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背後から飛んできた鋭い声に、私はびくりと肩を震わせ振り返った。
声の主は、でっぷりと突き出た腹をした貴族の中年男だった。身なりはいかにも貴族といった感じでそれなりに整っているものの、様になっているとはとても言い難い。気のせいだろうか。つい最近その面差しに良く似た顔を見かけたような気もする。
男は私の全身をじろじろと眺め渡し、そして。
「……お前、今夜デビュタントに出るどこぞの娘だろう? 謁見に行くつもりなら、私が案内してやろう。ついてこい」
そう言うと、私の腕をむんずとつかんだのだった。
「ちょっ、ちょっと待って……! 離してくださいっ! 私は誰かにここに閉じ込められて……。衛兵のいる場所を教えてくださればそれで……」
けれど男はこちらを一瞥すると。
「くだらない話をしている暇はないぞ? 大事なデビュタントで王妃との謁見に遅れるなど粗相もいいところだ。娘がそんな粗相をしたとあっては、お父上の今後の仕事にも差し障りが出るのではないか?」
その言葉に、今自分が置かれている状況を思い出しハッとした。確かに王妃との約束を無断で反故にしたとあっては、いくら陛下に信頼されているという父でも問題になるかもしれない。
「わかったら、いいからさっさとついてこい‼ 私が案内してやると言っているのだからなっ」
その尊大な物言いにカチンときながらも男は、焦る私に考える隙を与えずさっさと先を歩き出したのだった。
カツカツカツカツ……。カツカツカツカツ……。
男の後を無言でついていきながら、厄介なことになったと焦っていた。
(おかしい……! やっぱり変よ。王宮の中なのに、衛兵がひとりもいないなんて……)
行けども行けども、衛兵も他の貴族の姿も見えないことに焦りを感じはじめていた。そしてはた、と気がついたのだった。もしかしたらここは、デビュタントと謁見用に開放された棟ではないのかもしれない、と。
そんな場所になぜ自分がいるのか。それはきっとあのメイドが自分を薬で眠らせるか何かして、ここに監禁しようとしたのだろう。けれど一体なぜ?
ノートス家は貴族家の中でそこまで高位でもないし、権力もない。中立的な立場を貫いていることを評価されて、停戦調停の役目に抜擢されただけだ。つまり、権力とかお金といったキラキラしたものとは無縁だった。となると、身代金目的の誘拐という線はない。そもそもわざわざ王宮で誘拐なんて悪巧みをする必要がない。衛兵が至る所にうじゃうじゃいるのだから。
引っかかるのは、この男がさっき口にした言葉だ。口ぶりからして、私がノートス家の令嬢であることを知っているらしい。となればもしやあのメイドとこの男は、グルではないのか。となれば――。
(とにかくこの男から離れて、どこか人通りのあるところへと出よう。いくら解放されてない棟でも、外に出れば衛兵や官吏のひとりくらいいるに決まってる……‼)
そう決断して、なんとか男を撒こうと辺りを見渡したその時男がピタリと足を止めた。そして。
「ここだ。中に入るがいい」
そこは何の変哲もないずらりと部屋のドアが並んだ内の一室だった。嫌な予感に、背中をつうっと汗が伝った。これはもしや――。
「なんでこんなところに? ここが謁見の場なわけないわよね? ……あなた、一体誰……? こんなところに私を連れ込んで一体どうする気⁉」
顔を引きつらせながらも鋭くにらみつけた私に、男の口元がにやりと歪んだ。
「いいから言うことを聞け! おとなしく中へ入るんだ……‼ その理由はそのうちに分かるさ……。くくっ……!」
男のねっとりとした口ぶりに、反射的に危機感を抱いて弾かれたように踵を返した。けれど一瞬の差で、男が私の腕をつかんだ。そして苛立った様子で無理やり私を部屋の中へと押し込もうとしたのだった。
「ちょっと……! 離してっ。離しなさいったら‼」
「ええいっ‼ くそっ、暴れるなっ! いいから黙って言うことを聞けっ! ここでしばらく黙っていれば、そのうち自由にしてやるっ‼」
「そのうちっていつよっ⁉ そんなことしてたら、大事なデビュタントが終わっちゃうじゃないのっ‼ 私には絶対に果たさなきゃいけない大事な約束があるんですからねっ。だから離してっ‼」
男の手を振りほどこうと全力で暴れ、抵抗する私と男がにらみ合う。
(冗談じゃないわ……! 私は一刻も早くカインに会わなきゃいけないんだからっ、こんなところで油を売ってる暇はないのよっ! それにこんな男と部屋に入るところを誰かに見られたら、カインに思いを伝えるどころじゃなくなっちゃう!)
