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はぁ……、はぁ……! はぁ……、はぁ……‼
隣を走るディクリーヌの息が切れ足元もおぼつかなくなっているのを見て、声をかける。
「ちょっと大丈夫? もうちょっと頑張って! 出口までもう少しだからっ」
男が追いつく気配はないけれど、外に出て誰かに助けを求めるまでは油断できない。懸命にディクリーヌを励ましながら王宮の中を走る。
「もう……無理よ……。あなた……は、先に行って。どうせ私はあの男と同じ運命を辿ることになるんだから……。それに私は……あの男の娘なんだもの。それに……あなたのドレスに紅茶をかけたの、私だし……」
その言葉に、私はぴたりと足を止めた。
「……あなたがあの男に言われて、私を化粧室に向かわせるように仕向けたってこと?」
ディクリーヌは荒く息を吐き出しながら暗い顔でこくり、とうなずいた。
「そう……。あなたが……。あなたも私を蹴落として王太子妃候補になりたいの?」
もし本気でそんなことが功を奏すると思っていたのなら、ディクリーヌも父親同様大馬鹿者だ。けれどディクリーヌは驚いたように目を見張り、大きく首を横に振った。
「……まさか! ダルコ家は家格も足りないし、取り柄もなく優秀でもない私は候補にすら挙がるわけないわ。公爵家やら侯爵家の令嬢たちが王太子妃になることは国中が知っていることよ?」
「なら、どうしてあんな男の言うことを聞いたの……? いくら父親だからって、こんなことうまくいくわけないってわかってたでしょう? なのにどうして、私のドレスを汚して罠にはめようと手を貸したの?」
私の指摘に、ディクリーヌは苦々しい顔でうつむいた。
「私は……私は一日も早くあの家を、あの男の元から逃げ出したかったのよ」
「逃げる……?」
ディクリーヌはこくりとうなずいた。
「あの家を出れるなら、王太子妃だろうが他の誰が相手だって良かったの。でも……父は王太子妃がダメなら私をあのベルナド商会に売るといいだして……。それで……」
「ベルナド商会って……、まさかあの悪名高い……⁉」
その名前は聞いたことがある。表向きは普通の骨董品やら貴金属やらを売買していると見せかけて、実はその裏で人身売買を行っているとかなんとか。売買されるのは、いずれもまだ成人にも満たないような年若い女性ばかり。借金で首の回らなくなった家の娘とか、貧乏な家の娘とか。
そんな女性たちを高位の貴族や金持ちたちに売りつけるのだ。もちろん何度も捜査の手は伸びているのだが、それらを買うのが権力や大金を持っている客たちばかりとあって、なかなか証拠がつかめないのだ。皆自分の保身が大事で、口を割らないのは当然だ。
けれどまさか自分の娘であるディクリーヌを、よりにもよってベルナド商会に売ろうとしていたなんて、と言葉を失った。実の親にそんなことを言われ、それが嫌なら言うことを聞けと脅されては確かに言いなりになるより仕方ないと思えた。
「ひどい……。娘を王太子妃にするために姑息な手を使ってライバルを排除しようとするのもあきれるけど、実の娘をそんないかがわしいところに売り渡すだなんて……! 一体娘を何だと思ってるのよっ‼」
思わず拳を握りしめた私に、ディクリーヌがあきらめたように小さく笑った。
「あの男にとっては、私はただの道具なの。自分の欲を満たすためのお金を手に入れるための、ね」
「でもダルコ伯爵家って、確かそれなりに広い領地もあるしお金に困っているなんてことないはずじゃあ……。なぜそんなにお金が……? 欲を満たすためって一体どんな……?」
「……」
ディクリーヌは唇を噛み締め、黙り込んだ。どうやらのっぴきならない事情があるらしい。けれどダルコ伯爵から逃げている今、のんびりと話をしている暇はない。
「……とにかく、話はあとで聞かせてもらうわ。今はここを出るのが優先よ。じきパーティもはじまるわ……。その前になんとかして誰かに助けを求めないと……」
もう日は傾き始めていた。デビュタント会場の方からは楽隊の練習する音や、準備する騒がしい音が聞こえている。急がなければ、デビュタントに間に合わない。
私の心は沈んでいた。あの男の仕組んだ罠にかかったおかげで、とんだことになってしまった。せっかくの大切な日だったのに。
そこから先は無言で進んだ。そしてようやく王宮の裏口にある、馬車の待機場所へとたどり着いたのだった。そしてそこで私は、世界中で最も信頼できる会いたくてたまらなかった人の姿を目にしたのだった。
◆◆◆
その頃、王宮の中ではダルコが力尽きていた。
「はぁ……はぁ……。ふはっ……、ふぅぅぅっ……! あの小娘……、なんと小憎らしい。一体……どこへ……」
日頃の不摂生のおかげででっぷりと脂肪を蓄えたお腹で、体力自慢で足の早いラフィニアに追いつけるわけもなかった。
ダルコ伯爵はつばとともに荒い息を激しく吐き出しながら、よれよれの格好で床にへたり込んだ。
「くそっ……! せっかくのチャンスだったものを……、まさかディクリーヌが裏切るとは……。私は父親だぞ……! 胸しか取り柄のない使い物にならん娘め……」
その口からこぼれ落ちるのは、とても実の娘に向けるものとは思えないほど薄汚れた言葉ばかり。
「まぁいい……。どうせあんな小娘が何を言おうと証拠はないんだ……。こうなったら、ディクリーヌはやはりベルナド商会に売るしかないか……。今すぐ金を工面しないとダルコ家は破産だからな……」
ダルコ伯爵はそうつぶやくと、黒い笑みを浮かべたのだった。




