷惑をかけた申し訳なさや自分のふがいなさがつい先に立って、素直になれないのはなぜなのか。つくづく自分が嫌になる。なんてかわいげがないのだろうと。
するとメルヴィンは一瞬驚いたように目を見張り、そして。
「……助けてって言えたじゃないですか。それに……名前を呼んでくれた」
「……え??」
口に出していただろうか。そう言えば口元を押さえられながらも何か叫んだ気もするけれど、夢中だったからよく覚えていない。でも言われてみれば確かに呼んだ気もする……。『メルヴィン、助けて』と。
「えっと……、私……」
急に恥ずかしくなって慌ててメルヴィンから目を逸らした。けれどメルヴィンはそんな私のそばはつかつかと歩み寄ると、私をいきなり抱きしめたのだった。
「なっ……!! なななな……何をっ……!?」
その抱きしめ方は決して男女のそれではなく、心を深く通わせ合った家族や友人同士がするようなほっとするようなもので。そのほわりとした優しさに、思わず気が抜け――。
ポトリ……、ポトリ……。
「……!?」
気がつけば私は泣いていた。
突然自分の目からこぼれ落ち始めた涙に戸惑い、慌ててメルヴィンの腕を振りほどこうとする。けれどメルヴィンはそれを許してはくれなかった。むしろもっとぎゅっと力を込めて私を抱きしめたのだった。
ポトリ……。ポトッ……。ポトッ……。
どんどん溢れ出す涙に加え、しまいにはしゃくり上げ始めた自分を必死に抑えようとする。けれどちっとも涙腺は言うことを聞いてくれず、抱きしめるその強さとメルヴィンから伝わる体温とにますます涙は溢れ出していた。
「……本当にあなたは……、しょうのない人ですね。こんなになるまでため込むなんて……。いいから全部今ここで吐き出してください。そうすればきっと、楽になれますから……」
メルヴィンの声がとんでもなく優しく、そしてどこか甘い。あたたかくて甘いココアみたい。うっかり子どもの頃のように母の膝にすがりつきたくなるような、そんな気持ちになってしまう。
「……ふ、うぅ……。泣きたく……なんて……ない……のに……。ふぅ……っく……」
みっともない。もう大人になったのに、こんなふうに泣きじゃくるなんて。
「……私がいます。あなたに何かあったら、私が助けます。私だけじゃない。あなたを守りたいとか力になりたいと思っている人間は、あなたが思う以上にたくさんいます。だからもうひとりで抱え込むのはやめてください……」
「一体何を言って……。そんなの……」
メルヴィンに頭をなでられ、なだめるように優しく背中をポンポンと叩かれ。
気が抜けてしまう。ずっとずっと張り詰めていた気が。ひとりでなんとか生きていかなくちゃって、ずっとピンと糸を張っていたのに。こんなことをされたら、気が抜けて自分が駄目になってしまう。
でも、嬉しかった。あたたかくて、ほっとして、こんな気持ちは本当に久しぶりだった。このまま眠ってしまいたい、そう思うくらいに。
そしてまさかと思うのだけれど、この後私は本当に意識を手放して眠ってしまったらしく。
目が覚めてみたら、私は寮のベッドの上で寝巻き姿で横になっていたのだった――。