一歩でもこの男と同じ部屋の中に入ったら、私の貴族人生は終わる。結婚前の令嬢が男と部屋に入ったなんて噂が流れたらあっという間に傷物確定でノートス家の存続危機に陥ってしまう可能性だってある。そうなったら、カインに思いを伝えるどころではない。
予想に反して力強く抵抗する私に驚いたのだろう。男は額からダラダラと汗を垂らしながら、荒い息を吐き出しながらうめいた。
「く……令嬢のくせに馬鹿力め……! いいから大人しく中に入れっ。おとなしくしていれば、余計な手は出さんっ」
「お断りしますっ‼ 大声を出すわよっ⁉ いくらここには誰もいないからって、声は案外遠くに響くんですからねっ!」
すると男はいやらしい笑みを浮かべ、ねっとりとした嫌な笑い声を上げた。
「はっはっはっはっはっ‼ あぁ、出せるもんなら出してみろっ! 今日は皆デビュタントの準備に追われて、誰もここには来るはずがないからな!」
「な、なんで……、そんなこと……⁉」
男の目が不気味に光った。
「お前のような小娘は知らんだろうがな。ここは男女の密会場所として使われている秘密の部屋なのだよ。暗黙の了解で、今ぐらいの時分は誰もきやしない。その上今日はデビュタントとあって、衛兵は皆向こうの棟にかり出されているからな!」
「男女の……密会っ……?」
男の下卑た笑いに、ぞくりと悪寒が走った。
絶体絶命とはこのことだ。せっかくカインの運命を変えられたのに、今度は自分にこんなピンチが訪れるなんて――。
(まずいっ……! 本当にまずいわ! 考えなきゃ……。なんとかこの状況を打開する方法を……)
そうだ。今日は前世の私にとっても今世の私にとっても、大事な大事な日。こんな男に邪魔させてなるものか。
ふんっ、とお腹に力を入れ、男を見据えた。そしてこれまで出したことのない低い声で男に告げた。
「……そこをどいて! あなたみたいな男に、絶対に邪魔させないんだからっ! 今日はルナと私の大事な日なんですからねっ‼」
「ルナ……? 誰だ、それは……。……うごっ‼ なっ、何をするっ‼ この女っ」
廊下中に響き渡るような大声で叫び、私は渾身の力で男に体当たりした。その衝撃に男の体が一瞬よろけたものの、なんとかふんばった男は逃げ出そうとした私の髪の毛をむんずとつかんだ。
「い……痛っ‼ ちょっとっ、離してっ……! 離しなさいったら!」
いくら小娘とは言え、日頃から畑仕事やら魚釣りで筋肉も反射神経も存分に鍛えてある。こんな脂肪の塊のような腹をした中年男に捕まるほど、か弱いつもりはない。が、どうにもパニエやら履き慣れない華奢な靴のせいでうまく身動きが取れない。
「逃がすか……! お前に王妃のところへ行かれては困るのだっ! 王子の相手はどうあっても私の娘でなくてはならんのだっ! そのためならお前のような小娘のひとりやふたり……‼ 邪魔者は大人しくここに入っていろっ」
「馬鹿言わないでっ! なんであんたみたいな男にこんなところで手籠めにされなくちゃならないのよっ……! 絶対に嫌よっ‼ 死んでも嫌っ‼」
きっと男はこの部屋に自分を閉じ込め、私を傷ものにするつもりなのだろう。娘がどうのとか言っていたけれど、とにかく男の目的は私をひどい目にあわせることのようだし。
絶対にそんなことを許してはなるものかと歯を食いしばり、全力で抵抗した。
「はぁっ⁉ なんで私がお前のような貧相な女に……! いいか、私の好みはお前のような棒っきれのような女じゃなく、もっとこう……豊満な……!」
「誰が貧相よっ‼ 失礼ねっ」
どうにも話がかみ合わない気もするが、とにかく今はここから逃げるのが先だ。こうなったら靴の尖った踵で、男の頭を叩き割ってやろうかと思ったその時。
「お父様っ、乱暴は止めてっ! その人を離してっ‼」
突如背後から近づいてきた気配と薄っすら聞き覚えのある声に、弾かれたように振り向いた。
「……あああっ⁉ あなた、控室で私に染みがついてるって教えてくれたあの時の……!」
そこには、控室で声をかけてきたあの令嬢が鬼のような形相をして立っていたのだった。




