準備期間
それからしばらくの間、私はこの『時の無い塔』で『記憶の鏡』に映るこの世界の動画を見ながら光の講義を受け、必要なことを色々と学んだ。
時の無いというのは伊達ではないようで、自分の爪も髪も伸びないことに少し経ったら気がついた。
食事も必要無いのかと思ったら、この世界に慣れるためだと言われ、講義の合間に食事や風呂や排泄が挟まれた。
風呂はシャワーもあるし普通に使えた。シャワーホースは高山植物の茎で出来ているらしい。蛇口は金属で、そのままだと体温程度のぬるま湯が出る。冷水を出したければ蛇口の後ろのレバーを倒す。街なら庶民の家にも風呂はあるそうだ。
トイレは天井近くに備え付けられた貯水タンクから下がる紐を引っ張ると流れる水洗トイレだった。便器は洋式で素材は陶器。
食事は知らない料理も多かったが受け付けない味のものは今のところ無い。食材は地球と同じものが多く調味料も醤油っぽいものや味噌などもあり、向こうの料理が食べたくなれば自分で作れそうだ。
食事の度に、とても良い匂いの透明な銀色の液体をティーカップに注いで渡されるけれど、それは塔から出たら飲めないもので、この世界の免疫を付けるためのものだから残さず全部飲むように言われていた。
この世界はここの公用語では『ワンブック』と呼ばれ、球体ではなく開いた一冊の本のような形状をしていると言われている。光が『神視点の映像』と見せてくれた遥か上空から見下ろした画像も、本当に真ん中あたりで開いて置いたハードカバーの本みたいだった。
世界の端まで行っても落ちることはなく、反対側の端から出てくることになるらしい。
飛ぶことができる生き物は色々と存在しているけれど、そこまで高く飛べるわけでもなく、飛行技術も発達していないので、世界の枠から出た者も無く、実際に本のようなこの世界の形を見た者もいないらしい。
ワンブックには、一つの大陸と大きな島があり、他に散らばる小島は無人島だ。
大きな島は魔人族が主に暮らす島国『水晶国』。言語は公用語だが、固有名詞に用いられるのは地球の漢字に似ている。公用語は英語に似ていると思う。魔人族だから凶暴とか残忍ということは無く、体の造りや習慣が人間と異なるだけなので、ごく普通に共存している。ワンブックで流通している宝石類はほぼ水晶国で産出されている。
大陸には地球の人間と同じような人族、様々な獣の特徴を持つ獣人族、鳥のような翼を持つ翼人族が存在する。
人口としては人族が最も多く、王を戴き王の数だけ王国を造って暮らしている。寿命が短い分、繁殖力が高いのが特徴。英語に似た公用語を使うが、王族ごとに伝わる固有言語も存在する。それらはヨーロッパ各国の言語に似ている。人族の見た目は地球の西洋人ぽい。奇抜な髪や瞳の色の人族はいない。
獣人族のほとんどは、『仙境』と呼ばれる西側の山脈に住んでいる。仙境と言っても不思議な力が働いていることもなく、山が高いから空気が薄くて天気や時間帯によって霧がかかりやすく、人族が迷い込むと死んだり幻影を見やすいのでそう呼ばれているだけらしい。言語は公用語だけど魔人族と同じく固有名詞は漢字に似ている。
翼人族は仙境近くの森の中に『翼の里』という集落を造って暮らしている。こちらは里全体を結界で覆い、余所者が入り込めないように隠れ住んでいる。寿命は非常に長く繁殖力が低く数が少ない。里の外に出ることは稀で他種族との交流もほぼ無い。使う言語は日本語に似ている。
ワンブックには他にも妖精人族というエルフっぽい感じの種族が存在したが、二十数年前に何処ぞのナルシストな人族の王子が、「私より美しい存在など滅ぼしてくれるわ」などとイカレタことを言い始め、呪詛に特化した異常能力を全力で駆使して種族丸ごと滅ぼしてしまったらしい。
一応この世界のトップシークレットらしく、歴史上は、妖精人族だけが罹患する不治の病で瞬く間に妖精人族が滅亡した、ということになっているそうだ。
そのイカレタ王子は地球に転生して翡翠って名前でホストやってたみたいだよ。No.3とか微妙な売れ具合だったけど。なんでそんなのの姿と名前を借りちゃったかなぁ。偶然なんだろうけど。
ここを出るときには新しい姿と名前を作らなきゃな。
この世界の住民の常識として使えるはずの補助系の魔法は、とりあえず困らない程度には習得した。
一般的には補助系の魔法と言えば肉体強化とか魔道具の操作くらいのものだけど、私は元々持っていた能力の延長ということで、見た目の姿を変えることができるようになった。
変えた姿にも全身ちゃんと実体があるから見ただけでバレることは無いらしいけど、姿を変えられるだけで、その姿に見合った能力が備わるわけではないから能力は全部自前で用意しないといけないし、他人の姿を借りて模倣を失敗したらバレる。
けど、チート能力は与えられないと言っていたのにこんな魔法が使えるようにしてくれたのはありがたい。
「そろそろ外に出しても生き残れそうだね」
講義の後にいつもの不思議な液体を飲んでいたら、光が革のウエストポーチを手に近づいてきた。
「仕事の説明をしてくれるの?」
向かい側に腰を下ろした光が優雅に微笑む。
「最初にしてもらうのは、勇者の無力化」
「勇者? そんなのワンブックにいたっけ?」
「物語の登場人物になら」
「物語の中に入り込めと?」
「まさか〜。ラノベじゃあるまいし」
お前が言うな。
ヘラヘラ笑う光は私の嫌そうな顔を満足するまで眺めてから、記憶の鏡を操って十代後半くらいの人族の女性を映し出した。
「コレが、自称勇者」
「自称?」
「まぁ、詐欺師だよ。華奢な少女なのに異様に戦闘力が高いから故郷では嫁の貰い手が無くてね。勇者という付加価値を付けて王子様ゲットの旅をしている」
嫁の貰い手が無い適齢期の女性が理想の王子様探しをすることに何か問題があるのだろうか。
「あー、説明不足だったかな。彼女がゲットする気なのは本物の王子様なんだよね。で、王子様と縁を作るために、その戦闘力で隷属化した魔物を使って行く先々で外遊中の王族を襲わせているんだ」
アグレッシブな婚活だな。
「婚活だけなら目を瞑ってもいいんだけど、魔物がピンポイントで王族を狙うから指示してる誰かがいるという疑念が各国の王族の間に生まれてね。人族の王族が無差別に狙われるから、獣人族か魔人族がやってるんじゃないかって話になって、種族間の戦争が起こる可能性が出てきた」
婚活辞めさせないとなぁ。
「そうだね。てことで、装備あげるから頑張って」
光がウエストポーチをこちらへ押しやった。
これが全装備ってことは、見た目よりたくさん入るマジックバッグ的な何かなのかな。
「マジックバッグとは少し違うかな。この世界に存在する物なら、生き物以外は何でも取り寄せて取り出せるから」
なんか地球の未来の青色ロボットのポケットみたい。てか、チート能力は与えられないのにチートアイテムは大丈夫なんだろうか。
「あははー。ソレ、僕の私物だから君以外が触ると祟られて死ぬから気をつけてね。あと、そのくらいのアイテム持ってないと多分、君死んじゃうし」
黙って貰っておこう。
「そうそう。僕には素直にねー。あと、僕は外に出るわけにはいかないから、君の部下として僕の下僕を貸すね」
下僕・・・。深く考えるのはやめよう。それより渡された禍々しいペンダントの意味を考えよう。
「それは、破壊と再生の邪神像のペンダント。身につけてると何時でも何処でも呼び出せるから。腐っても邪神だから君の部下程度には役に立つと思うよ」
気にしない。細かいことは気にしない。
「僕、君のそういうところ、すごく気に入ってるよ。じゃあ、行ってらっしゃい」
ウエストポーチとペンダントを身につけると、光が手を振る残像のあとには、そこそこ整備された街道と遠くに城壁に囲まれた街並みが見えた。